幕末3度入獄、明治に監獄行政の責任者、小原重哉(岡山県)
収まりそうにないコロナ禍の落ち着かない日々。どうやら、私たちはトンデモナイ時代にいるのかも。それなのに、そこにつけ込む情報が出回っている。気の毒に、詐欺被害に遭った高齢者もいる。
困ったことに、悪事を働く奴はいつの時代にもいるから牢獄がある。しかし、事により、時代により、罪が判然としない理由で投獄されることがあった。たとえば、尊皇攘夷運動の志士である。幕府の権威が残っている時代には、江戸の牢屋に詰め込まれた志士も居る。
その牢はヘタをすれば生きて出られない悲惨な場所であった。それを体験したなかに小原重哉という岡山藩士がいる。小原は明治新政府に出仕、監獄改革を果たすが、そのゆくたてをみてみたい。
牢内の状況、<山本覚馬、野澤雞一、殊勝な強盗犯 2013.11.16>より、
--- 薩摩の捕虜となったとき野澤はまだ16歳、少年に厳しい現実が襲いかかるのは必至。1月5日薩摩の捕虜となった野澤は薩摩の陣所から4月二条城内*軍務官、6月六角通りの本牢に移された。六角獄舎は旧幕府町奉行時代のもので「幽陰冷湿鬼気せまり魂を消す」惨憺たるものであった。改革する暇はなくそのまま京都府庁に受け継がせたからである。
そのうえ囚徒は強盗殺人の徒だから殺伐の気風、残忍の挙動は言語に絶し、私刑で死者が出ても監視の番人は知らぬ顔「嗚呼此境に入ては人命の価値、螻蟻に若かざること遠く*牛頭馬頭の阿鼻地獄今目前に展開し」であった(野沢雞一『閑居随筆』)。
小原 重哉 (おはら じゅうさい/しげや)
1834天保5年9月11日、備前国上道郡倉田村(岡山市)で生まれる。
幼名は澄太郎。号は米華。
1864元治1年、30歳。藤本鉄石(のち天誅組総裁)・野呂久左衛門・土佐藩士らと尊皇攘夷運動を展開。鉄石とは時事を談、余暇には書法を研鑽し造詣が深かった。
7月、幕府の偵吏、新撰組・松山幾之助が藩内に潜入、小原は番頭・土肥典膳の家臣・岡元太郎らと松山を暗殺、その首を岡山城東の峠(三軒寺とも)に晒した。
発覚して捕らえられ、会津藩・新撰組の壬生の牢、次いで岡山藩の牢にいれられたがまもなく赦免される。このとき、小原の才覚を惜しんだ牧野権六郎という人物が小原を推挙、小原は士籍に列し禄百五十石を賜った。
ところで、小原は併せて三度入獄、その経験から江戸時代の獄舎を地獄世界と呼び、明治になって改革を唱えた。
1867慶応3年、外様大・名岡山藩の幕末は終始、尊攘・翼覇(よくは:幕府と朝廷間の和を唱える立場)をつらぬいてきたが、薩長両藩から勤王倒幕のため出兵を勧告され、ついにその旗幟を鮮明にし、勤王倒幕の出兵となる。
1月11日、神戸事件。外国人居留地付近で岡山藩兵と英・仏兵とが衝突。政府は外国側に陳謝、岡山藩士・滝善三郎が自刃し事なきを得る。
1868明治1年4月、戊辰戦争と併行して、新政府のもとで「御一新」が進捗、新政府は諸藩に人材登用を断行させることにした。小原は*徴されて司法省に入り判事となる。
徴士:諸藩士や一般人の有能な者を選任。官吏となったが、藩主とは君臣関係。
さて、判事となった小原は、「獄は人を仁愛する所以にして残虐するものに非らず」「人を懲役する所以にして人を痛苦するものに非らず」と明治新政府に訴える。これだけでは江戸時代の牢がどんなに悲惨だったか想像つかないが、『徳川幕府刑事図譜』(江戸伝馬町牢獄内の図)をみれば一目瞭然。
左右隙なく何列にも並ばされた囚人、囚人が囚人を板で打叩くのを、積み上げた畳の上で見下ろす牢名主、役人の姿はなく、まるで私刑のよう。この状況では、*未決・既決の区別がない時代、罪無くして牢に入れられても、生きて帰れるかどうか。
未決: 「推定無罪」の原則、「疑わしきは被告人の利益に」
既決: 犯罪者の社会復帰に向けた施策。
1869明治2年、イギリスが日本政府に獄制改革を要求。
英人を暗殺した犯人が獄中で死んでしまったため、日本をなじってきたのである。
1870明治3年10月、浮世絵師・河鍋狂斎入獄。翌年、出獄し名を暁斎とする。
狂斎は当時の社会を皮肉った版画・絵本・挿絵を描いていたために投獄されたのである。「暁斎氏東京府獄屋に繋がるるの図」というのを見たが、獄内の狭い二階も平場も大混雑、座っても足も伸ばせない密状態。狂斎はその状況でも、「東京府囚獄の長は元岡山藩士の尊皇派で入牢経験もある小原重哉」だからまだよかったと話している。
1871明治4年、刑部省・小原重哉によるイギリスの植民地、香港・シンガポールのイギリス獄制視察。
英国領事館員のJ・ケアリー・ホールが通訳兼ガイドとし て同行。小原がそこで目にしたものは、行き届いた換気と下水施設完備の監獄。そして、驚いたことに囚人たちが整然と労働に従事していたこと。欧米では刑罰により苦痛を与えるより、囚人の社会復帰に力を入れていることに感銘を受けた。
1872明治5年、陸奥宗光は政府に獄制改革を建議、「監獄則」制定される。
海外視察を終えて帰国した小原はさっそく『監獄則幷図式』を著し、近代的な獄舎の構想をまとめる。また、図式(付図)は「米華」の号をもつ画家、小原が監獄の設備や器具等を描いたもの(矯正図書館蔵)。
1874明治7年、鍛冶橋監倉完成。囚人の図書閲覧のため監獄内に書庫、囚人の誦読に供された(国立公文書館)。
1882明治15年8月、内務権大書記官小原重哉注釈『監獄則註釈』著す。
「絵画共進会」審査委員。
1883明治16年、「絵画共進会」審査委員。
1885明治18年4月23日~6月25日、局長代理。
1887明治20年11月、司法省刑事局次長。大審院(旧司法制度の最高機関)詰検事。
1889明治22年、『大日本獄制沿革史』・『養徳訓話』出版。
『養徳訓話』は子ノ躾・懺悔・和歌ノ徳・若気ノ過失・腹中ノ暖気ほかいろいろ。
1890明治23年12月、非職。元・元老院議官。
監獄官練習所において監獄法講義(内務省)
1891明治24年、元老院廃止に伴い、12月、貴族院議院に勅撰。
1892明治25年5月、司法省刑事局次長。
1896明治29年、日本美術協会秋季美術展覧会に「草花喜鵲図」出品。
11月、『王香堂画譚』小原米華で出版。
子どもの頃から絵が好きな小原は松田翠崖について絵を学び、「画論画譜が目につくと必ずひもといた」、また今昔の画家についてなど元読売新聞記者・関如来に語っている。次はその一節、
--- 雪舟は実に空前の大家なり、ただに此の時代に在りて、頭角を現はせしのみならず、雪舟以前に雪舟の趣きなく、雪舟以後は雪舟の風なし、而してその最も尊むべきは、他人の企及する能はざる長所、即ち自然の美を現出せし一種の気風なり(『当世名家蓄音機』)。
1902明治35年5月28日死去。享年68。瑞宝章・正三位勲四等。
小原米華: 「明治諸大家書画人名一覧」、「明治廿二年改正新版書画名家一覧」、「書画詩文官余之部 大日本全国書画大家一覧」、「官余技芸 大日本書画一覧」などに名があがっている。
参考文献: 『当世名家蓄音機』関如来1900文禄堂 / 日本歴史叢書『岡山藩」谷口澄夫1995吉川弘文館 / 『岡山県』1982昌平社 / 国会図書館デジタルコレクション
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