『左部彦次郎の生涯』足尾銅山鉱毒被害民に寄り添って(群馬県)
コロナ禍に加え猛暑がキツい、そのうえインフルエンザも心配な令和2年初秋。
齢を重ね愉しい事ばかりじゃないと気付くも「息を潜め、人を避けて安全」という世を考えたこともなかった。肌で感じるより深刻な時代にいるのかもしれない。
目に見えないコロナウィルスに日常の当たり前を奪われているが、はっきり目に見え原因も分かるのに解決されない問題もある。たとえば、公害問題がそうだ。
明治中期の大きな社会問題。足尾銅山鉱毒事件、被害民に寄り添って活躍した田中正造を知らない人はいないだろう。その田中正造と共に被害民の力になったのが左部彦次郎である。
しかし、あまり知られていないばかりか非難する向きがある。早稲田の学生当時から現地で救済活動をし避難民の力になり、家産を傾けてまで尽くしたのに、なぜ?
“足尾鉱毒事件/左部彦次郎のなぜ” 2010.7.13
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このほど、左部彦次郎のなぜに応える書がでた。『左部彦次郎の生涯--足尾銅山鉱毒被害民に寄り添って』(安在邦夫2020随想社)である。
『左部彦次郎の生涯』著者は、結論を押しつけるのではなく、丹念に様々な研究論文を提示し鉱毒問題、左部と被害民の関係とその生涯を解き明かす。
序 章 左部彦次郎の歴史的評価をめぐって
第1章 生誕・成長と足尾銅山鉱毒問題との遭遇
第2章 鉱毒被害民救済活動への邁進
第3章 川俣事件への連座
第4章 谷中村廃村問題の中で
第5章 土木吏としての活動・晩年
終 章 左部彦次郎の生涯に触れて、そして新たな課題
左部 彦次郎 (さとり ひこじろう)
1867慶応3年、東京府四谷区谷町、風間左兵衛の次男に生まれる。
1876明治9年12月、古河市兵衛、足尾銅山を相馬家と共同経営。
足尾銅山: 江戸時代、幕府が直轄していた。明治4年、民間に払い下げられ、手押しポンプ・水力発電所・錬銅所など機械化が進められる。明治後期には全国産銅の3分の1を生産、古河財閥発展の基礎をつくった。しかし、鉱毒が大きな社会問題となる。
1879明治11年2月14日、群馬県利根郡奈良村、左部宇作の養子となる。
1884明治17年5月17日、大河原徳治郎の次女・はんと結婚。
1888明治21年9月、東京専門学校政治学科(早稲田大学)入学。
1890明治23年8月23日、渡良瀬川大洪水。沿岸の農漁業に異変。
1891明治24年3月、群馬県会、鉱毒救済の建議を知事に提出。
7月、東京専門学校卒業。鉱毒被害調査のため群馬県邑楽郡大島村(館林市)小山孝八郎方に寄留。被害民救済活動を始める。
12月25日、田中正造、帝国議会で足尾鉱毒問題に言及。政府の対策を追求したが、適切な処置がとられなかった。被害農民は再三、上京を試み警官と衝突する。
1892明治25年1月25日、左部、群馬県邑楽郡四村長より「鉱毒除外並に採鉱事業停止停止の請願書」提出への尽力で感謝状を受ける。
この感謝状について『早稲田大学百年史』は、「正義感に燃えた熱血漢左部の姿を彷彿させる」と誇らしげに記す。被害民が左部を頼り、左部もそれに応える様は感動的である。
その一方、この頃から各地被害民と古河側との間に逐次暫定示談契約成立し始める。
1894明治27年、左部、群馬県利根郡池田村奈良の初代・消防頭をつとめる。
8月1日、清国に宣戦布告(日清戦争)。
1895明治28年11月、栃木県会、足尾銅山の渡良瀬川へおの鉱屑など投棄禁止の建議を知事に提出。足尾銅山付近の官林伐採禁止の建議を内務大臣に提出。
1896明治29年、利根郡より群馬県会議員に立候補、落選。
7月21日、渡良瀬川大洪水。 8月17日、渡良瀬川再度洪水。
9月8日、再々度、渡良瀬川大洪水。鉱毒問題再燃。
10月5日、足尾銅山鉱業停止誓願事務所設置(雲龍寺。両毛鉱毒被害事務所または両県鉱毒事務所)。
12月、栃木・群馬両県八村総代、出京し農商務省・東京鉱山監督署などに陳情。
1897明治30年1月28日、神田青年会館にて足尾銅山鉱業停止演説会。
傍聴者は紳士、学生1000名。登壇者、高橋秀臣・松村介石・津田仙・島田三郎ら(国民新聞30.3.2)。田中正造も演説、「農商務省は腐敗きわまれり・・・・・ 鉱毒の害を虚なりとせば、試みに鉱毒の水を汲み来たりて農商務大臣に飲ましめよ(時事新報30.3.25)
2月、足尾銅山鉱業停止請願同盟事務所(東京鉱業停止事務所)設置。
3月2日~5日、鉱毒被害民、第一回・大挙出京請願。
・・・・・ 一同わらじを踏んで南上し、館林、佐野、古河などの警察署管内んて警察官などの切に制止したるにもかかわらず、そのうちの八百余名は一昨日深夜深夜に乗じて上京し、昨朝6時を期して日比谷ヶ原に集合(東京日日30.3.4)
3月23日~30日、鉱毒被害民第二回・大挙出京請願。
5月、東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒予防工事命令。
9月9日、渡良瀬川工事洪水。
10月、行動防止工事は失敗・・・・・ 風雨のため足尾銅山除害工事、破壊し山林乱伐を止めざるを実地視察し確認。工事不完全にして砂防工事大破壊を来たし、効能無き旨を、農商務省・内閣調査会・内務省・大蔵省へ上申(時事新報30.10.9)。
1898明治31年2月、群馬・栃木・茨城・埼玉4県68町村および鉱毒被害民総代、「鉱毒被害地特別免訴処分請願書」を関係大臣に提出。
6月3日、渡良瀬川洪水。 9月6日、渡良瀬川大洪水。
9月26~10月6日、鉱毒被害民第三回・大挙請願出京。
11月、『請願運動部面の多き被害人の奔命に疲れて将に倒んとするに付便宜を与えられ度為め参考書』刊行。
1899明治32年5月26日、『歳費辞退 田中正造翁』左部彦次郎著・出版。
1900明治33年2月4日、群馬県被害民を主とする約千名、雲龍寺に集合。
2月13日、鉱毒被害民第四回・大挙出京請願(川俣事件発生)。
1901明治34年9月、『足尾銅山鉱毒被害地検証調書』左部彦次郎編・出版亀井朋次12月(国会図書館デジタルコレクション)。
10月6~13日、鉱毒被害地臨検に同行。
12月12日、『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』編、出版・鉱毒事務所。
12月27日、『明治三十四年九月 足尾銅山鉱毒被害地 検証調書』著す。
1903明治36年10月13日、『鉱毒ト人命』著す。
1904明治37年2月10日、ロシアに宣戦布告(日露戦争)
1905明治38年10月、左部は運動から離れ、栃木県土木吏に就任。
左部が若い頃から被害民によりそい、家産を傾けてまで打ち込んだ運動から離れた。それも反対側の立場とも言える県吏になった。この転身の影響は計り知れない。しかし左部は弁明しない。この件について『左部彦次郎の生涯』著者は、
---土木吏就任については・・・・・決壊して沿岸農民が苦しんだという現実(治水上の問題としたことの是非や県が放置した・・・・・)から、堤防工事に携わることを"鉱毒被害民に寄り添う新しい生き方"として主体的に選んだとし、この動向を"転身"という概念で捉えた。それは身の置き所を換えたということであっても、基本的な主義・信条の変更を意味しない(安在邦夫)。
まったく同感である。ここに挙げただけでも渡良瀬川は7回も洪水、氾濫している。その被害が大きければ大きいほど、治水・堤防・土木工事等に思い至るのではないか。
それを実行する手段を有するのが反対側にしかないのなら、理解されずとも防災第一を考える。次の被害を防げるのなら、転身する価値はある。理詰めにそう考えたかも知れない。素人考えながら、漢詩ができて歌も詠め筆が立つ、なのにその方面ではなく、雨風にさらされることもある現場を選んだのがその証と思う。
1908明治41年1月14日、娘・春江(大場美夜子)生まれる。44年、鹿沼在住。
1914大正3年、神奈川県県吏となり厚木勤務(相模川堤防工事責任者)。
1918大正7年、神奈川県三浦三崎勤務。 大正9年、神奈川県小田原勤務。
1922大正11年、神奈川県厚木勤務。
1923大正12年9月1日、関東大震災。厚木の居宅で震災に遭う。
1925大正14年3月、娘・春江の館林高等女学校(年末試験)ボイコット事件で、学校へ抗議。
1926大正15年3月24日、神奈川県中郡平塚町2417番地で死去。享年59。
参考: 『日本史事典』1908角川書店 / 『明治日本発掘』1995河出書房新書 / 『日本史年表』1990岩波書店 / 国会図書館デジタルコレクション
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<参考>
論文紹介 <足尾鉱毒事件と左部彦次郎--その生涯と運動への関わり方-->桑原英眞
掲載誌: 『群馬文化』338号(令和元年12月)
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