幕末明治の函館、欧米技術を導入した父子、続豊治・福士成豊(北海道)
猛暑の9月、台風10号が九州地方を襲う。7月の豪雨で球磨川や支流の氾濫で復旧途上の地域もあるのに、暴風雨は容赦ない。台風の強度や進路を予測できても、暴風雨を食い止められない。科学技術は進歩したが自然のエネルギーに太刀打ちできてない。地球規模で研究が進むことを願うばかり。
ところで、幕末維新期は科学技術を外国人から学んだ。それを江戸、長崎でもなく遠く離れた北海道で遂げた人物がいる。日本初の洋型帆船を建造した続豊治、科学技術を導入した息子の福士成豊である。
さて、欧米人から学問技術を学ぶにはまず外国語が必要である。開国まもない北海道で、どのように言語を修得、科学技術を学んだのか。父子の足跡をたどってみよう。
続 豊治 (つづき とよじ)
1798寛政10年、青森県下北(むつ市)から北海道福山(松山)に移住。そこで生まれる
2歳で船大工の養子。6歳で養父母と函館に移住、造船を習う。
1812文化6年、14歳から大工町の船大工・藤山勘八に弟子入り技量が評価される。
1817文化14年、高田屋嘉兵衛の造船所で働く。
1833天保元年、35歳の時、主人・高田屋金兵衛(嘉兵衛の弟)に従い江戸、大阪、京都、日光等の名勝旧跡を旅行、神社仏閣の彫刻、上方細工、造船などの技術を学ぶ。
1823文政6年、25歳で養父・続五郎治の三女・カナと結婚。
1828文政11年、船工組頭になる。
1833天保4年、高田屋の没落により造船場は閉鎖され、船大工を辞めて仏壇師になる。
1854安政元年、日米和親条約により函館開港、ペリー艦隊が来航。
この時、次男卯之吉と共に「黒船」を観察するため磯船で近づくが、監視の役人に発見され投獄される。しかし、熱意が箱館奉行に認められ、異国船応接方従僕という身分でアメリカ艦隊に自由に出入りできるようになった。そして、洋型船製造を命ぜられる。
1856安政3年、ボート2隻を造る。
1857安政4年、*箱館丸。箱館御用船大工棟梁に任じられる。
箱館丸: 日本人により建造された洋式帆船。復元公開されている。西洋式帆船スクーナー(スクーネル)で、進水式には箱館奉行が出席。奉行は「箱館丸」に乗船して江戸へ帰った。
1859安政6年、改良型の亀田丸を造船。日本人による初めての洋型帆船である。
続けて和洋折衷型の豊治丸建造。
豊治は外国船を詳細に観察することで、二本檣(ほばしら)のスクネール型の建造に成功。外国人の指導によらず西洋型船舶の建造に成功した最初の例(箱館型)である。生涯、15隻の洋型帆船を建造。
造船にすぐれた豊治は、銅屋九五郎(大砲・小銃など鋳るのに妙)、工藤林十郎(六連発七連発銃など武器製造)とともに、函館奉行から三絶功(さんぜつこう)と称えられた。
1875明治8年、開拓使が西洋型船建造を奨励する方針を打ち出すし、豊治は西洋型帆船建造に取り組み、死去するまでの4年間に、大小各種のスクーナー12隻を造った。
1880明治13年2月、死去。享年83。実行寺に墓がある。
福士 成豊 (ふくし なりとよ)
1838天保9年、船匠・続豊治の5男に生まれる。 幼名卯之吉・宇之吉、通称五郎。
1843天保14年、航海業・福士長松の養子となる
1850嘉永3年ごろ、函館の私塾・愛池堂に入り5年ほど和漢の学を修める。
1855安政2年ごろ、実父について造船術を修得。
1856安政3年、造船業を始める。
1857安政4年、洋式帆船・箱館丸の建造を手伝う。
1862文久2年、英語力をつけるためアメリカ代理領事に英語の指導を受け、さらに在留イギリス商人アレキサンダー・ポーターの店員となり英語を習得。
1864元治1年、ポーター商会勤務中、新島襄と出会いアメリカ密航を手伝う。
1865慶応元年、退店して再び造船業を営む。
イギリス人トーマス・ブラキストン(ブレーキストン)から、測量・機械・測候・博物学を学ぶ。ポーター商会を辞め、箱館奉行所の御船大工棟梁見習になる。
1868明治元年5月、苗字帯刀を許され、名を「成豊」と改める。
11月、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席、2等訳官。
箱館府: 明治1年に設置された地方行政庁。
1869明治2年、開拓使函館支庁に出仕。
開拓使: 明治初期の北海道開拓と経営の行政機関。当初、北海道と樺太を管轄。明治5年からお雇い外国人を導入して開拓を開始。
1870明治3年、権大主典となり札幌本庁・民事局地理課に勤務。測量にあたる。
1871明治4年、函館では慶応4年以来ブラキストンが気象観測を行っていたが、ケプロンが北海道開拓使顧問団長として来日。
ケプロンは気象観測の重要性を説き、ブラキストンの観測成果を利用して、北海道の気候を論じる。そしてブラキストンを通じ、福土成豊にすすめ、気象観測所の設置を開拓使に建議させた。
その一方、測量の技術者である福士にブラキストンの測器を貸し与え、官舎(函館区船場町9番地)にすえつけて気象観測を開始させる。その測器は、空盒(ごう)晴雨計・コロメテル乾湿計・フレミング型雨量計などで、観測のためには充分とはいえなかった。
その後、福士は函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン、デーらの指導のもとに実施された三角測量に従事した。
1872明治5年5月、苗字帯刀を許され、名を成豊と改める。
---「明治五年七月二十三日、はじめて地方時午前九時、午後二時、午後九時の三回観測を施行す。且つ同時に、時辰儀検測を命ぜらる。当時、本所は民事局地理係に属し、気候測量所と称す」と記録されている。東京ではこれに遅れること3年、明治8年6月1日東京赤坂の内務省地理寮構内において観測が始められた。昭和16年この日を記念して、現在の気象記念日が制定された(『函館一等測候所沿革史』)。
気象測器を英国に注文、測器が到着したのを機会に、開拓使函館支庁は気候測量所を設置。
8月26日、ブラキストンの気象観測を引き継ぎ、函館・船場町(現・末広町)の自宅に気候測量所を設け、正式に国家の機関として気象観測を開始。日本人初の本格的な気象観測を始め、北海道の測量、気象観測事業の上で指導的な役割を果たした。
1873明治6年、「渡島国函館気候略表」記述出版・北海道渡島国亀田郡函館測量場。
1874明治7年、北海道の苫小牧の近くの勇払(ゆうふつ)測量。
日本で初めての本格的に行われた三角測量の基線(きせん)測量を担当。
1875明治8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年には千島列島を調査・測量して「クリル諸島海線見取図」を作成。その後も北海道の測量、気象観測事業の上で指導的役割を果たした。
本格的な三角測量が全北海道にわたって実施される。原点は函館の三角点で天文観測によりその経緯度を求め、また基線はワッソンの当初計画であった石狩川上流では見通し距離が得られず勇払の主基線と函館の補助基線の計2ヶ所設置された。
1876明治9年、三角点は約50点設置されたほか天文観測により約30点の位置が求められ、この三角網は全道のほぼ5分の2の面積を覆い、一応の成果を得ることができた。「1875年の北海道三角測量」を米国で出版、開拓長官・黒田清隆に報告している(<渡辺光:勇払基線および函館助基線の地図学的意義「地図」16巻4号 日本国際地図学会>)。
1883明治16年、『函館測候所報文』によれば、観測の担当は福土成豊ほか1~2名程度であったらしく、観測測器は準規水銀晴雨計・準規水銀寒暖計・験湿器・最高寒暖計・最低寒暖計・雨量計(口径8英インチ)など全部英国カセラ製で、キュー気象台の検定証付きのものであったといわれている。これらの事情は、『北海道気象報文函館の部』1897にも書かれている。
この函館気候測量所こそは、明治政府の手になる日本最初の気象観測所で、後の函館測候所、函館海洋気象台の基礎となったものである。
1887明治20年、5等技師に昇進、従7位。
1891明治24年3月、退職。札幌に居を定め、以来悠々自適の余生を送る。
1922大正11年、死去。享年85。
福士の墓は函館山の麓、称名寺(浄土宗)。父・続豊治の墓は、隣の実行寺(日蓮宗)。親子別々の寺なのは、福士が養子に行ったためと思われる。
参考: 『北海道歴史事典』渡辺茂1982北海道出版企画センター(本書巻末の分類索引は解りやすい。北海道独特の地名・貢租・交易品・社会文化など) / 『北海道の歴史』2000山川出版社 / 『函館の歴史』須藤隆仙1980東洋書院 / 『北の資料』2002・「北の資料.」2014北海道立図書館北方資料室 / 「福士成豊関係文献目録」1986北海道開拓記念館 / 『北海道開拓記念館研究年報』第14号別刷 / 『同志社談叢』第7号1987同志社大学 / インターネット/honmokujack.blog.jp /国会図書館デジタルコレクション
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2022.6.25記
『函館新聞』2018.12.22
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「福士成豊の偉業伝える」―――福士成豊(幼名・卯之吉)・・・・・箱館山之上町(現在の弥生町)で生まれた生粋の箱館っ子。・・・・・(中略)・・・・・彼の残した辞書『萬用手控』には函館弁が書き残されており、味わい深い・・・・・(後略)。
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