神道無念流、尊攘の剣客、斉藤彌九郎(富山県)
日本人は判官贔屓、九郎判官源義経のような不遇な英雄に同情して、ひいきする。会津を始め奥羽越列藩同盟の賊軍となってしまった藩士らに同情を惜しまないのも、それだと思う。
「明治維新」を学校で教わったときすばらしいと感心、尊皇攘夷の志士をかっこいいと思いさえした。ところが、近代史をかじり、幕末の動乱で敗者となったゆくたてを識るにつれ、ウン?そうかなぁと思うようになった。そうして、敗者に同情、明治政府で出世する人物をみるとき、つい斜になる。
しかし、幕末明治人の多様な生き様を知るにつれ、一概に決めつけられないと思うようになった。物事は両面からみないとという当たり前に今さら気付いた。新政府に出仕した幕臣が、派遣先で力量を発揮して地域の力になった例は少なくない。
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<幕臣の明治は良二千石、関口隆吉(江戸・静岡県)>2020.7.25
ところで、関口隆吉の経歴中に「斉藤彌九郎に撃剣を学び、そこで水戸学に触れる」があった。筆者は斉藤彌九郎=剣豪のイメージしかなく、剣術道場で関口が水戸学にふれというのがよく分からなかった。そこで、斉藤彌九郎をみてみたらただの剣客ではなく、尊皇攘夷の時論家でもあった。
斉藤 彌九郎
1798寛政10年1月15日、越中国氷見郡仏生寺村の庄屋、斉藤信道の長男に生まれる。名は善道、字は忠卿、通称・彌九郎、号を篤信斉。
1810文化7年、高岡の油店に丁稚奉公、まもなく薬種店に奉公替えし書物に親しむ。
1812文化9年、旅費もなく苦労して江戸に出る。
幕臣・能勢祐之丞に奉公しつつ、読書や剣道に励む。
?年、剣客・岡田十松に撃剣を学び、努力の甲斐あって十松の高足として代教授を務める。また、同門の友、江川太郎左衛門(担庵、伊豆韮山の代官)と親交を結ぶ。
1826文政9年、岡田十松の死後、跡目を継ぐことになり、江川の後援で飯田町に、神道無念流の練兵館を開く。
--- 「剣は手に従い、手は心に従う、心は法に従い、法は神に従う。錬磨これを久しうすれば、手を忘れ、手は心を忘れ、心は法を忘れ、法は神を忘れて、神運万霊心に任せて、変化必然、即ち体無きを得て、至れりというべし」無念流の名は、ここから起こるのである。
彌九郎は、しかも、経書を赤井厳三に聞き、馬術を品川吾作に学び、兵法を平山行藏に、大砲を高島秋帆に、しかも、江川太郎左衛門の新知識をも得ているのであるから、当時の剣客の中にあって、断然、他の人とはちがっていた(『日本剣豪列伝』)。
江川を後援にもち、水戸と連絡をもつ斉藤彌九郎の門には、長州や越前の藩士が出入りした。また、彌九郎は江川に従い、渡辺崋山・高野長英・高島秋帆などと交わり時には開港論者であり、水戸の感化もうけて攘夷論も唱えたよう。
1835天保6年、江川が家代々の韮山代官を継ぐと、江川の依頼で手代となって領内を巡遊、殖産興業をはかり治績をあげた。
1836天保7年8月、甲州天保一揆・郡内騒動。
江川が甲州に派遣されると彌九郎は先発し、状況を視察し江川に協力した。
1838天保9年11月、水戸藩主・徳川斉昭に招かれ国事を談じ、扶持米を給される。
1841天保12年、幕府は武州豊島村徳丸原において高島秋帆、銃隊演習(西洋銃陣)に参加。彌九郎は野戦砲の撃ち方を演じた。
次いで、彌九郎は水戸城下に赴き数十日間、弘道館にて藩士一同に剣術を教授。
1844弘化元年5月、水戸藩主・斉昭、幕府の嫌疑を受け謹慎、家老らも小石川の別邸に蟄居。彌九郎は水戸藩からの扶持米を離れる。
1853嘉永6年8月、江戸湾防備のため幕府は品川台場の築造を計画。
品川台場: 江戸・品川沖に設置された6基の砲台。ペリー来航を契機に海防策の一環として江川の献策により建造されたが、計画途上で中止。実用に至らず。
彌九郎は実測、築造工事を監督として連日、品川に出張し江川を助けた。
1856安政3年、斉昭の前で銃剣槍の3隊わけて陣を作り、対抗して野戦になぞらえ采配を振るった。その様子が壮観であったので斉昭に激賞された。
?年、 長州藩世子・毛利定広に尊攘を説く。
尊攘を説いたが実践には加わらず、門弟を養成、その数3千人とも。門弟に高杉晋作・木戸孝允・品川弥二郎・山尾庸蔵・楠木正隆・渡辺昇らがいた。
1868明治元年、戊辰戦争。
7月14日、彌九郎、明治新政府に出仕。
8月26日、徴士会計官判事試補。
9月5日、大阪会計官ついで会計官権判事。
1869明治2年7月、大阪造幣局に出仕。たまたま火事になり彌九郎は71歳の身をも顧みず火中にとびこみ書類をとりだしたが、大やけどを負う。
1870明治3年5月、鉱山大佑(こうざんだいゆう)に任命されたが、病で東京に帰る。
1871明治4年10月24日、自邸にて死去。享年73。
--- 彌九郎は容貌魁偉、身長五尺三寸余で胆は斗の如く、意思堅く、直言、剣客よりも寧ろ論客に近く慷慨気節を尊び、明断果決渋滞せず、人に交わり信義を重んじ・・・・・門弟に臨んでは偉容と愛撫とを以て孜々是を導き・・・・・ 業を授けて倦まなかった(『越中勤王史』)。
桃井春蔵、千葉周作とともに幕末三剣客の一人である。
墓は東京小石川の昌林院、渡辺昇子爵の撰文が刻まれた石碑が建つ。
彌九郎の妻は、旗本能勢の用人、堀和兵衛の養女。子は5男1女。家を継いだ長男・龍善は優秀で二代目彌九郎を名乗る。二男・歓之助は肥前大村藩に仕え武術を盛んにした。
彌九郎の実家は弟の新作が継ぎ、彌九郎の使用した槍、書簡類、江川太郎左衛門や渡辺崋山が描いた絵など保存しているという。
参考:『阿尾郷土読本』1937阿尾尋常高等小学校 / 『偉人豪傑言行録』南梁居士1911求光閣書店 / 『越中勤王史』小柴直矩1924北陸タイムス社 / 『日本剣豪列伝』*直木三十五1941大東出版社 / 『日本人名事典』1993角川書店 /国会図書館近代デジタルコレクション
*直木三十五:<ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・直木三十五②-1>
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