月明や沖にかかれるコレラ船、日野草城(東京)
周辺でも俳句をたしなむ人が少なくないが、残念ながら自分には向いてない。それでも、俳句は眼に見えるものから、心象風景まで詠めてすごいと感心している。また、句もさることながら、妻子を捨て、一笠一杖の行乞行脚で各地を遍歴した自由で独自の句をのこした人物がいたりして、俳人の生き方そのものも気になる。
“流浪の俳人・種田山頭火と熊本(山口県・熊本県)” 2019.6.29
新型コロナウィルス禍のはじめ、横浜港に停泊の豪華クルーズ船に感染者が出た当時、コラムに日野草城の句が引用されていた(毎日新聞2020.2.6余録)。
月明や 沖にかかれる コレラ船
自分が抱く俳句のイメージとかけ離れた“コレラ”に「えー」だったが、俳句は何でもあり、詠めないものはないらしい。入り口は易しそうで、広くて深い17文字の世界のようだ。
それにしても、死亡率が高く怖い伝染病、コレラをも詠んでしまう日野草城ってどういう人? 気になって、『現代日本文学大事典』を開くと載っていた。また、国会図書館デジタルコレクションを検索すると次があった。
豆知識(俳句の季語となった感染症)<ぎふ保環研だより>2017年37号
--- 太陽暦7月(旧暦6月); 晩夏の項に、コレラ、マラリア、赤痢、水あたり などこの時期の水系感染症の多さを実感させる言葉がならんでいます。
おもかげの なほうるはしき 赤痢かな (日野草城)
日野 草城 (ひの そうじょう)
1901明治34年7月18日、東京台東区上野山下町で生まれる。本名・克修(よしのぶ)。
父・梅太郎は、*日本鉄道会社に勤め、静山と号し短歌・俳句をよくした。
日本鉄道会社: 旧大名・公卿らの金禄公債を資本として創立された最初の民間鉄道会社。
1904明治37年、日露戦争。
1906明治39年、父が韓国の*京釜鉄道に転職したので、母に伴われて釜山に移り住む。
京釜鉄道: 京城・釜山間を結ぶ鉄道。朝鮮半島を縦断する、この鉄道は対ロシア戦略上重要もの。全通は日露戦争後。
1908明治41年、京城(ソウル)に移住。
?年、 *総督府立京城中学に入学。
朝鮮総督府: 日本が韓国併合により設置した植民地支配機関(1910~1945)。
このころから、『日本少年』『非行少年』などに小品文、短歌などを投稿しばしば入賞。文芸書にしたしみ、とりわけ作歌に熱中、学業成績が低下し担任の厳戒をうける。
1917大正6年7月、北鮮清津府に転勤していた父のために『*虚子句集』を持参し、影響をうけて句作をはじめる。芋秋の号を用い、久世車春や前田普羅などの指導を受ける。
高浜虚子: 俳人、小説家。正岡子規に俳句を学び、明治30年創刊『ホトトギス』を編集。新傾向俳句にたいし、守旧派と称し、17字の定型と季題の伝統を守り写生を主唱。
1918大正7年8月、『ホトトギス』雑詠に入選。
9月、第三高等学校第一部乙類に入学。
1919大正8年、三高在学中、「神陵俳句会」を始める。
1920大正9年11月、草城が主唱し岩田紫雲郎などと『*京鹿子』創刊。
京鹿子: はじめは同人の共選であったが、やがて京都大学・第三高校の出身者が集うようになり、同人も四十名以上になった。関西俳壇の老舗として歩みを続ける。
1921大正10年、京都帝国大学法学部入学。
二度目の肋膜炎にかかるが快癒、短歌をやめ俳句に専念。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
1924大正13年、京大を卒業。大阪海上火災に入社。
この年、『ホトトギス』の課題句選者。
1927昭和2年6月、26歳。第一句集『花氷』上梓、俳壇に地位を築く。
1929昭和4年、『ホトトギス』同人。
1933昭和8年、この頃、俳句近代化の動きが俳壇に台頭、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』、東京の『走馬燈』などが草城の指導を受けた。
1935昭和10年1月、『青嶺』『ひよどり』『走馬燈』を併合し『旗艦』を創刊。
『馬酔木』『天の川』と並びたつ、新興俳句の有力なグループを結成。
このころ、俳句の閉鎖性、後進性に挑戦する意図で、『俳句研究』に<ミヤコ・ホテル>一聯10句の連作を発表。大胆な素材を扱いセンセーションを巻き起こす。
『ホトトギス』の伝統を無視、新興俳句の領袖として活躍をしたため、ホトトギス同人を除名される。
1937昭和12年7月、盧溝橋事件で日中戦争おこる。
1939昭和14年5月、ノモンハン事件(満蒙国境紛争をめぐり日ソ両軍が衝突)。
1940昭和15年、俳句への弾圧。『京大俳句』の一斉検挙に始まり、自由主義俳句への圧迫がきびしくなり、翌年、『旗艦』の指導的地位を退き、活動を停止。
1941昭和16年12月8日、日本軍ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。
1944昭和19年11月24日、B29による東京発空襲。
1945昭和20年6月、戦災で家財・蔵書を失い、あちこちさ迷い転居7回に及ぶ。
8月14日、ポツダム宣言受諾回答(9月2日降伏文書調印)
終戦後まもなく、小寺正三らのすすめに応え、俳壇復帰の意思をかためる。
1947昭和22年、『微風の旗』出版。次は、国会図書館デジタルコレクションからその一部を引用。
--- 芭蕉の時代の俳句に比べると、明治の俳句、大正の俳句、現代の俳句とそrぞれ進化発展してきております。非常な発展でありますが、然し、この文学形式を最高度に生かすべくあらゆる試みと努力が成し尽くされたとは思われず・・・・・
俳句の本質に関する観念の革命が行われたのは極最近のこと、十年ほど以前のことです。・・・・・ わずか三百年の過去をしか持たない俳句がその真の面目を発揚するのはこれからです。・・・・・ 時代はいよいよ能率・簡捷・撮要の方向を目ざしています。・・・・・
俳句こそ最も当来に望みを嘱すべき文学であることを肚の底から認識し、確信し、芭蕉が三百年前、今日のために定礎して置いて呉れたこの霊活の文学形式を、民族の文化のためにその極限まで活用すべき責務と光栄とをわれわれは深く自覚し、この使命のために挺身しなければならないのであります(『現代俳句』第二巻 第四号 昭和二十二年四月)。
1949昭和24年10月、『青玄』創刊・主宰。
以前から肋膜炎・肺浸潤に冒され、大阪海上火災を退く。
1951昭和26年、緑内障のため右眼を失明。
昭和30年1月、『ホトトギス』同人に復帰。
1956昭和31年1月29日、心臓衰弱のため死去。54歳。
死去の数年前から幾多の厄災に見舞われたが、才能は沈潜し、澄み切った心境を俳句に託し名作を残した。
著作句集、『花氷』『昨日の花』『転轍手』『人生の午后』ほか。 随筆集、『新航路』『展望車』などのほかに角川文庫『日野草城句集』
ひと拗ねて ものいはず 白き薔薇となる
高熱の 鶴青空に 漂へり
妻の留守 ひとりの咳を しつくしぬ
見えぬ眼の 方の眼鏡の 玉も拭く
参考: 『現代日本文学大事典』1965明治書院(日野草城の項、三谷昭) / 『近現代史用語辞典』1992新人物往来社
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