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2020年11月14日 (土)

グリフィスの生徒で友人・京都尋常中学校長、今立吐酔(福井県)

 家の南にある遊具のない公園。ケヤキがすくっと立ち、周囲をツツジがぐるり。なんのこともない小さな公園だが気に入ってる。40数年前、家を建ててうれしかったが、もっと良かったのは近所に図書館が建ったこと。毎朝、夫や子を送り出すと図書館へいそいそ。開館まもない館は蔵書が少なく、がら空きの棚もあった。
 しかし、奥の棚に「東洋文庫」が何段も並んでいたから、なんて良い図書館!喜んで手に取るとどれにも寄贈印。元の持ち主に会いたいと思ったが、故人だそうで残念。
 ともあれ、マルコ=ポーロ『東方見聞録』、勝小吉『夢酔独言』、前島信次訳『アラビアン・ナイト』、ヘルマン『楼蘭』などなど次々愉しんだ。先日、東洋文庫で前から気になっていたグリフィス著『明治日本体験記』を開くと、今立吐酔の名があり、ハッとした。だいぶ前に「ペンシルバニア大学同窓会名簿」で、吐酔というユニークな名を見かけ、何をした人なのか気になっていた。
 「同窓会名簿」は、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』を執筆中、柴四朗の留学費用の出所である岩崎家の三菱経済研究所を訪ねたとき展示コーナーで見つけた。ただ、そのときは閉館間際でそのまま帰宅、後日、中を見たいと手紙を出した。
 すると、「ペンシルバニア大学同窓会名簿」全頁のコピーが送られてきた。親切な学芸員さんに感謝しつつ閲覧すると、柴四朗はむろん四朗より7年先輩、今立吐酔の名があった。印象深い名前に出会って十余年、ようやく今立吐酔が知れる。

    <ペンシルバニア大学同窓会名簿>(1912大正元年作成)
 名簿には、三菱三代目の岩崎久弥以下57人、職業も、高木兼寛などの貴族院議員、作家で衆議院議員の柴四朗ほか、軍人・医師・大学教授・造船所技師・日本郵船専務・社員と多彩である。副会長はALLEN・K・FANST東北学院教授(宮城県仙台市)、陸大教師など、外国人は併せて四人。
 入学がもっとも早いのが明治8年の今立吐酔、松平春嶽(福井藩主)が建てた学校(明新館)に在学中、アメリカ人宣教師グリフィスの世話で渡米、私費留学した。女性は塚本ふじ子(明治12年入学)ただ一人、兵庫県立高等女学校英語科主任・神戸市。ほかにイギリス商人トーマス・グラバーの息子倉場富三郎もいる。
 富三郎はグラバーにちなみ「倉場」と名乗り、陸奥宗光に同行して渡米、ペンシルバニア大学で2年間生物を学んだ。名簿の肩書きは会社員、中退とあるが学んだことは『グラバー図譜』「日本西部および南部魚類図譜」作成の背景となっているという。

   ちなみに、東洋文庫の元になった、モリソン文庫(アジア地域の人文科学・自然地理関係の文献資料)の買い取りを決めたのは岩崎久弥である。久弥は、モリソンの言い値で買い、東京文京区駒込に書庫と研究棟を建設。以来、世界屈指の東洋学研究センターとして、今なお内外の研究者に利用されている。

    今立 吐酔    

 1855安政2年1月26日、越前国今立郡北中山村松成(福井県鯖江市松成町)浄土真宗本願寺派、満願寺の第14世乗永氏5男に生まれる。幼名は芳丸。  
 1869明治2年、14才。このころ吐酔と改名。
 1871明治4年、廃藩置県。
   福井城で福井藩知事・松平茂昭の訣別式が行われた。グリフィスはその情景を描いている。
   ------10月1日。前越前藩主、福井藩の封建領主、そして明日からは一介の貴人になる松平茂昭が、大広間へと広い長い廊下を進んできた・・・・・ 紫の繻子の袴に・・・・・濃い青みがかった灰色の絹縮緬の上着で、袖に刺繍がしてあり、背中と胸に徳川の紋のついたものを着・・・・・家来の居並ぶ中を大広間中央へ進んだ。そこでは筆頭の家臣によって、藩主の挨拶が代読され・・・・・藩主は家来に厳粛な別れを告げた。 
     
   これより前、福井では藩主・松平慶永が藩校「明道館」(福井城本丸跡)を「明新館」と改め、外国人教師も雇い、庶民に至るまで入学を許し新知識の摂取に勉めさせた。入学した吐酔はW・E・グリフィスに理科学を学んだ。
  ------ 学生が授業をまじめに熱心に受けるのには驚く。覚えも速いし、よく勉強する。化学の目立って大事な実験があった時は、大講義室は学生ばかりか役人も来ていっぱいになる・・・・・ 聞き手の多くは昔から論争の的になっている時間と永遠の問題によく通じていた・・・・・ 通訳はだいたいにおいて私の補佐をすることができる(『明治日本体験記』)。

 グリフィスは、成績優秀な吐酔をたいへん可愛がるが、吐酔はお寺の子でクリスチャンのグリフィスの生徒になるについては周囲の抵抗があった。そこで、グリフィスは家族を熱心に説得、費用は自分持ちで他の5人と一緒に*自分の住居に下宿させた。吐酔は、グリフィスの家で聖書を読み、フランス語を習った。
   グリフィスの住居:大名小路の一隅に建てられたコロニアルスタイルの洋風住宅。隣にはイギリス人医師宅も建てられた。ただし明治6年焼失。隣の医師宅はのち移築され、福井初の洋食屋「風琴亭」となった。
 フルベッキの紹介で福井へきたグリフィスが教師をしていたのは10ヶ月余だったが、吐酔など多くの若者に影響を与えた。

 1872明治5年、グリフィスは大学南校(東京大学前身)の教授に就任、福井を去る。
   吐酔、武生進修小学校で1年間英語を教える。
 1973明治6年8月、吐酔はグリフィスを追って上京、グリフィスの家に寄寓。
 1874明治7年4月、開成学校(大学南校)入学。吐酔はグリフィス宅から通学。
   7月、帰国するグリフィスについて吐酔もアメリカへ渡る。
 1875明治8年3月、ペンシルベニア大学入学。西本願寺留学生として給費を受ける。
   この頃、グリフィスの『皇国』(The Mikado's Empire)執筆に協力、貢献をする。
 1876明治9年5月10日、グリフィス『明治日本体験記』。次は序文の一節。
  ------ 読者である助言者である各氏から受けた援助に心から感謝したい。私も会員に加えられた明六社の会員に衷心より敬意を表する・・・・・ 今、ニューヨークにいて、親切にも校正を手伝ってくれた昔の学生に、そして最初から最後まで過去六年間友人であり、いつもそばにいてくれた今立吐酔氏に、感謝と恩義の気持ちを贈りたい。
 
 1879明治12年、25歳。バチェラー・オブ・サイエンスの学位(専攻は化学)を得て卒業、成績優秀であった。 卒業後すぐに帰国、京都府に雇用され、学務課に出仕。
   10月、京都府中学校(明治3年旧所司代邸上中屋敷に開校開校。現・洛北高校)理化学教授に就任。翌13年、初代校長となる。
  ------(京都府)槇村(正直)知事さんに御目に掛かった時、槇村さんから此中学校の教育を担当して呉れないかとの御頼みがありました。私もいづれは東京へ出たい希望ですが2、3年位で御暇が戴ける事ならば御受けしませうと云ったのが御縁となって、つい明治12年の冬から明治20年の夏まで丸8年間京都中学校長兼教諭の職を汚すことになりました。
 私が此中学校へ這入った時、高等級の英語、万国史、物理、化学の教授を担当しましたが、其頃学校に物理化学の教授機械薬品類が殆ど設備してなかったので大いに閉口しました。
 そこで早速学務課へねだって特別支出を願い其金を持って東京へ行き器械類を買集めにかかったが、其頃まだ東京にも碌な機械屋がなくて中々欲しい物が集まらないで非常に困りました。そこで東京大学へ行って前の大学総長・山川健次郎博士、その頃大学の物理学教授に頼んで大学で不用になった器械を払い下げて貰って間に合せた位でした。
 此時代に中学校の教授器械の不足を補う為に大変力に成って呉れた島津源蔵(島津製作所創業者)と云う人の功績は此処に記載して置きたいと思います。
 物理化学の器械などで東京でも出来ないもの、又仮令出来ても大変費用のかかる物は彼に教科書中の図を見せて説明を与えて遣ると間に合う様に拵えて呉れました。(「会誌」創立記念号、大正9年12月)。

 1886明治19年、『佛教問答』ヘンリー・エス・オルコット著を邦訳。のち昭和13年、The Tannisho親鸞の『歎異抄』日本京都中学校今立吐水訳・仏書出版界・赤松蓮城識で大谷大学刊行。
 1887明治20年2月、明治天皇行幸。4月、三高移転に伴ない、師範学校と校舎交換、かっての新町校舎の北にある師範校舎へ再移転。
   6月、京都中學校校長を退任。外務省翻訳官・奏任官四等に叙任。

 1888明治21年7月、清国北京公使館書記官勤務。
 1889明治22年5月、臨時代理公使。
 1890明治23年1月、在北京公使館出納官吏。

 1892明治25年7月、福岡県立尋常中学修猷館教諭に着任。
   館長(校長)黒田長成が貴族院議員で在京のため、代理館長(校長事務代理)も務めた。
 1894明治27年8月、日清戦争。兵庫県立神戸商業学校校長に着任。
 1895明治28年6月、戦争による占領地総督部民政部事務官に任官、遼東半島の金州に勤務。
   11月、三国干渉による遼東還付条約が調印され占領地が還付されたため帰国。
 1896明治29年2月、日清戦争の功により勲六等瑞宝章。
   同年、滋賀県商業学校校長に着任するも11月、脳充血症を発症し依願退職。

 この後、敦賀―琵琶湖―山科―宇治川と繋がる運河を建設して、日本海―大阪湾間の船舶輸送を可能にし、水力発電も行う「日本中央運河計画」を計画立案。事業を行う「日本中央運河株式会社」を南貞助らと共に発起人となり設立。内務省、京都府へ工事起業申請書を提出、住民の理解を得るために奔走したが、計画は実現しなかった。
   参考(未見):①『若越郷土研究』: 明治29年。敦賀湾〜琵琶湖〜京都に運河を開削する計画がありました。この計画に携わった今立吐酔の動きを追った青木孝文「日本中央運河計画と今立吐酔」を収録。
 ②京都大学名誉教授 本山美彦のブログ「消された伝統の復権」: 日本中央運河の「目論見書」によれば、運河の主たる目的は3つあった。敦賀港の重点開発、京阪地域への電力供給、琵琶湖の増水による洪水回避がそれである。軍事的効果をも今立吐酔は指摘。

 1909明治42年7月、横浜地方裁判所並同検事局裁判所通訳嘱託に着任。
 1919大正8年12月、同通訳掛書記に着任。 これを最後に退職。
 1920大正9年、京都府尋常中学校創立50周年式典。
   出席した吐酔は、在職時を回想。教員生活の最も楽しい思い出として、優秀な給費生の組の授業をあげている。この間、京都府教育会の創設(14年5月)維持にも中心的な役割を果たした。

 1927昭和2年、吐酔は兵庫県に住んでいたが、グリフィス(85歳)が福井に再来日すると、非常に喜んで片時も離れることなく世話した。その折、橋本左内の墓参りをした。
 1931昭和6年5月10日、娘の嫁ぎ先を訪れていた時、病に倒れ、東京板橋の娘婿松谷家で苦しみもなくそのまま息を引き取る。享年、77。
  ------ 晩年に至るまで見識があり、特に教育と外交とにそうであったという。氏は誰にも親切であり、権勢・名利の欲はなかった。いつからか如洋と号していた。昭和6年4月仏教学生の是真寮々祭で学生の若さに触れ、自らもアメリカのカレッジ・ソングを歌い、踊ったという ・・・・・ よき時代のよき教育者というべきであろう(「会誌・記念号」埜上衛)。

   参考: 『明治日本体験記』グリフィス著・山下英一訳1984東洋文庫 / 福井県文書館県史講座記録「グリフィスの福井生活」2008福井県文書館 /  『明治・大正・昭和の郷土史 福井県』1982昌平社 / 『福井県の不思議事典』2000新人物往来社 / 本山美彦のブログ「消された伝統の復権」 /「京都府立洛北高校11回卒同窓会ブログ」

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