かつて軍郷、房総半島(千葉県)
「戦後75年 終戦の日」「37戦没者追悼式 中止・縮小 コロナを考慮」
大阪府の担当者は五輪前の開催を予定したが、5月に中止を決めた。高齢者が中心ということが大きく、遺族から『自分がうつすのはかなわない』という声もあった。規模を縮小して開催するのは、千葉県を含め29の式(2020令和2年8月15日・毎日新聞)
親たちから戦時中の苦労を伝え聞いた世代も高齢になった。戦争の記憶は遠のくばかり。しかし、日本各地にのこる軍需工場や軍事施設の跡地が戦争の歴史を伝える。東京の隣接地はそうした例が多そうだ。
たとえば、陸軍の演習地として絶好の場である原野があった千葉県。帝都東京防衛のため北総地域に陸軍の施設、半島部の沿岸には海軍の施設、「軍郷」を形成した。
明治の陸軍野外演習
1873明治6年1月、徴兵令発布。満20才男子から抽選し3年間の軍務であったが、当初は広範な免役規定があった。千葉県の徴兵数は295名。
同年4月、市川から大和田原への沿道、道路は掃き清められ、横町への出入り口はよしず囲いがなされ通行止めされた。徴兵制を発したばかりの明治天皇が、はじめて千葉県に足を踏み入れ、陸軍の演習天覧のため、大和田原に行幸することになったためである。西郷隆盛以下、近衛歩兵四大隊、騎兵一中隊ほか約2800名の士卒がこの野外演習にくわわっていた。
1875明治8年5月、習志野原の野営演習を天覧。以後、習志野や佐倉の営所に行幸。
佐倉市
1874明治7年、千葉県内には、種々の部隊が配置され、第一軍管(東京)の第二営所として旧佐倉城があてられ、のち歩兵第二連隊が置かれた。
1875明治8年、連隊本部、東京麻布より移転。各戦役に出征する。
1905明治38年、習志野に駐屯していた歩兵第57連隊が佐倉に移る。
以後、佐倉連隊の徴兵区は千葉県下全域があてられた。「佐倉57連隊」は太平洋戦争まで続く。
1931昭和6年の満州事変以降、各種の部隊は中国各地に出兵。
千葉市
鉄道連隊: 千葉・津田沼間、津田沼・松戸間(現在の新京成線)に演習線を敷設、これをつかって訓練。ときには地域住民の乗車を認めたり、農産物の輸送もひきうけたりした。鉄道連隊は第一次世界大戦に出征。
1927昭和2年、陸軍歩兵学校。気球隊。
1931昭和6年、満州事変に第一連隊が出征、鉄道連隊は武器・兵員の輸送にたずさわり、張学良軍の追撃もおこなった。このとき連隊の戦闘を指揮した荒木大尉死亡。のち、千葉公園内に銅像が建てられる。
1879昭和12年、戦車学校、防空学校。
砲兵の町、国府台(市川市)
1885明治18年、国府台16町歩余の土地に陸軍省が下士官養成の陸軍教導団を移転する。若き日の田中義一や宇垣一成もここで学んだという。
1899明治32年、国府台(こうのだい)に野戦砲兵第16連隊が創設される。
1908明治41年、東京世田谷から、野戦砲兵第15連隊が移転。
1919大正8年、野戦砲兵第14連隊と旅団司令部も移転してくる。
三つの野砲兵連隊が設置され国府台の街は、教導団の兵営、病院とともに発展した。
習志野市
津田沼町大久保に、騎兵第一旅団・同第二旅団の二旅団(4連隊)が置かれた。
大正末期、津田沼にあった軍事施設: 騎兵第一旅団司令部。騎兵第13、14、15、16連隊。陸軍騎兵学校。
軍郷から文化の町へ、四街道市
大正末期にあった軍事施設:野戦砲兵第四連隊・野戦砲兵学校・下志津飛行学校。
四街道十字路交差点: 四街道駅西方500mにあり、千葉道・船橋道・佐倉道・東金道の四つ角が「四街道」に転訛したとされ、四街道の名のおこり。
四街道駅北口一帯は広大な軍事施設の跡地。戦後、行政および文教地区として再利用。
ルボン山(大土手山): 四街道市役所前の西側にある人口の小山。
かつて砲兵射的学校の射垜(しゃだ。射撃の標的)が取り払われた残りの部分で、砲術の指導者フランス人、ジョルジュ・ルボン大尉の名が付けられた。
愛国学園大学正門: 野戦重砲第4連隊の正門の名残り。
県立四街道高校・四街道中央小学校・四街道市役所周辺: 陸軍野砲兵18連隊の施設跡である。
南房総市
カタパルト基地跡: 桜花四三乙型を発射する基地跡。内房線駅館山駅から平群車庫行き汐の下バス停下車。畑の中にコンクリート製発射台が残っている。
カタパルト: 航空母艦の艦載機射出機。
桜花: 太平洋戦争末期に本土決戦の切り札として開発された特攻機。先端に800kgの爆薬を装備し、カタパルトで発車させるタイプ。
1945昭和20年8月下旬、特攻機を配備する予定だったが、その前に敗戦となった。
大房(だいぶさ)岬砲台跡: 館山湾防衛や東京湾侵入の敵艦船の攻撃を目的として、ワシントン海軍軍縮条約(大正11)により廃棄された軍艦の砲塔を利用し、4年の歳月をかけて完成した。現在、大砲が設置された平場を囲った土塁が残る。
木更津市
1936昭和11年、北部の海岸沿いに、帝国海軍航空隊基地が作らる。戦後、基地跡はアメリカ軍に接収される。
1968昭和43年、陸上自衛隊の駐屯地になる。隊内に木更津航空資料館。
首都防衛の重要な一環
明治以来、習志野原や千葉市周辺に陸軍の施設が多く設置さていたが、日中戦争以後、その数はふえ、地域も拡大した。
1937昭和12年9月、国民精神総動員実施要綱を千葉県下の運動推進の指針とする。
戦争の激化とともに東京に近い市川・船橋市・津田沼町・千葉市にかけて軍需工場がつぎつぎ移転してきて操業を開始、東京湾も埋立工事も進められて日立航空機が移ってくる。さらに茂原・興津・鴨川などにも工場が建設され、戦争の進展とともに千葉県の工業化比率は大きく進んだ。これとともに中小企業の整理統合が進み、その多くは陸海軍関係の下請け工場として再編成された。
とりわけ太平洋戦争末期には、千葉県は首都防衛の最前線に位置づけられたため、飛行場や軍隊の駐屯地が急速に拡大した。海軍も、木更津や東京湾入り口の館山市を中心に航空隊基地や軍の施設、学校などが設置され、首都防衛の重要な一環となっていった。
1944昭和19~20年、九十九里浜、風船爆弾をとばしてアメリカ本土を攻撃する基地となる。アメリカ軍の本土上陸が必死の情勢となると、九十九里浜の長い海岸線が首都侵攻の上陸地として想定される。
空 襲
市川市。 昭和19年11月、初空襲。
銚子市。 昭和20年2月、艦載機による攻撃。3月、B29空爆で死傷者200人余、焼失戸数1000戸超。7月、市の全域に夜間空で襲焼失戸数3950余戸。
千葉市。 5月・6月空襲。7月6日深夜の空爆で死傷者1595人、被害戸数8904戸、被災者4万1212人、市の中心部をほぼ焼失する。
艦載機による銃爆撃は県下各地でうけ、その被害や犠牲者は少なくなかった。千葉県は、東京での空襲が激化するとともに、学童疎開を県下各地で受け入れてきたが、本土決戦の最前線となったことから、九十九里浜沿岸の地域住民に縁故疎開が勧奨されるまでになっていた。
参考: 『千葉県の歴史散歩』2006千葉県高等学校教育研究会歴史部会 / 『郷土史事典 千葉県』1979昌平社 / 『千葉県の歴史』2000山川出版社 / 『千葉県の歴史100話』川名登2006国書刊行会 / 『郷土資料辞典 千葉県』1997人文社
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余談
今や将棋の天才の話で持ちきりだが、碁も若い人が活躍している。「一力遼 碁聖」である。よかったら、ブログ右端のバックナンバーから、又は下記ごらんください。
明治・大正、屈指の地方紙(河北新報)を築き上げた一力健治郞(宮城県)2014.6.14
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/06/post-844d.html
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