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2020年7月25日 (土)

幕臣の明治は良二千石、関口隆吉 (江戸・静岡県)

  良二千石(りょうにせんせき): 地方長官の異称、太守のほめことば。中国の漢代、郡の太守の年俸が二千石だったから。

 2020年オリンピックイヤーだったが、コロナ禍さなかの今、それどころではない。世界中が終わりの見えない不安にさらされている。こんな時こそ、志ある為政者に方策を示してもらいたいが、マスクのせいか息苦しさが増すばかり。
 この現状、良し悪しは別にして知事の存在が目立つ地域がある。知事は選挙で選ばれるが、明治の初めは中央から派遣された。その中には、強権発揮の人物もいたが、任地に尽くした県令・知事も少なくない。良二千石とたたえられた関口隆吉もその一人である。
 
      関口 隆吉      (せきぐち たかよし)
 1836天保7年9月17日、江戸本所相生町(東京都墨田区)、幕府の御持弓与力(おゆみもちよりき)、関口隆船の家に生まれる。字は良輔、号は黙齋。
   幼時、句読を木村金平、筆法を松島故山に学んだ。
 1848嘉永元年、斉藤弥九郎に撃剣を学び、そこで水戸学に触れる。
    大橋訥庵に朱子学を学び、攘夷派志士と交わった。
   斉藤弥九郎: 幕末維新期の剣客。門弟3千人中に高杉晋作、木戸孝允ら。
   大橋訥庵: 儒学者。熱烈な攘夷論を展開。攘夷断行を主張。

 1853嘉永6年、東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻で浦賀に来航。
   17歳で家督をつぐ。志士に交わりその間を周旋、時事を論じてたびたび上書した。また、勝海舟の開港論は国を誤るとして「勝海舟を襲撃」した。
  --- 関口隆吉、幕府旗下の士なり、勝海舟の開港論を唱ふるや、暗夜これを九段坂上に要撃し刀先わずかに鞍に及ぶ、海舟一鞭してのがる、後ち十余年、隆吉海舟を訪い揮毫を請う、海舟これを快諾し、一詩を書し、題して曰く、応断鞍居士需(だんあんこじのもとめによりて)と、隆吉海舟の明知と大度に服す(『偉人百話』)。

 1868慶応4年、戊辰戦争。関口は徳川慶喜の恭順を主張。
  1月10日、新政府、王政復古を各国に通告。
  2月12日、慶喜江戸城を出て上野寛永寺に閉居。
  5月15日、大村益次郎の指揮する政府軍の上野戦争で彰義隊壊滅。江戸市内、騒がしくなる。関口は精鋭隊頭取、町奉行支配調役を兼ね鎮圧する。
  5月24日、徳川氏は駿河府中70万石に封ぜられる。徳川八百万石の幕臣が静岡への移住を願うが、俸禄が払えない。多くの幕臣が無給、しかも住み家もないなか静岡に向かった。隆吉は公用人として苦慮する。
  9月8日、明治と改元。9月20日、天皇、京都を出発、10月13日、東京着。

 1871明治4年7月、廃藩置県
   全国の藩を廃し府県に統一、中央集権的国家を確立した改革。
   維新政府は藩解体反対を危惧し、御親兵を背景に断行。
   誕生した東京・大阪・京都の3府に知事、302県に薩長土肥の官僚が、府知事・県令として派遣された。
    11月、府県の統廃合が行われ、3府72県となった。

 1782明治5年1月、三潴(みづま)県権参事(福岡県)、12月、置賜(おきたま)県参事(山形県)に任ぜられたが、赴任しないうちに山形県参事となる。
   三潴: 筑後国(久留米藩・柳川藩・三池藩) → 三潴県M4.11.14 → 三潴県/佐賀県M9.4.18 → 福岡県M9.8.21
   置賜: 米沢藩 → 米沢県M4.7.14 → 置賜県M4.11.2 → 山形県M9.8.21

 1873明治6年12月、山形県権令。7年2月、五等判事兼任。
    幕臣が維新政府に出仕、生きるためと割り切る生き方もあれば、「痩せ我慢の説」を唱えた福沢諭吉のような考え方もあった。それはそれとして、幕臣の行政能力は維新政府にとっても必要であったろう。おそらく、幕府や戊辰の敗者の側から維新政府に出仕した者は、民意を汲み業務に臨んだのではないだろうか。関口隆吉をみてそう思う。

 1875明治8年12月、山口県令。
 1876明治9年10月、萩の乱。関口は萩の乱鎮圧に尽力。
    <萩の乱
 山口県萩で起こった前参議・前原一誠ら不平士族による反政府反乱。
 山口県令・関口隆吉は、前原一誠、奥平謙輔らが事を起こすべく萩の明倫館に集合を知ると解散を命じたが、聞き入れなかったため、広島鎮台に出兵を請う。
 その翌日、前原らは山口県庁を襲ったが、広島鎮台兵に破られて萩に退却、海路島根県に向かう。しかし、11月4日、出雲の宇龍港で捕らえられる(『大国史美談』)。
    <関口隆吉、奥平謙輔に樽酒を贈る
  前原一誠の乱、謙輔これが謀主たり、その捕らわれ獄に下るや、終日読書余念なし、山口県令関口隆吉これを憐れみ、潜(ひそかに)に一樽酒を贈りその幽情を慰す(『偉人百話』)

 1877明治10年1月、明治天皇、京都に行幸。横浜から軍艦高雄に乗り神戸に上陸、前9年開始した鉄道で京都に上る。
   2月、西南戦争勃発。天皇は西郷隆盛に対する方略を議することになり、そのまま7月28日まで京都に滞在。
   9月、西南戦争(鹿児島の乱)終息。
  ---蓋し山口県は中国四国の咽喉たり、熊本萩城の役より鹿児島の乱を馴致し、海内沸騰、人情反覆底止する所を知らず、隆吉身をその間に処し、兵を遣わし料を食を饋(おく)り、未だかつて安居せず功名顕著世、賢県令と称す。 乱平らぐの後、隆吉ますます民力休養するを以て念となす・・・・・ 当時これらの県に令たる者、良吏に非ずしては任を全うする能わず(『明治百傑伝』)。

 1881明治14年春、元老院議官、従四位。
 1882明治15年、静岡県<新聞紙ノ状況>
   新聞紙条例頒布以来、引続キ発行スルモノハ、僅に東海暁鐘新報、函右日報、静岡新聞、静岡懸布達日報、教育要報ノ五種ナリ(「関口元老院議官地方巡察復命書」 静岡県、関口隆吉1940巌松堂)。

 1883明治16年、地方巡察使として東京・千葉・茨城など一府八県を視察。その際の復命書は『地方巡察使復命書』に収められている。
 1884明治17年9月、静岡県令
  --- 隆吉期するところは県治の美のみ・・・・・ 公退暇(いとま)あれば力を救荒書に致す。他日に備ふるありと・・・・・ 隆吉の良二千石としてその名朝野に重き(『明治百傑伝』)。

 1886明治19年7月、初代・静岡県知事として治水・治山に尽力、図書館設立を計画。
   <菊川市誕生5周年を記念して」菊川市長・太田順一>
  --- 郷土ゆかりの偉人、初代静岡県知事・関口隆吉氏を顕彰
 明治維新後に本市月岡の地に居を構え、牧之原大茶園の開拓に心血を注ぐ・・・・・ 人格は高潔にして、仁政に富んでいた・・・・・ 関口氏が心血を注いだ牧之原の茶園地帯は、そのすそ野に富士山静岡空港が開港し、新たな時代の幕が開きました(『わが市を語る』2009全国市長会』)。 
  著作『備荒録・黙斎遺稿』関口隆吉1890帯経学会

 1889明治22年4月11日、愛知県招魂祭を行い、隆吉の来会を請う。
   期日が迫り、土工汽車(工事列車か?)に座って安部川を渡り、東行の汽車と触れて左足に傷を負う。
    5月17日、事故の負傷がもとで死去。享年54。
    駿河国安部郡安東村・臨済寺に葬られる。会葬者5000人。

    蔵書は静岡県立中央図書館の「久能文庫」に収められている。蔵書は国会図書館デジタルコレクションで検索できる。

  余談: 静岡県立図書館には、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』を執筆中、平泉澄の『解説佳人之奇遇』を地元の図書館経由で閲覧することができてありがたかった。未知の者にも親切な図書館だと感じたが、関口隆吉知事を知りなにか納得。

   参考: 『近世偉人百話』中川克一 編1909至誠堂 / 『彰義隊戦史』山崎有信1904隆文館 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館(関口隆吉の項、西尾林太郎) / 日本史事典1908角川書店 / 『近現代史用語辞典』1992新人物往来社 / 『郷土資料事典・福岡県』1998人文社 / 『大国史美談6』北垣恭次郎1941実業之日本社 / 『明治百傑伝』干河岸貫一1902青木嵩山堂

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