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2020年8月15日 (土)

龍馬伝「汗血千里の駒」 作者は自由民権家、坂崎紫瀾(高知県)

 毎年8月、寅さんを思い出す。寅さんこと渥美清さんは1996平成八年八月八日、ハハハで「笑いの日」に68歳で亡くなった。「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」「四角四面の豆腐屋の娘、色は白いが水くさい」おなじみ寅さんの名調子である。
 寅さん映画の名シーンいろいろあるが、次がお気に入り。
 柴又駅前。甥っ子の満夫が「人間何のために生きてんのかな」すると真顔の寅さん、「何て言うかなぁ ホラ 生まれてきて良かったなって思うことが何遍かあるじゃない。ネ、その為に人間生きてんじゃないのか」

 新型コロナ禍、寅さんでもステイホームするかな。でも、長くはもたなそう。ところで、コロナ封じ込めに官は及び腰、地方・東京とも、来ないで!行かないで! しかし、夏休みさなか、お盆、過ごし方は人さまざま。旅をしたいが今は思い出をよみがえらせるのみ。沖縄の群青の海や、坂本龍馬像が太平洋を見下ろす桂浜にも又行きたい。
 坂本龍馬は享年32という短い生涯にもかかわらず大働き、同時代と後世に影響を与えた。しかし、現代のような大人気は司馬遼太郎『龍馬がゆく』からのようだ。
 そもそも龍馬を描いた最初の小説は、明治の『汗血千里の駒』で小説・演劇・映画に大きな影響を与え続けている。著者は坂崎紫瀾という龍馬と同郷の土佐人である。明治の文章は辛いがふりがな付、挿絵入り。岩波文庫・国会図書館デジタルコレクションにもある。
 筆者が坂崎紫瀾を知るきっかけは、彼の手になる「陸奥宗光」「後藤象二郎」に山東直砥が登場していたからである。それに、紫瀾の紆余曲折ある生涯も興味深い。

     坂崎 紫瀾(斌)   さかざき しらん (さかん)
 1853嘉永6年11月18日、土佐藩医・坂崎耕芸と母きさの次男、江戸鍛冶橋の土佐藩邸で生まれる。名は斌。号は「紫瀾」・「嗚嗚(うう)道人」
   同年、坂本龍馬が江戸の千葉道場に入門。
 1855安政2年、江戸大地震(安政の大地震)。
 1856安政3年、大地震の影響もあって一家で高知県に移り、父は医者を開業。
 1867慶応3年、藩校・致道館に得業生として入学。
 1868慶応4年、素読席 句読師(読み書きを教える人)補助。   
 1869明治2年、句読師となり五人扶持。 
 1871明治4年、藩校・致道館教授となる。
  ?年、 阪谷朗盧(漢学者)に入門、のち塾長となる。
 1872明治5年、彦根の旧藩校教官となるが短期間で辞し、ギリシャ正教の修道士、*ニコライ・カサートキンの塾、*大教院などに一時籍をおく。
   ニコライ: 1861文久1年来日。函館でギリシャ正教を布教。翌年、東京に移り布教とロシアの紹介に努め、ロシア語学校を設立。のち、神田にニコライ堂を完成。
   大教院: 大教宣教を目的として組織された機関。東京金地院において、神・僧・仏3学を開講。

 1873明治6年、上京。
   征韓論を唱えて官を辞し、帰郷。百做社をおこす。
 1874明治7年、板垣退助に従い、愛国公党の創立に尽力。政治活動を開始。
   同年、大教院の『教会新聞』記者となり、新聞との関りができる。
 1875明治8年、司法省十五等出仕、翌年松本裁判所に赴任。
   気骨ある青年判事・坂崎斌は、松本地方自由民権運動の松沢求策(松本奨匡社)らと国会開設請願について話し合う。まもなく坂崎は官を辞し、松本新聞の主筆となる。
   松本新聞は、国会の開設や藩閥政治の打破、男女同権論、普通選挙実施など自由民権運動に則した論陣を張った。長野県で坂崎は、自由民権運動の種を蒔いた人物と評価されている。 松沢は坂崎と意気投合、同志を語らい、坂崎が帰郷すると松本新聞主筆になった。 

 1878明治11年、高知に戻り、県庁学務課などに務める。
 1880明治13年7月、第二次「高知新聞」(一次は明治6年創刊)の編集長となる。
   同年9月から、維新期に活躍した間崎滄浪、平井収二郎、坂本龍馬らが登場する歴史小説「南の海血汐の曙」の連載を始める。
   当時、高知は自由民権運動の中心地で、政府は運動の過激化を警戒し、新聞紙条例・集会条例によって弾圧。民権派の「高知新聞」は、しばしば発行停止処分をうけた。
   同年9月17日~14年9月2日、つづき物・新聞連載小説「南の海血しおの曙」、内容は「汗血千里の駒」などとともに、土佐勤王党を中心とした幕末・維新史と自由民権運動が重ねあわされた政治小説。
   同年12月23日、太政官布告の集会条例で、集会の認可・禁止・解散が地方長官の裁量で行えることになった。

 1881明治14年8月、板垣に従い東北地方遊説。10月、自由党成立。
   同年12月10日、坂崎は中島村で演説。法に触れたとして高知警察署に召喚され、15日付で高知県での政談演説を1年間禁止処分を受ける。
   同12月、「高知新聞」の身代わり紙として大衆向けの小新聞、第二次「土陽新聞」 を創刊。この土陽新聞に『汗血千里の駒』を連載。

 1882明治15年1月15日、高知広栄座で講釈師の一座、旗あげ興行を行う。
   演説を禁止された坂崎は寄席芸人となり、東洋一派民権講釈という一座をつくった。芸名は馬鹿林鈍翁(ばかばやし どんおう)とし、翌日「西洋民権百家伝」のうち「ローマ英雄ブルータス伝」を講演中、不敬罪と集会条例違反の罪で逮捕された。
   2月、高知軽裁判所で公判、重禁錮三月罰金20円監視六月の判決に坂崎は上告したが、棄却され刑が確定。

 1883明治16年、嗚嗚(うう)道人の名で、「天下無双人傑/海南第一伝奇 汗血千里の駒」を発表、文名あがる。挿絵の人気もあって評判となり、連載中に大阪の複数の出版社で単行本化、その後も東京の春陽堂などから出版され広く読まれた。 
   --- (同年3月31日入獄。6月29日出獄)この間、「汗血千里の駒」休載・・・・・ 表現欲求、政府による言論統制への反発は「汗血千里の駒」に投影されていよう・・・・・ 坂崎は執筆にあたりって当時の幕末・維新史関係の書を多く参考にしている。しかし、本書の魅力は・・・・・ 自由民権運動の最先端にいた坂崎の歴史意識と、読者と共有しようとした政治理念が、坂本龍馬の個性的な行動や行動空間に強く繁栄されている点であろう・・・・・ 坂崎紫瀾独自の「演義体」の魅力でもある(林原純生)。

 1884明治17年、自由党系新聞「自由の燈」の招きで上京、主筆として活躍。
   東京では私塾を開き、*福田英子などを教え、鉄香女史の仮名で女権拡張論を唱えたりもした。こののち、様々な新聞、雑誌にかかわり、論説、小説、漢詩を発表。
   <妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり、福田英子(岡山県)2019.09.21>

 1894明治27年6月、ジャーナリストとして朝鮮の京城に赴き、*牙山の役を視察。
   牙山の役: 朝鮮、農民反乱のため清朝に派兵要請、清軍が牙山に出動。日本軍、仁川上陸。8月、清国に宣戦布告。日清戦争はじまる。
   坂崎の後半生はもっぱら伝記、史伝など執筆していたようだ。同時代人の伝記、坂崎がよく知る人物伝は為になって面白い。事件の場に居合わせた周辺人物も知ることができ、歴史好きには興味津々。著作とそのときの筆名をあげておく。
  鳴々道人『北越遺聞 他山の石』、坂崎斌『勝伯事蹟 開城始末』、坂崎斌『林有造氏旧夢談』、坂崎斌『陸奥宗光』、坂崎紫瀾『坂本龍馬』、坂崎斌『鯨海酔侯』、坂崎鳴々道人『坂本龍馬』など。

 1904明治37年以降は、執筆に全精力を傾けていたようで動静がわからない。
 1911明治44年、維新史料編纂局編纂委員。明治維新史料の収集、編纂を目的として設立。『大日本維新史料』を編纂。この事業は、東京大学史料編纂所に引き継がれている。
 1912大正元年、『維新土佐勤王史』を上梓。維新史研究の集大成。
 1913大正2年2月17日、死去。 享年60。

   参考: 『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』坂崎紫蘭作・林原純生校注2010岩波文庫 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『安曇野』臼井吉見1980筑摩書房
/ 国会図書館デジタルコレクション

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