空襲、地震・大津波(静岡県・愛知県・三重県)
けやきのブログ初回は11年前、2009.7.22 “「明治の兄弟」ってどんな本?” でした。その主人公・柴五郎が明治の陸軍軍人だったせいか今では馴染みがない「師団」を記事にすることがある。
“広島県産業奨励館(原爆ドーム)第五師団 2015.8.8”
“第六師団の街だった熊本(熊本県)2017.10.28”
“福岡県の幕末・明治、炭鉱 陸軍第二師団 2020.02.01”
先日、新聞の投稿「浜松大空襲」を読むうち、師団があった「軍都」は大空襲にさらされる!改めてそう思った。
空襲というと、親から聞いた東京大空襲を思うが、実は日本の至る所が空襲に遭い焼け出されていた。それに加え大地震、大津波に襲われた所もある。静岡・愛知・三重の東海三県ではその被害が大きかった。
それから75年過ぎ、この平和が続くことを祈りつつ、浜松をふくむ「東海三県の空襲」と震災をみてみる。
<1944 昭和19年>
4月3日、鶴舞(つるま)公園で、県主催の盛大な学徒動員壮行式。
軍需産業の本場である愛知県の学徒動員の特徴は、知事と東海軍需監理部長の指導で、全国の先頭をきって、しかも、政府を上回る基準で行われた(『愛知県の歴史』)。
11月1、B29来襲、以後空襲続く。
12月7日、東南海地震。マグニチュード8.3、その規模は関東大震災を超える。
熊野灘沿岸津波に襲われる。紀伊半島、志摩半島沿岸では高波6m。
--- 午後1時35分に熊野灘を震源域とする地震が発生・・・・・ 戦時下のパニックとなり、有感半径600kmにもおよび、とくに県西部の袋井・掛川・菊川・磐田方面に甚大な被害が発生し、御前崎付近では海岸が15センチ隆起した。
・・・・・ 袋井西国民小学校では児童の死者20人、重軽傷者30人、袋井保育所の園児22人の圧死、保母一人が殉職した。それだけではない。学童疎開中であった東京都世田谷区麹谷国民学校児童も袋井町で2人、山梨町で11人が生命を奪われてしまった。
・・・・・ これだけの激甚災害であったために、半世紀を過ぎた今日でも
戦争による機銃掃射への恐怖など以上に大きな記憶として、被害の大きな事件として認識されてきた。しかし、報道管制のために他地域の人々に記憶はほとんど残されていない(『静岡県の歴史』)。
--- 学徒動員中に、東南海地震で13人の犠牲者をだした京都三中の教員や生徒も、学校や家族に被害を知らせることを禁じられた(『愛知県の歴史』)。
静岡県:死者255人、負傷者704人、家屋全半壊1万3646戸
愛知県:死者・行方不明438人、負傷者1148人、全半壊2万5819戸
三重県:死者406人、負傷者607人、全壊3776戸、半壊4532戸
12月13日、B29による名古屋への空襲本格化。
--- 航空機の大軍需工業地帯である愛知県に対する空襲は、名古屋を中心にして、熾烈をきわめた。昭和19年11月から敗戦までに、空襲は100回を超え、その爆弾投下量は府県別では最多であった。爆撃は三段階で行われた。
最初は19年12月~翌年2月にかけての、名古屋の三菱などの軍需工場に対する目標爆撃であり、第二段階は3月~5月にかけての名古屋の市街地に対する無差別の夜間空襲で、市街は焦土と化した。
・・・・・ 制空権をまったく失った状況で、人びとは無防備で米軍の攻撃にさらされた。
<1945 昭和20年>
1月13日、三河大地震。マグニチュード7.1
愛知県碧海・幡豆郡を中心に死者2306人、負傷者3966人、全壊7221戸、半壊1万6555戸の被害を受ける。
--- 第二次大戦末期、愛知県は東南海地震・三河地震と二つの大地震を経験。人心の不安を恐れた軍・官は新聞には「中部地方に軽微なる地震」程度の報道しか許さず、憲兵まで動員して被害甚大の伝わることを「極秘」として押さえたため、県民は救援物資もなく、上からの空襲と地下からの地震という二つの災害に苦しめられることになった(『愛知県の歴史』)
3月~6月、名古屋に空襲つづく。
5月、14日、名古屋城ついで17日、熱田神宮焼失。
6月18日、浜松大空襲。
6月20日、静岡大空襲。
豊橋市大空襲。
7月 7日、清水大空襲。
7月13日/28日、一宮空襲。
7月17日、沼津大空襲。
7月20日、岡崎市空襲。
7月29日夜半~30日未明、
浜松市と新居町に、アメリカ第三艦隊第三八機動部隊に所属する巡洋艦クインシーなど8隻により、合計2160発の砲弾がぶちこまれた。
--- (第21爆撃集団総指揮官カーチス・ルメー少) 浜松は本州南岸に位置し、川と湾との間にあるので発見しやすかった。くり返しの空襲でB29の搭乗員にとって、浜松は住みなれた町」になっていた。出撃したものの、いろいろな都合で第一目標を攻撃できない場合には、装備していった爆弾は浜松に投下して帰るよう、隊員は教えられていた(『静岡県の歴史』)
7月31日、清水市(静岡市)、湾内に侵入した潜水艦から襲撃される。
8月6日、広島に原爆投下(年末までの死者推定14万±1万人)。
8月9日、長崎に原爆投下(年末までの死者7万±1万人)。
8月7日、豊川海軍工廠が被爆、勤労学徒452名を含む2423人が犠牲となる。
春日井市空襲。
三重県の空襲被害
宇治山田(伊勢市): 爆撃機94、死者101、負傷者240、全半焼4928戸、全半壊22
桑名市: 爆撃機219、死者416、負傷者362、全半焼6581、全半壊254
津市: 爆撃機222、死者1885、負傷者839、全半焼9022、全半壊3650
四日市市: 爆撃機185、死者855、負傷者1736、全半焼10650、全半壊204
8月15日、天皇「終戦」の詔勅放送。
県内各地が廃墟と化すなかで、遅すぎた敗戦の日が訪れた(『愛知県の歴史』)。
9月22日、連合軍、三重県下に進駐。
9月30日、名古屋市に米軍第25師団2万7000人が進駐。
11月6日、占領軍1個連隊1400名が静岡市に進駐。
参考: 『三重県の歴史散歩』2007山川出版社 / 『三重県の歴史』2000山川出版社 / 『静岡県の歴史』1998山川出版社 / 『静岡県の歴史』1987河出書房新社 / 『愛知県の歴史』2001山川出版社 / 『愛知県の歴史』1987河出書房新社
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