長野県で活躍した小学校教員、井口喜源治(長野県)
コロナ禍がおさまらない。ますます外出が不自由になったが子どもたちはもっと気の毒と思う。外遊びができてこそ、屋内でゲームをたのしめるはず。それが常にマスク、友だちとはソーシャルディスタンス。
例年なら夏休み真っ盛りの筈が休校分を取り戻すため、夏休みは短く宿題も多い。先生、生徒、どっちも大変、家族もキツい、せめて終わりが見えればねえ。
ため息ついて辞典をくると、<長野県で活躍した小学校教員、井口喜源治>が目に入った。明治半ばの小学校、井口喜源治先生は何をどのように教えたのでしょう。
井口 喜源治 (いのぐち きげんじ)
1870明治3年5月3日、南安曇(みなみあずみ)郡東穂高村(安曇野市)で生まれる。
穂高町: 長野県北西部に位置し、東部は烏川扇状地の平坦地が開けるが、西部は燕(つばくろ)・常念岳山地に属する山岳地帯。湧泉に恵まれ穂高ワサビの主産地。
?年、保等小学校卒業。
1884明治17年、長野県*尋常中学校に進学、同級生の*相馬愛蔵は生涯の友人。
アメリカ人宣教師エルマーの教えを受け、キリスト教徒になる。
*尋常中学校: 明治19年の中学校令で定められた中等教育機関。普通科のほかに農業・商業・工業科など実業教育も認められた。公立は各府県1校。
*相馬愛蔵: 実業家。<進取の女性、相馬黒光(宮城県)>2012.9.22
?年、 明治法律学校(のち明治大学)に入学。
東京では愛蔵に誘われて牛込教会に通い、*内村鑑三や*岩本善治と交流。
このころ教員志望に。
--- 喜源治が敬愛した人物に、明治から昭和初期の思想界に多大な影響を与えたキリスト教徒内村鑑三がいる。内村は何度も義塾を訪ね講演などを行い、喜源治に深い理解と高い評価を送った。喜源治を支えたのは、経済的には相馬愛蔵であり、精神的には内村鑑三であった(神繁司)。
*内村鑑三: 宗教家。札幌農学校卒業、渡米。
帰国後、第一高等中学校嘱託。明治24年、教育勅語不敬事件により退職。
*岩本善治: 明治女学校創立。女子教育の振興・一夫一婦制・廃娼を主張。
<明治の小説家・翻訳家、若松賤子(福島県)>2014.6.7
1890明治23年、明治法律学校中退、帰郷。
長野県上高井*高等小学校・小布施分教場の教員になる。
半年後、明治法律学校に再入学。
*高等小学校: 尋常小学校の上の初等教育の過程。新制中学校の母体となった。
1891明治24年12月、相馬愛蔵に協力、「穂高禁酒会」創立。
--- 寒国の風習からでもあろうか、村の飲酒の弊は目にあまるものがあった。わけても、喜源治は、教え子たちを通して、家庭が酒のため、どれほど深刻な痛手をこうむっているかを感じさせられていた。教え子たちにしても、やがては、底知れぬ悪習の中へ落ち込んでいくことを考えるとたまらなかった(『安曇野』)。
1892明治25年、松本尋常小学校で教職につく。
1893明治26年4月、東穂高高等小学校へ異動。
教員のかたわら「東穂高禁酒会」に積極的に関わり、中心的存在になる。
1894明治27年、日清戦争。
1896明治29年、喜源治の教え子で新しく禁酒会の会員になった*荻原碌山(守衛)が、「万国禁酒会長ウィラード女史の決心」と題して演説、会員を感銘させた。
*荻原守衛(碌山): 彫刻家。欧米の美術学校で学び、ロダンに影響をうけ彫刻家になる。安曇野を象徴する「碌山美術館」には重要文化財「北条虎吉像」などがある。
1898明治31年10月、豊科高等小学校訓導として転任になったが、穂高町による芸妓設置に反対運動を組織。転任先の豊科町で排斥運動が発生したため退職。
---村の繁栄のためという名目で、芸者置屋設置計画が、料理屋関係者によって、内々進められているらしいといううわさの伝わった・・・・・ 日清戦争後の風潮の現れで、この種の動きは県下各地に見られた。禁酒会は緊張して対策を講じなければならなかった。
耕地ごとに演説会を開き・・・・・ 反対署名を集め、知事あての請願書を豊科警察署に提出、騒ぎが大きくなって、料理屋側の設置誓願は一応不認可となった。
・・・・・ 喜源治排斥の火の手は燃え上がり、学校の内部からも、その声が出た。邪宗者を逐え、国賊を倒せと、郡役所へ要求・・・・・ ついに喜源治の転任が決定した。
・・・・・ 禁酒会で議論と協議をくりかえした末の結論は喜源治は転任を拒否、村人に呼びかけ、官学に対抗して私学をつくること。責任者に喜源治を迎えて、理想の教育を行わせること(『安曇野』)。
同年11月、私立研成義塾を設立。
< 研成義塾 >
禁酒会員によって発想された義塾は、家庭的な感化・特性の発達・宗派無干渉・新旧思想の調和・社会との連絡を期するを謳い、キリスト教的教育を推進。義塾は、東穂高禁酒会の集会所にもなった。
--- 小倉の袴に、垢びかりのした黒木綿の紋付羽織、風呂敷包みを小脇にかかえて喜源治がやってくる。7学年22名のたった一人の教師だ。高等小学1年から4年までと、補習科3年までと。黒板の横の壁に時間表がはってある。道話、国語、漢文各2時間。この三学科を第一時限に配当している。道話はおもに史上の事件や人物に託しての人生観、社会観の講話であるが、結局はキリストの話にしぼられていった。英語6時間。毎日1時間ずつの英語が配当されていたあたりは、文明風といっていいかもしれない(『安曇野』)。
1901明治34年、研成義塾は地域の有力者の支持を得、北穂高村に校舎を新築。
この年、内村鑑三が義塾を訪ねて次のように記している。
--- 南安曇郡東穂高村の地に研成義塾なる小さな私塾がある。若し之を慶應義塾とか早稲田専門学校とか言ふやうな私塾に較べて見たならば、実に見る影もないものである。其建物と言へば二間に四間の板屋根葺きの教場一つと八畳二間の部屋がある許りである。然し此の小義塾の成立を聞いて、余は有明山の巍々たる頂を望んだ時よりも嬉しかった。此の小塾を開いた意志は蝶ケ岳の花崗岩よりも硬いものであった。亦之を維持する精神は万水よりも清いものである(「入信日記」『万朝報』)
1903明治36~38年、この間、*清沢洌が研成義塾で学んだ。
清沢洌(きよさわきよし): リベラルな自主独立の評論家として知られ、クリスチャンにはならなかったが、内村鑑三の無教会キリスト教の影響もうけた。
1928昭和3年、研成義塾創立30周年祝い。友人・内村鑑三の祝辞が代読された。
--- 井口をソクラテス・ペスタロッチ・中江藤樹という内外の偉大な哲人・教育者と並べて評価した。このことにより、教育は人格の問題であり、知識はその次であるという信州教育の本流的発想が教育界に広まることとなり、後の手塚縫蔵、松岡弘をはじめ、信州の多くの教師に影響を与えることになった(神繁司)。
喜源治は死去するまで、私立研成義塾の教育にあたり、卒業生は800名近くに達し、多くの人材を輩出した。
人間教育の先駆け井口喜源治を記念して穂高町の駅前通り、大糸線穂高駅下車徒歩5分に井口喜源治記念館がある。
1932昭和7年10月20日、脳溢血で倒れる。
1938昭和13年、県知事に廃校届。
同年7月21日午後11時30分、死去。享年69。
参考: 神繁司『参考書誌研究.54』「ハワイ・北米における日本人移民および日系人に関する資料について」2001国会図書館 / 『安曇野』(全5巻)*臼井吉見1980筑摩書房 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『近現代史用語辞典』1992新人物往来者 / 『郷土資料事典・長野県』1997人文社 /『日本人名事典』1993三省堂
*臼井吉見: 戦後の評論家・作家。郷里の長野県で教員生活のち上京。広い視野に立つ文芸評論を書き、近代文学史研究をすすめた。
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