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2020年9月26日 (土)

建築家の明治・巣鴨監獄・横浜正金銀行、妻木頼黄(江戸東京)

 コロナ禍、不要不急の用しかない身、閑にまかせて貯まったパンフレットやチラシを取り出してみた。すると、東京メトロ「沿線だより」に<旧醸造試験所>、豊島区郷土資料館「かたりべ」に<巣鴨監獄>、両方に「妻木頼黄」の名があった。それで、手元の人名事典で妻木頼黄をひいたが見あたらない。他を探すと<明治建築界の巨頭>とあり、知る人ぞ知る人物のようだ。
 建築とか技術畑のほうが政治家・学者・文化人より業績が見えそうだが、小さい辞典だと載らなそう。辞書の容量と相談、人数に限りがあろうが、取捨選択は難しい。

    妻木 頼黄      (つまき よりなか)
 1859安政6年、江戸赤坂の旗本の家に生まれる。
    江戸末期から明治初期の時代の変革期に幼少期を過ごす。
 1878明治11年、工部大学校(東大工学部の前身)へ入学したが中退。。
   アメリカ・コーネル大学で建築学を学ぶ。このとき、相馬永胤(のち実業家)・目賀田種太郎(のち官僚)二人の知己を得、活躍の支えとなる。
 1885明治18年、アメリカから帰国。
 1886明治19年、官庁集中計画のため内閣に臨時建築局が組織され妻木はその技師となり、大蔵省の技師としてキャリアを積み重ねていく。その背景には同省主税局長・目賀田種太郎の存在があった。

 1887明治20年末、中央官庁街建設の準備として建築家妻木頼黄渡辺譲河合浩蔵日本人建築職人17名、ドイツに赴く。一行はベルリンのエンデ&ベックマン事務所で修行。
   しかし、外務大臣・井上馨の失脚とともに官庁集中計画が未完に終わり、留学は打ち切られ日本に呼び戻される。
 1888明治21年、帰国後、妻木は渡辺から東京裁判所の仕事を引き継ぐ、29年完成。

 1891明治24年、巣鴨監獄起工
  --- 妻木は監獄建築にも熱心でした。完成後の講演の中で、欧米の実地調査をもとに、監獄の立地条件や建築上の留意点、特に通気等の衛生面と監視面の改良を強調・・・・・ 建築とともに監獄則の整備が伴わなければ本当の改良ができないことを指摘(『大日本監獄協会雑誌』)。
  同年、東大寺大仏殿の明治大修理に関し、奈良へ出張を命ぜられる。以来、1913大正2年まで、長期にわたり古社寺保存に関与する。

 1894明治27年、東京府庁舎。レンガ造りで中央に塔をたてた官庁スタイル。
   同年、広島仮議院を着工から二週間で完成させる。
   同年、横浜税関監視部庁舎。レンガ造2階建ての庁舎。
    妻木と横浜税関の関わりは深く、横浜税関拡張工事で建設されたなかでレンガ造倉庫二棟が横浜赤レンガ倉庫として現存。

 1895明治28年、約4年半を費やして巣鴨監獄竣工(東京府巣鴨村)。
  --- 約6万2500坪の広大な敷地に建つ煉瓦造の巣鴨監獄。10棟の監舎には300の雑居房、収容人数は2400人。構内は芝生、電線を架設、運搬用のトロッコのレールが建物を繋ぐなど近代的な設備が導入された(「かたりべ」)。
 ちなみに、「一大城塞の偉容」誇った監獄も関東大震災で被害を受け、1935昭和10年府中に移転、約40年で姿を消す。

 1896明治29年、東京裁判所竣工。ドイツ政府が推薦した建築家エンデ・ベックマン設計。工事主任・妻木頼黄。
   この年、内務省の古社寺保存会委員を委嘱される。東大寺は荒廃した大仏殿の修理に向けて寄付金を募るなどの活動を行っていた。濃尾地震をきっかけに内務省に働きかけ、内務技師であった妻木が、明治の大修理に関し奈良へ派遣された。
 1897明治30年、古社寺保存法(文化財保護法の前身)成立。

 1898明治31年、本格的なドイツビール醸造工場を設計。
  --- 「カブトビール」は製造を終了したが、一時は全国シェア10%を占めた人気ビールであった。・・・・・ 工場は「半田赤レンガ建物」として当時のままで、半田市(愛知県)が買い取り観光施設としてリニューアルオープン(『市政2018年7月』市長座談会)。

 1899明治32年、東京商業会議所
 1900明治33年、臨時税関工事部建築課長に就任。    
 1899明治32~37年、横浜正金銀行頭取・相馬永胤の依頼により同行設計。
  --- 横浜正金銀行は妻木が指揮したもっともすぐれた作品で、かつ個性的である。東京裁判所で苦労した妻木は耐震的な対策に特に苦心したが、関東大震災のとき不運にも火災でやられてしまった(『神奈川県建築士図説』大岡実)。
  ――― ドームは焼失したが、写真を基にして1967昭和42年に復元・・・・・日本を代表する近代建築として国の重要文化財に指定されている(2021.8.13毎日新聞・ぐるっと東日本)。
  ―――横浜の赤煉瓦倉庫を設計。明治末から大正初めにかけて完成した二棟の倉庫は、特殊なもの以外は日本の鋼材が用いられ、現在のスプリンクラーに相当する非常用水道管やエレベーターも備えた画期的なものであった。

 1901明治34年、大蔵省総務局の営繕課長。
 1902明治35年、農商務省の関連施設として醸造試験所の設計監督にあたる。
 1903明治36年、大蔵省大臣官房営繕課長。

 1904明治37年、醸造試験所第一工場竣工(東京北区滝野川)。
    ドイツのビール醸造施設を応用して設計。建物の内側と外側でレンガの積み方が異なる。また白い釉薬の麹室、38種類のレンガを積み上げたアーチ型通路など建築技術の高さを物語る。今も現代の機械を用いて醸造を行っている現役の施設。重要文化財。

   同37年、横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館、重要文化財)完成。翌年にベルギーのリェージュの万国博覧会に正金銀行の「設計図案」を出品、名誉賞を受賞。
   --- 西洋建築様式の習熟に邁進した明治建築の一つの到達点といえる外観。玄関が設けられた隅部では、2本に付け柱がペディメント(古代ギリシャ建築にみられるドアや窓の上にある三角の切妻壁)を支え、巨大なドームがバロック的な壮大さを強調する。(青木祐介)。

   余談。横浜正金銀行の名をはじめて知ったのは、柴五郎の諜報報告にでてきたからで、見学にいったことがある。今は歴史博物館となった建物の雰囲気はなかなかよかった。しかし、明治建築ならではの細部がもたらす多彩な陰影を味わうことなく、漫然と歴史を感じただけだった。ここに限らず、見学に行くなら少しは予習しないともったいない。今さら思う。

 1905明治38年、大蔵省大臣官房臨時建築部長。官庁営繕のトップに上り詰める。
  --- 妻木は多くの建築技師たちを従えた官庁営繕組織のトップとして明治時代を担った。これに対し、学会を組織し、在野の立場を貫いたのが辰野金吾(明治建築界の開拓者・指導者)、宮内省技師として宮廷建築に才を発揮したのが片山東熊(赤坂離宮・迎賓館)である(青木祐介)。

 1908明治41年、大蔵省臨時建築部長・妻木は、京都高等工芸学校教授・武田五一を臨時建築部に入れて欧米の議事堂を視察させる。これに、辰野金吾らは議事堂建築を設計協議にかけることを提案。その後、建築学会で建築様式について討論された。
 しかし、妻木の案は当時の日本では財政上無理で計画は流れてしまった。議事堂着手は、妻木・辰野金吾の死後になる。

 1916大正5年、死去。享年57。
  ---(継承される技術と人脈) 同世代の建築家たちのコメントに共通しているのは妻木の人脈の広がりと彼への信頼の強さである。あれだけ妻木と張り合っていた辰野金吾でさえも、「部下を統率するの材に秀でた人でした(中略)それらの人達から敬慕される事は亦一通りではなかった、此の点に就ては吾々の連中で一等であった」と賞賛を惜しんでいない。・・・・・ 建築家の職能さえ確立されていなかった明治時代に、国家と時代を背負った妻木が遺したものは・・・・・ 様式・材料・技術などを含めた総体としての建築家の在り方ではなかっただろうか(『日本近代建築家列伝』青木祐介)。

   参考: 「東京メトロ沿線だより」2018年10月号 / 「かたりべ123」2017.3.24豊島区郷土資料館 / 『明治の建築』桐敷真次郎2001本の友社 / 『日本近代建築家列伝』2017鹿島出版会(妻木頼黄の項・青木祐介)

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