明治の図画教育、白浜徴(あきら)(長崎県五島列島)
九州は観光地がよりどり見どり、何度か行ったが景色がよく、歴史にも恵まれ余韻を愉しめる。ところで風光明媚、自然豊かな地は災害に遭うことが少なくないようだ。10数年前、熊本城のすばらしい城壁を見上げて感動、雄々しい姿は目に焼きついている。しかし、熊本地震で大きな被害をうけて修復中である。その九州へ台風がいくつもやってきて処々方々に被害を与え、困難から抜け出せない地域が少なくない。
2020年夏は無事なら東京オリンピックのはずが、コロナ禍でそれどころではなくなった。大型の台風10号は九州ばかりか東日本にまで影響。長崎県は島々が多いから対策も大変だったと思う。
今回の主人公、白浜徴(しらはまあきら)の生まれ故郷、長崎五島列島福江は無事だったろうか。
長崎も行ったが五島列島は行ったことがない。五島列島福江には幕末、黒船来航に備えて再興した城があるという。その五島城(福江城)は三方を海に囲まれた海城としても有名。今回の主人公白浜徴が生まれる前に築かれた。
1849嘉永2年8月、福江城着工。
鎖国以来、わが国唯一の開港場長崎をひかえ、五島列島には多くの異国船の接近や漂着がみられた。オランダ・中国・イギリス(フェートン号事件)・ロシア・朝鮮の船など、五島の浜には多くの外国船の記録が残されている。五島近海が異国船来港で騒然としていた。
わが国の防衛上、本丸・天守閣がない藩主の居城・石田城では異国警備にあたるのはこころもとなく、幕府は経費2万両の半分を貸し付け、早急にその完成を支持した。
1863文久3年、福江城完成。約15年の歳月をついやし、人夫述べ5万人におよんだ。わが国最後の築城である。
--- 城壁・石垣が原型のまま残されているのはめずらしい。現在、城跡に五島高校があり、隣には回遊式庭園をもつ藩主の隠居所が保存されている(改訂郷土史事典『長崎県』石田保1982昌平社)。
白浜 徴 (しらはま あきら)
1865慶応元年12月8日(1866.1.24)、長崎五島列島(肥前松浦郡福江)*福江藩最後の家老の一人、白浜久徴(久太夫)の長男に生まれる。
五島藩(福江藩): 藩主・五島氏。外様大名1万2500石。五島氏は松浦党の一家で豊臣秀吉より本領を安堵。明治維新に際し福江藩と改称、廃藩置県に至る。
1868明治維新、三方を海上につきだしていた福江城は明治維新となり解体された。
1880明治13年、明治十年代に自由民権運動が勃興すると文部省は抑止策として、地方学務局に教則掛と教科書取調掛を設置、国安妨害・風俗紊乱・教育上の観点から、教科書の統制を開始。
--- 現今は実業の世の中となっておる。政治でも軍事でも外交でも悉く実業といふものを保護奨励しておる時勢である(『快馬一鞭』「鞭撻すべき図画教育」)からか、図画の国定はずっと後になる。
1884明治17年、長崎外国語学校を退学し、東京大学予備門に入学。
同学の正木直彦は明治~昭和期の美術教育者・美術行政家。
1885明治18年、病気のため退学。
?年、 長崎県庁外事課勤務。
1889明治22年、東京美術学校(東京芸術大学)に入学(第二期生)。
1894明治27年、絵画科(日本画)および教員養成課程を修了。長崎活水女学校教授。
1895明治28年、高等師範学校助教授。
1898明治31年、『日本臨画帖教授法』出版。
1900明治33年、<鷹の図 >
--- 作品についてはあまり知られていない。本作品のほか、母校であり勤務先でもあった東京芸術大学美術館蔵の2件、そして郷里である五島市の有形文化財に指定されている<犬の絵>(五島観光歴史資料館)が知られるのみである。
本作品は、鷹が軍鶏らしき鳥を押さえつけ、まさに止めの一撃を加えようとする緊迫の一瞬を描いたもの。羽根の一枚一枚そして軍鶏の顔面に食い込んだ鷹の爪等の細部にいたるまでを均質な細線で緻密に描き出しているため、衝撃的な場面であるにもかかわらず、まるで標本図を思わせる理知的な作品となっている。白浜の研究者そして教育者としての資質をうかがわせる作品である(長崎県美術館)。
1901明治34年、東京美術学校教授。正木直彦を中心とする教育的図画政策に携わる。
日本画、教育学、教授法、幾何画法、英語を教えた。
1902明治35年、黒田清輝らとともに日本の美術教育を見直すための「普通教育ニ於ケル図画取調委員会」の委員となり、西洋図画教育の調査をする。
<同35年~36年、教科書疑獄事件>
検定制度の末期に小学校教科書の採択に関連して発生した贈収賄事件。知事・代議士・県会議員・視学官など200余名が検挙された。この事件をきっかけとして教科書国定化が急速に進められる。
1903明治36年4月、小学校令改正。小学校教科書は原則として、文部省が著作権を有するものとし、修身・日本歴史・地理・国語読本は国定に限るとし、国語書き方手本・算術・図画も国定に加えた。
文部省図画教授法講習会講師・国定図画教科書編纂委員となり、教育的図画の理念実現を図る。
1904明治37、文部省は図画研究のため白浜を米・仏・独へ3カ年派遣。米に留学。
マサチューセッツ州立図画師範学校(現・マサチューセッツ美術大学)4年次に編入学、翌年に同校を修了。その後、イギリス、フランス、ドイツの美術教育法の調査。
留学の成果は、明治末から大正初めにかけて発行された『尋常小学校新定画帖』(1910年)、『高等小学校新定画帖』(1912-13年)などの教科書や『図画教育の理論と実践』(1911年)などの研究書にまとめられ、日本の美術教育を臨模(りんも)主義(絵手本を元に学ぶ)から児童の創造性の啓発を主眼とした教育法へと大きく転換させる。
1905明治38年、教科書疑獄事件に鑑み文部省は小学校図画教科書編纂を国の機関で行うことにし、編纂委員長・正木直彦、委員に上原六四郎・白浜徴・小山正太郎を任命。
1907明治40年4月、ヨーロッパから帰国。
東京美術学校・図画師範科設立に尽力。の主任教授となり、図画教員を養成。20名内外の卒業生をだす。
9月、『改正小学校令適用図画科教授法』西松団三(秋畝)著、校訂。
1909明治42年、『新式幾何画練習帖解説.平面幾何図法』 第1~3編。
1910明治43年、小学校国定図画教科書の改正のため、白浜ら5人委員となる。
--- 図画の教育的価値が増大してきて、終には『新定画帖』の出現をみるに至った。 『新定画帖』といえば、昨今(昭和4)ではもうカビの生えた廃物のように思って隅っこに押し込んでいる学校もあり、あまり顧みられないものが多くなったように思われるが、できた当座は、随分やんやともて囃された・・・・・ 自分なども講義を聴かされて、受け売り得意になったことを覚えている。『新定画帖』を云々しようとならば、その産婆役たる三人を逃してはならぬ。小山正太郎と安部七五三吉と白浜徴である・・・・・ 図画教育家としてはいずれも相当の見識を具えている。三人三様の特徴を出し合って生み出した・・・・・ 『新定画帖』は図画の世界におけるデパートメントストアだとある人は言った。これまで臨画ばかりであったものに、記憶画・写生が・考案画などが加わった(『明治大正教育教授物語』)。
--- 『新定画帖』にみられる白浜の色彩教育システムは、フローリッヒとスノーによる『美術教育テキスト』に準拠したものといわれるが、プラングの『カラー・インストラクション』の影響も認められよう。白浜の色彩教育法は、明治時代をこえて長く適用されている(「明治のころの小学校における色彩教育」緒方康二1987日本色彩学会誌)。
1911明治44年3月、『色彩の練習. 甲乙種』・『図画教授の理論及び実際』
--- 欧米 得た色彩学の知 識は、『図画 教授 之理 論 及 実 際』等にも詳し く記される。美術等の専門家教育の場、または教科書等に、白浜は欧米の最新の色彩学 的知見を反映させる役割果たした(「日本近代における色材と色名の展開について」國本学史)。
1914大正3年、『小学校図画教授法』・『図画理論教科書』
1917大正6年、『文部省講習会図画科講話集』
1921大正10年、『普通教育新定図案』前集・後集。
1924大正13年、『新図画帖教師用書. 高等女学校用』・『新図画帖教師用書. 中学校用』
1926大正15年、『錦巷会美術教育叢書. 第1編(現代の美術教育)』監修。
1928昭和3年4月9日、在職中に死去。享年、64。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『図画教育の研究と指導』山崎隆一郎1929三友社 / 『画の教育学』上阪雅之助1930刀江書院 / 『快馬一鞭』坪野平太郎1914日東堂書店 / 『明治大正教育教授物語』教育週報社1929モナス出版 / 『近現代史用語辞典』1992新人物往来者 / 国会図書館デジタルコレクション他
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