« 幕末3度入獄、明治に監獄行政の責任者、小原重哉(岡山県) | トップページ | 将棋知らずの将棋ばなし »

2020年10月10日 (土)

箏曲家・葛原勾当と孫の童謡作家・葛原しげる(広島県)

 令和2年10月1日、中秋の名月が煌々と輝いていた。きれいで見事だったが、満つれば欠けるは世の習い、月も満ち欠け。ただ人の世と違い月の満ち欠けは風情がある。樋口一葉の「十三夜」、机龍之介に似合う三日月もいい。そして、李白の月がまたいい。
 たまたま、短編「葛原勾当」を読もうと「井伏鱒二全集」を開くと漢詩が数篇でていた。それらにつけた井伏の訳詞がユニーク、新鮮で面白い。明治人は漢詩を自由自在に愉しんでいたらしい。

   静夜思        (李白)
床前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷

ネマノウチカラフト気ガツケバ  霜カトオモフイイツキアカリ  
ノキバノ月ヲミルニツケ  ザイショノコトガ気ニカカル

     葛原 勾当  箏曲家  (くずはら こうとう)

  ---幕末のころ、私(井伏鱒二)の郷里の近くに葛原勾当といふ生田流の琴の師匠がゐた。地唄の三味線も教へていた。盲人でありながら様子がよくて気性がさっぱりして、もし消えるなら雪だるまのやうにすつぱり消える人だろうと門弟たちが云つていたそうだ。弾く琴や三味線の音色は幽玄で、歌声は瞽者の声だから淋しかったと云はれてゐる。

 1812文化9年、備後国安那郡八尋村(広島県深安郡神辺町)の矢田重知の長男に生まれる。名は美濃一、号は一泉。勾当は盲人の官職。
 1815文化12年、3歳で疱瘡を患って失明。
   琴を9歳まで母に学び、次に備中大江村から盲目の師匠を招き1年ほど習う。
 1826文政9年、母に連れられ、京都の生田流・松野検校の門下となり5年間修行。三味線は松浦検校に習った。この間、母が付き添い世話をし、勾当の位をとり久我管長から葛原の姓を得た。

 1828文政11年、16歳。代筆で稽古のメモをつけたが、木製の活字を造らせて自ら書くことを思い立つ。
 1836天保7年、京都の版木屋に木製活字をつくらせる。

 1838天保9年、26歳。簡単な文章や和歌など、時々の感慨をまじえ、晩年にいたるまで自分の手で日記を書き続けた。その方法は、
  --- いろは・数字・日用漢字などの木活字を彫らせ、木箱内に規則的に配列し、これを一字一字取り出して墨をつけ、紙上においた罫枠内に印字する。活字の両側に刻んだ線の数で文字を確認できた。書いた文字を自分で読めないという制約はあるが、点字導入以前に、盲人が試みた書字の方法として盲人史上貴重である(『民間学事典』)。

 1840天保11年、竹琴を思いつき、京の政田屋甚兵衛に竹琴の製造を依頼する。
   井伏鱒二は、葛原しげるから『葛原勾当日記』の現物と、木製活字版用具をみせてもらい、その活字で印刷してみせてもらっている。
 勾当は創意工夫の才があり、竹琴の創案、自分で義歯を造ったり、住居も設計した。勾当がキビ殻で作った模型によって建てた蔵と離れのある門構えの屋敷は、夏は涼しいが、昼間でも暗い部屋が三つもあり、冬は寒かった。孫のしげるは太平洋戦争が激しくなると疎開、昭和35年まで15年間住んだ。
 勾当は琴・三弦の普及につとめ出張教授に忙しかった。時に弟子の稽古を聞きながら、折紙細工をし、目明きも及ばぬほど複雑な細工に仕上げた。そして弟子が間違えずに弾き終わると織った折り紙を褒美に与えた。
 1882明治15年、死去。享年54。
   生家の門前にに碑が建てられている。


     葛原 しげる(𦱳)   教育家・童謡作家

 1886明治19年6月25日、広島県深安郡神辺町で生まれる。
  岡山県とす人名辞典をみたが、神辺(かんなべ)町は広島県の最東端にあり岡山県と接しているためか。本名は𦱳 (しげる)。
 1903明治36年、福山中学(誠之館)卒業後、東京高等師範学校予科に入学。
 1904明治37年、東京高等師範学校本科英語部に進学。41年卒業。
 1906明治39年、同校の大塚音楽会で処女作「夕ばと」「歓楽」を発表。
 1907明治40年、童謡の試作をはじめる。のち、葛原勾当の孫という立場を生かして、「箏曲童謡」というユニークな領域を開発する。
 1911明治44年3月、雑誌『小学生』創刊。教壇に立つかたわら編集主任となる。
   『小学生』10月号に初めて作曲された童謡「兎と狸」が掲載される。
   3月25日、龍治喜美子と結婚。以後、雑誌の編集と作詞活動に専念し、「キュウピーさん」など多くの童謡ヒット曲をつくった。

 1912大正1年11月、博文館編集局に入社、大正6年まで。
   児童雑誌『白鳩』掲載の代表作「夕日」は大人にも忘れがたい愛唱歌。
 1914大正3~9年、日本女子音楽学校講師。
 1915大正4年、祖父の『葛原勾当日記』を活版本として翻刻。
    『大正幼年唱歌』編集に作曲家の梁田貞・小松耕輔とともに携わる。
 1917大正6年~昭和20年、九段精華高等女学校教諭・理事。跡見女学校講師兼任。
 1918大正7年、『大正幼年唱歌』全12巻、完成。その後、続編というべき『大正少年唱歌』全12巻の刊行を1929昭和4年末まで続ける。
 1921大正10年、東京都台東区谷中で中央音楽院を開設していた室崎琴月が「夕日」に曲をつけ、謄写印刷の楽譜で子弟の小学校の先生達を通じて東京市内の子ども達に教えた。
     夕 日 
  ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む  ぎんぎんぎらぎら日が沈む
  まっかっかっか空の雲  みんなのお顔もまっかっか
  ぎんぎんぎらぎら日が沈む(2番略)

  --- この唄の流行は大正12年9月1日の関東大震災の後です。一面焼け野原と化した東京では、市の中心からも夕日がよく見えるようになり、その年の秋頃から「夕日」が子ども達の間で急によく歌われるようになったと云われます。
 この大正10年には、夕やけ小やけの「赤蜻蛉」・・・・・夕やけ小やけで日が暮れての「夕焼小焼」も作られていま・・・・・ 昭和20年の敗戦直後、米軍の空襲によって焼け野原になった日本中の都会地を中心に、夕やけがテーマになっている三曲が奇しくもリバイバルして歌われた史実は、単なる偶然だけでは処置できぬ何か因縁めいたものを筆者(長田暁二)は感じ取っています。
 ギンギンギラギラ、焦土の都の夕方は黄色いほこりが舞い上がって濁っていました。キンキンキラキラでは星の住んだ輝きに(『童謡名曲辞典』)。

 1922大正11年、『童謡の在り方』培風館。翌年、『童謡と教育』内外出版。
  --- 教育現場での体験をふまえながら、子どもたちに謙虚に学ぼうとする姿勢をもっていた。童謡に平明さや単純さを強くもとめ、また音韻に対する配慮も強調した・・・・・ 童謡の重要な条件として“平明さ、単純さ”を繰り返しているが、詩人の側よりも、受け手である子どもの側に大きく傾斜した彼の童謡論からの当然の帰結であり、歌われる童謡を強調し続けた(畑中圭一)。

 1925大正14年、童謡集『かねがなる』培風館。
  --- 葛原は、大正中期以降のはなやかな童謡運動のなかでは白秋、雨情、露風ほどには目立った存在ではなかった。しかし、彼には、自分が童謡の創作に早くからかかわってきたという自負があったようである(同前)。

 1933昭和8年、『童謡教育の理論と実際』(隆文館)。
   ---(方言の使用について) 童謡は、本質的に、郷土的である・・・・・ 郷土的であるからには、その用語は、郷土語であり、その思想は郷土の思想であり、その郷土を背景とする事はいふまでもない。
 1935昭和10年、『葛原しげる童謡集』日本童謡社。
 1945昭和20年、戦争が激化し広島の生家に疎開、地元で多くの小・中学校の校歌を作った。
 1946昭和21~35年年、私立至誠高等女学校校長。
 1960昭和35年、東京西方町に戻る。
 1961昭和36年、死去。享年75。
   唱歌・童謡1200余を作詞。「ほんとうの童謡は、児童のあいだから生まれるものだ」を信条とした。いろいろな意味で、子どもにちかいところで、子どもにまなびながら詩を書き、詩を説いた。三周忌に生家門前に「童謡碑」が建てられる。

   参考: 『井伏鱒二自薦全集9』1986新潮社 / 『童謡論の系譜』畑中圭一1990東京書籍 / 『日本童謡史Ⅱ』藤田圭雄1984あかね書房 / 『童謡名曲事典』長田暁二2020全音楽譜出版社 / 『民間学事典』葛原勾当(加藤康昭)1997三省堂 / インターネット「誠至館人物誌」

|

« 幕末3度入獄、明治に監獄行政の責任者、小原重哉(岡山県) | トップページ | 将棋知らずの将棋ばなし »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 幕末3度入獄、明治に監獄行政の責任者、小原重哉(岡山県) | トップページ | 将棋知らずの将棋ばなし »