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2020年8月29日 (土)

大正15年間のさまざま

 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー軍艦4隻を率い浦賀に来航。翌安政1年、日米和親条約締結。その後、年号は万延文久元治慶応とめまぐるしく変わり1868慶応4年戊辰戦争さなか、明治と改元される。
 さて、明治は45年続いたが大正は15年昭和は64年平成は30年、そして今年は2020令和2年。こうしてみると大正の15年はいかにも短い。明治生まれは「大正」になっても意識は明治人だったでしょう。大正生まれも、じきに「昭和」になったから「大正人」と思ったかどうか。そうした大正を、『新聞集録大正史』(全15巻1878大正出版)その他辞典・年表から抜き出してみた。

 1912大正1年7月30日、明治天皇崩御。9月、乃木希典殉死。
 1913大正2年2月10日、護憲運動の群衆、議会へデモ。
  護憲運動: 藩閥中心の官僚政治に反対し、政党政治の確立を目的とした政治運動。
   8月9日、東北帝国大学、官報で女子3人の合格を発表。
    女子の受験を知り「前例之無き事にて重大なる事件」とする文部省だが、初代総長・沢柳政太郎には女子にも門戸を開くべきという考えがあった。
   <科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ>2013.10.12

 1914大正3年5月、読売新聞に掲載された「身の上相談」が、初めての試みとして評判になる。
   6月28日、ボスニアでの陸軍大演習の帰途、サラエボに寄ったオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻、爆弾を投ぜられた上に狙撃された死亡。第一次世界大戦の発端。
   8月23日、ドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参加
   12月21日、煉瓦造りの東京駅竣工。東京~横浜間の電車運転開始。

 1915大正4年1月8日、中国政府、山東省よりの日本守備隊撤退を要求。
   2月、与謝野晶子、夫・与謝野寛(鉄幹)の選挙応援のため、乳飲み子を抱えて選挙応援。
   6月3日、夏目漱石「道草」朝日新聞に連載(~9月14日)
   9月、芥川龍之介「羅生門」発表。
   12月、東京株式市場大暴騰、大戦景気のはじまり。第一次大戦は、日本を帝国主義列強につかせる契機となり、行き詰まっていた慢性的不況に未曾有の好況をもたらす。
   この年、三浦環ロンドンで「蝶々夫人」初演。 電気ゴテによる前髪ウェーブ流行。

 1916大正5年5月、「大相撲千秋楽」 大入り続きの夏場所もいよいよ千秋楽・・・・・ 角力道、盛んとなってこの場所も儲かった・・・・・ 夏場所にはサイダーとアイスクリームが飛ぶが如くうれるのであったが、この場所は涼しかったために、それが駄目であった。その代わりに燗酒が売れた。絵はがきは、西の海が新横綱だけに一番売れた・・・・・
   7月27日、横浜入港の布哇(ハワイ)コレラ発生。以後、全国的に拡大、死者7482人
   10月4日、大隈首相、加藤高明を後継に推挙して辞職。9日、寺内正毅内閣成立。内相に*後藤新平を任命。
  後藤新平: 政治家。岩手県出身。医を修め、衛生行政・植民地台湾統治・都市計画に先見と手腕を示す。素人考えながらコロナ禍の今、陸軍検疫部事務長官・衛生局長の後藤の事績を顧みると、学ぶことが多々ありそう。奥州市水沢区に記念館。

 1917大正6年8月、「東洋の本は何でも有る 岩城家の*モリソン図書館」。三菱の岩崎小彌太がモリソン収集の東洋に関する書籍・雑誌・版画まで全部を35万円にて購入。
   東京駒込の図書館兼研究所「東洋文庫」、モリソン収書・岩崎文庫・敦煌文書・イエズス会士書簡集など70万点収蔵。
   モリソン: オーストラリア生まれ。イギリス「ロンドン・タイムス」北京駐在員。
   10月24日、東京株式取引所は、暴落の風吹き荒んで買い方悉く将棋倒しの惨状をていしたり。郵船株は30円50銭安で大引け。

 1918大正7年5月、世界的インフルエンザとなったスペイン風邪流行、死者15万人。
  --- 猛威をふるったスペイン風邪は文壇も襲った。感染した芥川は辞世の句を詠み、彼の友人で、「文藝春秋」を創刊する菊池寛は自らをモデルにした短編小説「マスク」を書く。心臓が弱く、感染すれば、命取りになりかねない、とじっと家にこもり、日々の新聞に出る死亡者数に一喜一憂・・・・・(2020.8.24毎日新聞夕刊「鈴木琢磨のああコロナブルー」)。
   7月、富山県魚津町の漁民妻女ら数十人、米の出荷中止を要求し騒ぐ、米騒動の始まり。翌月には米屋、富商を襲う女一揆に発展。たちまち全国に拡大。名古屋では、知事官邸が襲われ、警官隊と乱闘。
  --- (東京日日新聞) 富山の女一揆には一人の起訴もない。当局の処置もよかったが彼らは一切乱暴を避けた。・・・・・ 一つには当局の処置もよろしかったのだ。同地検事正は杉本時三郎という人・・・・・ もしこれが東京だったら無理にも犯罪者をこしらえたかも判らぬ。
   8月2日、シベリア出兵宣言。ロシア革命干渉、日・米・英・仏がシベリアのチェコ軍救出を名目に出兵。これにたいし与謝野晶子は問う、「何故の出兵か」(横浜貿易新聞)。
   9月2日、寺内内閣弾劾全国記者大会。米騒動の記事を禁止したため、政府の失政と言論の自由弾圧、権力乱用を糾弾する大会で、29日、寺内内閣総辞職。
   9月9日、「母校に帰る女学士 黒田ちか子女史」・・・・・ 東北大学卒業後、真島博士の助手として古代紫の研究に従事し居たる理学士・黒田ちか子女史(38)は、母校なる東京女子高等師範学校に教鞭をとるべく、仙台を去り上京。
   11月11日、ドイツは連合国と休戦協定に調印し第一次世界大戦終わる。

 1919大正8年3月1日、万歳事件、朝鮮各地に独立運動。約6ヶ月続く。
   8月20日、(原敬内)閣朝鮮総督府・台湾総督府官制。総督は武官を任じ、軍事・行政両権をにぎっていたが軍司令官を独立、文官総督の道をひらく。同月、軍人総督・明石元二郎、任地台湾で死去。
   11月、台湾文民総督・田健治郎、台湾軍司令官・柴五郎陸軍大将

 1920大正9年、日本初の国勢調査。総人口7700万人、東京217万、大阪125万、神戸68万。
   1月17日、東京帝国大学、女子の聴講生を許可。
   3月、平塚雷鳥・市川房枝・奥むめお、発起の<新婦人協会>発会式。治安警察法の「女子の政治結社・政治集会参加禁止」条項の撤廃運動を展開。
   5月2日、東京上野公園で日本最初のメーデー

 1921大正10年2月、衆議院、憲政会・国民党より提出の普通選挙法案を否決。  
   10月、歌人・柳原白蓮は夫の炭鉱王・伊藤伝右衛門に絶縁状をたたきつけ、愛人宮崎龍介のもとに走り話題。
   12月13日、ワシントン会議で日英米仏4カ国条約調印。日英同盟破棄。

 1922大正11年2月6日、ワシントン会議で海軍軍縮条約調印。
   <出 版> 「週刊朝日」「サンデー毎日」「令女界」「前衛」などの雑誌が創刊された。山川均が「前衛」に発表した“無産階級運動の方向転換”は山川イズムと呼ばれ社会主義運動の指導理論になった。
   <スポーツ> 第8回中等学校野球大会は、和歌山中学が神戸商業を破り連続優勝。アメリカ職業野球団来日。
   <死 亡> 大隈重信85歳。山県有朋85歳。森鴎外63歳。

 1923大正12年9月1日、関東大震災。マグニチュード7.9、津波襲来。
    空前の大地震が関東一円を襲い、電信、電話、無線電話も不通となり、東京は地震に次ぐ大火災で大混乱に陥った。2日、余震おさまらぬ中で、山本権兵衛内閣の親任式が行われ、「地震内閣」と呼ばれた。政府は東京市・府下4郡・埼玉・千葉、次いで神奈川県にも戒厳令を布いて警戒にあたった。
   <流 行> 野口雨情作詞・中山晋平作曲「船頭小唄」を主題歌とした映画が大ヒット、全国に“おれは河原の枯れすすき”が流行。

 1924大正13年1月10日、第2次護憲運動。
   3月、東京市、水道橋に婦人職業紹介所開設
   5月、アメリカ大統領クーリッジが排日移民法に署名。明治期から日米関係の懸案であった日本人移民の低賃金・長時間労働にたいする白人労働者の反感が原因。日本国内では反米感情が高まる。
   7月、第8回オリンピック、パリで開催、選手19人参加。
   9月、中国では北京政権、広東の国民政府、張作霖の奉天軍閥など、内戦が激化。
   12月、東京婦人会を中心に婦人参政権獲得期成同盟会を結成。市川房枝ほか。

 1925大正14年4月22日、治安維持法公布。5月、普通選挙法公布
   普通選挙法: 選挙権の納税資格を廃し、25歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権を認める。しかし、婦人および植民地人民の参政権を拒否。 
   この年、旧会津若松の藩主・松平保男子爵の長女、節子(勢津子)(18歳)を秩父宮妃に内定
   ちなみに、同年4.16「報知新聞」には秩父宮妃として「芳子姫」内定とある。

 1926大正15年4月、青森・函館間電話開通、本土・北海道電話連絡なる。
   8月27日、第二回国際女子競技大会で人見絹枝、個人総合優勝。
   12月25日、天皇崩御。昭和と改元。

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