大地形・地誌・文化地理、昭和の地理学者、帷子二郎(岩手県・奈良県)
地歴という言葉がある。地理と歴史は近いもののように思えるが、筆者は理数と同じく地理も苦手。町村の歴史に興味をもっても、土地そのものにはあまり興味が無い。しかし、いつの時代も地震や火山の爆発など自然災害がおこる。その時、被害の歴史はもちろん地形・地誌・地理それに地学など知識があると役立ちそう。
帷子 二郎 (かたびら じろう)
1898明治31年、岩手県で生まれる。
1906明治39年4月、小坂元山尋常高等小学校創立。小坂鉱山事務所が校内に電灯の架設。
以下、「母校の創立30周年を迎えて」(第2回卒業生・在奈良 帷子二郎)
---尋常1年のときは元山から下の小坂校へ半里余の道を通った。吹雪の日など随分困った。2年の時、元山小学校創立。通学が便利になった。・・・・・習字にマルをたくさん貰って喜んだ事や、算術が解らなくて鶴亀算になどに困ったことや、唱歌が下手だったことが思い出される。国語は大変好きで面白かった。
「人の長く生きてるのや短く生きて居るのは、しごとの大きいと小さいとで量るのありまして、年の多いのや少ないのを以て量るのではありません」 尋常4年頃の国語の答案かと思いますが、偉い事が書いてあるものだと当時の先生に敬服せざるを得ません。
・・・・・ 殆ど樹木もない*鉱山の風景、一般の人には無味単調に見えるかもしれませんが、私には鉱山のトロッコ、長屋といったものが全く懐かしいものである。先年、足尾銅山を訪れ、この感情を深くしました(昭和12年2月6日記)。
小坂鉱山:秋田県鹿角郡小坂町の鉱山。1861文久元年発見、南部藩が経営、明治に政府が再興。経営が藤田組に移り銅をふくむ黒鋼を発見、屈指の銅山となる。
?年、 岩手県立福岡中学校(のち岩手県立福岡高等学校・二戸市)入学。
?年、 第三高等学校(のち京都大学)入学。
1920大正9年、東京帝国大学理学部地理学科に入学。
1923大正12年9月、関東大震災の直後で東京は焼け落ち学校は休み。
2人は、1日目は池田方面を歩き地層を、2日目は落合や轟鉱山を探り地質を、3日目は山梨準高原から小樽奥沢水源地までを巡り外輪山を見、山梨準高原で岩石を1個採取して持ち帰る。
1924大正13年、卒業論文、北海道小樽市南方の「赤井川カルデラ」を研究。
<カルデラ盆地の発見>
---赤井川村は北海道唯一の「カルデラ盆地」として景観を誇っています。そのカルデラを最初に発見した、赤井川尋常小学校の訓導・伊藤従理が「赤井川はカルデラでは」という疑問を地学学会誌に照会したことに始まります。この手紙を帷子二郎(東京大学地質学科4年)が目にして、伊藤従理との赤井川の実地踏査を行います(赤井川村HP)。
1925大正14年、28歳。日本地理学会が創設され、発会にかかわる。
この年、奈良女子高等師範学校(のち奈良女子大学)講師、のち教授。また、奈良地理学会を創設、活発な研究、啓蒙活動を開始。
1926大正15年、学会誌『地理学評論』に「北海道赤井川カルデラについて」発表。
この論文では赤井川本村を取り巻く大黒山、元服山、山梨準高原を第二カルデラ(洪積世末)と呼び、余市のシリパ、稲穂峠、阿女鱒岳、小樽の赤岩に囲まれた地域を第一カルデラ(第三紀末~洪積世初期)としています。このカルデラの面積は約78.5平方粁(k㎡)で洞爺湖はもとより支笏湖よりも大きいものです。この論文は道内の地学研究者の大反響を呼びました。ともあれ、赤井川がカルデラであることを世間に広めることになりました(北海道余市郡赤井川村HP)。
1930昭和5年、高知県四万十川の大きく迂回する流路の原因を現地調査によって地形学的に考察。
コーベル『地球の組織』の山脈論を紹介し自分の縁を述べたり、他の学説を紹介して造山論の歴史を『地理学評論』(山崎直方記念号)に発表。
1931昭和6年、『世界地誌 西欧及び中欧編』『世界地理図集』(西田与四郎と共編)刊行。
1932昭和7年、『地理学講座』に19世紀後半以降の造山論史を総括し寄稿。
1933昭和8年・1938昭和13年、国外の広い地域を概括する業績をあげる一方、奈良県及び近畿地方に関する集約的な調査研究も行った。
1934昭和9年、『日本地理図集』刊行。樺太・台湾・朝鮮地方をふくむ各地方の関係図と総図からなり、収載図は、人文諸事象の分布図・地体構造・地形区・気候区など。
1937昭和12年、世界教育会議東京大会、国際地理学科会議アムステルダム大会に出席。それぞれ日本の地理教育についてフランス語・オランダ語で報告。
1940昭和15年、『東亜地理図集』刊行。
1941昭和16年12月、ハワイ真珠湾空襲。日本、対米英宣戦布告(第二次世界大戦)。
1944昭和19年、南イタリアの主戦場で反枢軸軍(米英仏)に占領された地域の地理的な解説をイタリア語文献に基づき行う。
1945昭和20年、日本敗戦。
1946昭和21年、京都帝国大学文学部地理学科・立命館大学文学部の講師を兼任。
西日本地理学会創立。
1948昭和23年、『人文地理』創刊。シベリアの開発および発展の困難さと自然環境との関わりを述べる。
1951昭和26年、理学博士。「大和高原の断層地形研究」概要を、国際地理学会リオデジャネイロ大会で発表。
1954昭和29~1958昭和33年、人文地理学会会長。
1961昭和36年、64歳。定年退官。天理大学・おやさと研究所、研究員。
1966昭和41年、天理大学教授、宗教地理学を講じる。
天理大学付属天理図書館の英・独・仏・伊語の文献を使って、アフリカの自然と民族、とくに黒人アフリカの宗教などを研究。
1969昭和44年、現職のまま死去。享年78。
遺著『世界の文化地域と宗教』既発表の主要論考、および天理大学での宗教地理学の講義ノートなど集録。
参考:『日本地理学人物事典(近代編2)』2013原書房 / 「創立三十周年記念誌」1937秋田県鹿角郡小坂元山尋常高等小学校 / 『日本史年表』1990岩波書店
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地理学をよく解らないまま何かあるかと地学の本も借りたがやはり別物。でも、せっかくなので見てみた。
『宮沢賢治の地学教室』2017・『宮沢賢治の地学実習』柴山元彦2019創元社。
2冊とも温かみのある絵、図と写真、やさしく親切な解説で地学に親しめるようになっている。なにより賢治の世界へ引き込まれる。賢治ファンならずとも頁を繰るごとに、「ウーン」「そうなんだ」とか反応しそう。
『地学ノススメ』-「日本列島のいま」をしるために-鎌田浩毅2017講談社。
人類が3000年もかけて築き上げてきた地学の世界へ案内、第9章あるうちの第8章は<日本列島の地学--西日本大震災は必ず来る>、一部引用。
---内陸の地震活動が、南海トラフ巨大地震を誘発するかどうかも懸念されています。中央構造線やフィリピン海プレートとの強い関連性を示したので、心配に思われたかもしれません・・・・・ 南海トラフ巨大地震の震源域は豊肥火山地域から数百キロメートルも離れているので、直接的に地震の引き金を引くことはないと考えられます。
ただし、いまから20年ほど後に起きる南海トラフ巨大地震に向けて、内陸の直下型地震が増えるプロセスにあることは確かです・・・・・
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