明治の京都で先端技術、創業者・島津源蔵(京都)
2020令和2年11月12日、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さん死去。
今から18年前、小柴さんと共に島津製作所・田中耕一さんもノーベル化学賞。二人の快挙に日本中が湧いたその年、次の2冊にも元気をもらった。
『ぼくもノーベル賞をとるぞ!!』(高分子学会編著・朝日新聞社)
『心に夢のタマゴを持とう』(小柴 昌俊・ 講談社文庫)
表紙は「ぼくもわたしもノーベル賞をとるぞ!」と「わたし」が入ってます。ノーベル賞に一番近いわたし・女子は『ハリー・ポッター』の友人ハー・マイオニーでしょう。彼女は図書室大好きの努力家、学問をすれば立派な学者になってノーベル賞も夢ではなさそう。ただ、惜しいことに魔法学校の生徒、『ハリー・ポッター』の本でしか会えません。
それなら自分でノーベル賞の種を見つけましょう。
「ノーベル賞をとるぞ!」には、水・魚・卵・光・分子・水着・ロケット・リサイクル、たくさんの不思議と科学が詰まっています。研究テーマが見つかるかもしれません。
2002年、小柴昌俊さん物理学賞、田中耕一さん化学賞。日本人がノーベル賞をダブル受賞、日本中がわきました。お二人とも謙虚で温かい人柄が伝わるエピソードの持主、みんなの頬がゆるみます。
ことに、作業着で会見場に表れた田中さんはサラリーマンの星!励まされた人は多いでしょう。 私も飾り気がなく仲間を思いやる態度にいっそう好感をもちました。受賞の「たんぱく質の分析方法」は理解できませんが、心からおめでとうの気持ちです。
一方の小柴さん。ニュートリノ観測装置「カミオカンデ」、私にはまるで雲を掴むよう。でも『心に夢のタマゴを持とう』を読み、ニュートリノのことを少~し知りました。そしてその業績が歴史に残る発見ということもです。
「夢のタマゴ」は主に小学校や高校での講演記録、難しい研究をできる限りやさしく解説しています。
星好きや理数が得意な人はより知識が深まるでしょう。私の頭ではついていけませんが、それでも「夢のタマゴ」をどなたにもおすすめしたい。なぜなら、講演を聴いた小学生と同じく私も「自分の夢のタマゴを持とう!」に元気が出たからです。
<大きいことと小さいこと そして人間> は小学生に「小柴のジジと呼んで」から始まり話は宇宙へ、超新星爆発・銀河・原子そして人間もと自由自在に広がります。
写真の小柴さん、苦労を感じさせない懐の深い大人の笑顔がやさしい。しかし、ここまでの道のりは生活と学問二つながら厳しいものだったのです。それを、<やればなんとかなる>と乗りこえ、今があります。「オレは駄目だ」とあきらめず「自分がやりたいことはこれなんだ」と夢のタマゴを持ち続け、道が開けたのです。
あなたも、あなたの心に夢のタマゴを持ちませんか?(2003年「図書館だより」に寄稿)。
20201.11.14、NHKブラタモリ「飛騨~アゲアゲの飛騨!その秘密は?~」をみていたら、タモリが「スーパーカミオカンデ」を見学、説明を受けていた。初めて見る装置、説明にただ感心して見入ってしまった。飛騨というと古い歴史のイメージがあるが宇宙の謎、解明の入口になるかも知れないという。
――― 世界初のニュートリノ観測でノーベル物理学賞を受賞した小柴さん、この発見は何の役に立つのかという記者の問に断言した。「まったく役に立ちません」。そして「基礎化学の成果は人類共通の知的財産です」と言葉を足した(「余録」2020.11.14毎日新聞)。
追悼コラムで小柴さんの「夢のタマゴ」を思いだした。
コロナ禍で前向きになれない今こそ、「たまご」を探すといいかも、そう思った。
ところで、島津製作所の田中耕一さんは偉くなるより現場を選んだようだが、どんな会社なのだろう。そう思っていたら次の本があったので、大いに参考にさせてもらった。『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所 創業伝』(鵜飼秀徳・朝日新聞社)。
島津 源蔵
1839天保10年5月15日、西本願寺前の仏具商、島津清兵衛・キヌ夫婦に次男・源蔵(初代)が生まれる。
源蔵は、父から具足を主とする鋳銅、金工技術を学び、早くから名を知られていた。
1860万延元年、源蔵、木屋町二条に分家。鋳物を業とする。
1864元治元年、禁門の変。
1868慶應4年/明治元年、戊辰戦争。
京都は宗教都市で、伝統仏教教団の総本山・大本山をあげればキリがない。そうした大寺院門前には仏壇・仏具・法衣などの寺院御用達の業者の店があった。
3月、神仏分離令(明治政府の神道国教化政策)。
神社の仏教色の排除を目的とした一連の布達がきっかけで、廃仏毀釈が全国で発生。鋳物仏具業はたちまち経営危機に追い込まれる。仏具をつくるどころではなく、寺からは次々と仏具が没収、破壊された。
1869明治2年、梅次郎生まれる(二代目源蔵)。東京奠都。
新政府は政権の一新と完全掌握のため江戸を東京と改め首府の建設を計画する。
天皇が東京へいくと公家達も京都を去り都は荒れ、人口も減った。
1870明治3年、科学技術の研究・技術開発を目的に、*京都舎密局(せいみきょく)、翌年には殖産興業を推進する勧業場(かんぎょうば)などが、公家邸跡地などに設置される。
源蔵は人を介して舎密局に出入り、最新技術を吸収する。
京都舎密局:開局以来、3千人の受講生を輩出、彼らは全国に散り、近代日本の理化学の発展に寄与。
1871明治4年、第一回京都博覧会。
1875明治8年、島津製作所を創業。理化学機器製造を始める。
源蔵、お雇い外国人オランダ人薬学者・ヘールツに師事、理化学機器の要点を習得。
1877明治10年、西南戦争。
東京上野で第一回内国博覧会。医療用器具「錫製ブジー(ゾンデ)」を出品、褒賞。
12月、人間を乗せた軽気球を揚げる。寝食を忘れて作成した気球は、高度36mまで上昇、大成功であった。
<京都に五万の見物人>(朝野新聞10.12.13)
――― 旧仙洞御所にて軽気球の試揚の景況は東京にても及ばぬここと思わる。四万八千八百枚の通券は残らず出きり、未明より老若男女、美服を着飾り、押し合いへし合い御所へ詰めかけ、六十五校ならびに*女紅場よりは各々紫縮緬に区名を白く染め抜きたる大フラウ(旗)を真っ先に押し立て、学区取締り、訓導、戸長の面々が一区ごとに数百名の生徒を引き連れ縦覧所へ繰り込み、その雑踏いわん方なし・・・・・・以下略。
女紅場:にょこうば。京都府勧業課が開設。裁縫・機織り・手芸・染織のほか、英語も教えた。のち大阪ほかにも設立され細民対象の初等教育機関として機能した。
1878明治11年、ヘールツが去ったあと、ドイツ人の技術指導者、ワグネルが舎密局にくる。
源蔵はワグネルに師事、二人の関係は子弟以上であった。梅次郎も理化学への感心は深く、父親とともにワグネルの薫陶を受け知識を吸収した。ワグネルは壊れた実験用理化学機器の修理、組み立てに源蔵を重用。源蔵にとってもワグネルが持ち込んだ器械を修理すると、理論や仕組みを習得できる好機であった。
1881明治14年、第2回内国博覧会で蒸留器などが褒賞。
1882明治15年、「理科器械目録表」を発行。
1884明治17年、梅次郎15歳。理化学実権機器「ウイムシャースト式感応起電気」を製作。また、槇村府知事はロウソクの灯りで踊っていた「都をどり」の舞台照明を、京都初の電灯点灯事業にと考え、梅次郎を発電技師として手伝わせる。
1891明治24年、化学標本の製造を開始。
11月、鹿児島の教育品展覧会に源蔵は、日光幻灯・日光顕微鏡・電気風車などの理化学機器を出品。梅次郎が会場に赴き、講演や公開実験をし好評を得る。
1894明治27年、日清戦争。
12月8日、源蔵、脳溢血で死去。享年55。
梅次郎26歳は家督を継ぎ、二代源蔵を襲名。日本製蓄電池(バッテリー)を開発。
1897明治30年、京都大学に鉛蓄電池を納入。
1904明治37年、日露戦争。クロライド式蓄電池を完成し河原町工場へ設置。
海軍に無線用電池納入。
1909明治42年、米アラスカ・ユーコン太平洋博覧会で人体模型が大賞。医療用X線装置完成し、国府台陸軍衛戍病院に納入。
1911明治44年、月刊『サイエンス』創刊。
1913大正2年、イギリスの旅行代理店主催の世界一周旅行に参加。フランスで顕微鏡工場視察、ドイツの発電・通信機器製造大手のシーメンスを見学。アメリカでは造幣局を見て回るなど「百聞は一見にしかず」の旅をする。
1914大正3年、第一次世界大戦。
1919大正8年、京都三条通と御池通に挟まれた中京区西ノ京に、約1万坪の地に島津製作所本社、三条工場。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。10月、島津製作所、生産再開。
1951昭和26年10月3日、二代源蔵、北白川の自邸で死去。享年82。
遺骨は父初代源蔵と同じ、南禅寺塔頭天授庵の島津家墓所に葬られる。
2002平成14年10月9日、田中耕一43歳。ノーベル化学賞。
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1877明治10年、西南戦争。12月、人間を乗せた軽気球を揚げる。寝食を忘れて作成した気球は、高度36mまで上昇、大成功であった。
<京都に五万の見物人>(朝野新聞10.12.13)
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明るいニュースに誰もが拍手、コロナ禍で沈みがちな社会の空気を明るくしてくれた。
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