« 戊辰の戦をこえ明治・大正を剛く生きた桑名藩士、加太邦憲(三重県) | トップページ | 空襲、地震・大津波(静岡県・愛知県・三重県) »

2020年6月27日 (土)

G・E・モリソン、柴五郎、東洋文庫

 コロナ禍で自粛中の都県境い往来が自由になった。ニュース画面は観光地の家族連れの笑顔を映し出すが、マスク姿の子らの安全を願わずにはいられない。今は旅行などままならない。そうなると、かつての旅先がよみがえる。
 シンガポールの町歩はき楽しかったが、見学したかった博物館『思い出の湘南博物館-占領下シンガポールと徳川侯』(中公新書)は休館で残念だった。

 オーストラリアではシドニー湾クルーズ、市内散歩、博物館見学は面白く図書館がまたよかった。シドニーの図書館はイギリス植民地時代の建物らしく堂々としていた。円形の吹き抜けの館内、ぐるりと書架がめぐり、どの階も蔵書がびっしり。英語はサッパリだが、雰囲気を味わえただけでよかった。
 その後、東京駒込の「東洋文庫」を見学する機会があり、壁いっぱい天井まで届く書架を見上げ、シドニーの図書館を思いだした。世界に誇るアジア研究図書館「東洋文庫」の始まりは、オーストラリア人G・E・モリソン収集の「アジア文庫」である。

 モリソンを知ったのは、シドニー在住、ウッドハウス瑛子著『日露戦争を演出した男』に、日本公使館付陸軍武官柴五郎中佐が登場、ロンドンタイムス記者モリソンとの交流、清国北京変での活躍が描かれていたからである。
 その柴中佐が『ある明治人の記録』柴五郎とわかり、卒論「柴五郎とその時代」を書いた。その資料集めのなかで会津にはまり、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』さらに、“けやきのブログⅡ”を書きはじめた。それから『明治の一郎・山東直砥』へとなるが、前置きはこの辺、モリソン・柴五郎・東洋文庫つながりを抜き出してみる。

  1859安政6年、柴五郎、会津若松城下に生まれる。
    家族は、会津藩士の父、藩の公用人をつとめた柴太一郎、衆議院議員で『佳人之奇遇』作者の東海散士こと柴四朗、ほかに兄二人。そして、戊辰戦争さなか自刃して果てた祖母・母・姉妹5人の計11人。

 1862文久2年、G・E・モリソン、オーストラリアのヴィクトリア州ジロング市で、スコットランド系の裕福な家庭に生まれる。
  ?年、父親が創立、校長のジロング高校卒業。父の希望でメルボルン大学医学部入学。

 1869明治2年、柴五郎、戊辰の戦に敗れ、父や兄とともに東京へ護送される。
 1877明治10年、西南戦争。このとき、柴五郎は陸軍士官学校生徒。
 1879明治12年、柴四朗アメリカ留学。ハーバード、のちペンシルバニア大学卒業。ちなみに、留学費用は三菱から。
 1880明治13年、柴五郎、士官学校卒業。陸軍砲兵少尉。翌年、大阪鎮台赴任。
   このころ、モリソンはジャーナリスト志望。単独冒険旅行をしては紀行文や報告書の形で文筆の才を表し、新聞にとりあげられる。

  1883明治16年、モリソン、メルボルンのエイジ紙の依頼でニューギニアを探検。
   原住民の襲撃にさらされ重傷を負い、そのとき体内に入ったままの槍の穂先を摘出するためスコットランド・エジンバラ病院で手術を受ける。21歳。
   その後、エジンバラ大学で医学を学び、医師免許と医療鞄を携えふたたび旅に出る。
 アメリカではジャマイカ・ニューヨーク。スペインではリオ・テャイント鉱山の医師、モロッコではワザン土侯の医師、マドリッド、ロンドン、パリを回って帰国。
   ?、またも世界放浪。南太平洋の島々、香港、フィリピン、中国・天津・北京へ。
   ?、上海から横浜に渡ったが資金が底をつき望遠鏡、医療鞄も売り上海に戻る。
   ?、ラングーン(ヤンゴン)まで白人未踏の奥地を徒歩と馬車で百日かけて踏破。

 1884明治17年、柴五郎、参謀本部出仕・砲兵中尉・清国(中国)差遣。
 1885明治18年、四朗『佳人之奇遇』初編出版。翌年、谷農商務大臣欧州視察に同行。

  1893明治26年、モリソン中国に入る。 1894明治27年、日清戦争。柴五郎中佐・英国公使館付き、8月帰国。
 1894明治27年、日清戦争。
  1895~1912(M28~45)、モリソン、ロンドンタイムズ紙・北京駐在員
  1897(M30)、モリソンはロンドン行き船の船医となり、船中で体験を『清国の一豪州人』にまとめたのが、ロンドン・タイムズ紙の目にとまり、アジア駐在特派員に採用される。モリソン35歳。
    当時の清国は列強帝国主義の餌食となっており、着任早々ウラジオストック、吉林などをまわってロシアの侵略の意図に気付いたモリソンは、当時世界一を誇るメディア、ロンドン・タイムズを駆使して、極東に危機到来と警鐘を鳴らし続ける

 1898明治31年、柴四朗・大隈内閣農商務次官。
    陸軍柴五郎砲兵中佐・海軍秋山真之大尉、米西戦争観戦のためキューバへ差遣。

 1900明治33年、義和団の乱・北清事変(列国に国土を侵食された清国民の蜂起)。
    柴五郎砲兵中佐・清国公使館付・義和団事変で北京籠城。

  --- 北京在留外国人は公使館区域に立てこもって防戦。歴史上名高い「北京籠城」である。守備のバックボーンとなって死力を尽くすひたむきな日本人の姿に感動した彼は、ともに命をかけて戦った。そして、その心には対日友情が芽生えていった。
 やがて、日本軍を主力とした八カ国連合救助隊の籠城が解かれると、彼は籠城中の日本人の立派な働きをタイムズ紙を通して全世界に伝え、極東の小さな新興国日本のことなど知らなかった欧米人たちを開眼させた(『北京燃ゆ--義和団事変とモリソン』)。
   北京籠城中、英国人将校マクドナルド(のち駐日大使)」が指揮する各国守備隊に五郎も日本人義勇隊と加わる。しばらくすると、作戦用兵の計画は五郎の意見でほぼ決まった(『北京籠城』に詳しい)。

    昔、アメリカ映画<北京の55日>を観たが、伊丹十三演ずる柴五郎をあまりよく描いておらずがっかりした覚えがある。

 1903明治36年11月1~2日、大阪朝日新聞「モリソンの征露論」を掲載、国内に開戦世論を盛り上げる。
 1904明治38年、日露戦争。2月6日対露外交交渉を打ち切りロシアに国交断絶通告。
    柴五郎、野戦砲兵第十五連隊長として出征。ちなみに柴の連隊が属する第二軍、軍医部長は森鴎外

  1911(M44)、辛亥革命(清朝を倒し中華民国を成立させた革命)。
  1912(M45)、モリソン中華民国総統政府の政治顧問となる。中国民衆の幸福に貢献できると思ったが、専制権力が袁世凱に移り混乱はひどくなり結果はよくなかった。

 1915大正4年、柴四朗、大隈内閣外務参政官。
  1917(T6)8月29日、北京のモリソン邸で「アジア文庫」を譲渡。購入の交渉には外交官・銀行家の小田切万寿之介(ますのすけ)があたった。
    モリソンは政治顧問の任期がきれるので、オーストラリアにもどって第二の人生をはじめようとしていたのである。

  --- 売り主は中華民国総統府政治顧問でオーストラリア人のジョージ・アーネスト・モリソン、買主は三菱財閥の総帥岩崎久弥、譲渡価格は英貨三万5千ポンドであった。それは、中国に関する欧文書籍約2万4千冊、地図・版画約1千点、パンフレット類約6千点、定期刊行物約120余類からなるもので、マルコ・ポーロの1485年の最初のラテン語刊本、17、8世紀の在中国キリスト教宣教師の著書なども含まれたいた・・・・・ この譲渡は欧米でも大ニュースとして一流の新聞、雑誌などで報道された・・・・・ 中国政府をはじめハーバード、エール、カリフォルニアといった大学や日本の朝鮮総督府などが購入を切望していた・・・・・
 榎一雄博士・東洋文庫長は「日本の東洋学はモリソン文庫(日本ではそう呼ばれた)の招来を機に新しく、そして大きく発展するのである」と・・・・・(『東京人』)。

  1919大正8年、モリソン、ベルサイユ講和会議に中華民国使節団随員として出席、健康を害する。
    11月1日、宮中にて柴五郎、陸軍大将・台湾軍司令官の親補式。

  1920大正9年5月30日、G・E・モリソン、イギリスの病院で死去。享年58。
    モリソンは、克明に記した日記・メモランダム・書簡などの「モリソン文書」一切をシドニーのミチェル図書館に遺贈、歴史学に大きな貢献。

 1924大正13年、岩崎久弥財団法人東洋文庫設立
    モリソン文庫のほかの洋書と漢籍を増補(合計約49、000冊)、土地、建物、基金を合わせて寄贈。
    理事研究部長に東洋史学者・白鳥庫吉(くらきち)就任。
 1925大正14年、「東洋文庫論叢」の刊行はじまる。
 1936昭和11年、「シーボルト文書」、小田切万寿之助旧蔵漢籍、政治家・財界人の井上準之助旧蔵書を受贈。ラフカディオ・ハーンとB・H・チェンバレン往復書簡を収集。

 1845昭和20年8月15日、敗戦。
    12月13日、柴五郎死去。享年87。
 

   参考: 『日露戦争を演出した男』上・下巻、ウッドハウス瑛子2004新潮文庫 / 『北京籠城・北京籠城日記』柴五郎・服部宇之吉1991東洋文庫 / 『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人編著1971中公新書 / 『東京人・東洋文庫のすべて』11月号1994東京都文化振興会

|

« 戊辰の戦をこえ明治・大正を剛く生きた桑名藩士、加太邦憲(三重県) | トップページ | 空襲、地震・大津波(静岡県・愛知県・三重県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 戊辰の戦をこえ明治・大正を剛く生きた桑名藩士、加太邦憲(三重県) | トップページ | 空襲、地震・大津波(静岡県・愛知県・三重県) »