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2020年12月12日 (土)

感染症、ミヤイリガイ、宮入慶之助(長野県)

 コロナ禍で残念な2020年もいつしか師走、気分は慌ただしい。そうした日々、小さな親切に出会うとほっとする。 バス降車口。大きくよろけたお年寄りを若者がさっと支えた。頭を下げるお年寄りに若者は笑顔でこたえると大股で歩き去った。優しさを目にすると気分が明るくなる。
 医者や学者が困っている人に手を貸せば世間が明るくなる。コロナ禍との闘いさなかの医師・看護師・医療従事者の方々はそのお手本。感謝の心を忘れないようにしたい。
 令和2年。新型コロナウイルスの正体が分からず世界中悪戦苦闘のさなかだが、昔も正体不明の感染症に悩まされていた。その一つ日本住血吸虫症とい、時には死にいたる感染症から人々を救ったのが衛生学者、宮入慶之助(みやいり けいのすけ)である。

    宮入 慶之助  
 1865慶応元年5月15日、信濃国更級郡西寺尾村(長野市松代町西寺尾)に生まれる。
 1876明治9年、ベルツ(E.von Baelz):東京医学校(東大医学部前身)内科の教授として来日。明治38年ドイツへ帰国。明治41年、皇太子診察のため来日。
     ベルツは日本の寄生虫についてライプチヒ大学の医師に標本を送り、日本の寄生虫について意見を求め寄生虫学の分野にも足跡を残した。その門下から宮入慶之助中浜東一郎(ジョン万次郎の子息)、三浦謹之助藤浪鑑など寄生虫学に関係の深い人々が輩出している。
 ちなみに、この年建設された東京医学校の建物は昭和44年、理学部付属小石川植物園に移築されている。国指定重要文化財。

 1879明治12年、コレラ大流行、約10万5千人が死亡し一揆の原因ともなった。翌年、「伝染病予防規則」発布。
  これら予防に巡査が主としてあたり、家内の消毒、発病の時日、原因などを尋問し、コレラ患者を見つけたら*避病院に送致した。
    避病院:伝染病患者を隔離して収容する特殊の病院。
 
 1890明治23年、東京帝国大学医科大学を卒業。
 1895明治28年、第一高等学校教授。
 1900明治33年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務める。
 1902明治35年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学。

 1904明治37年、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学医学部)衛生学の初代教授。
 1905明治38年、医学博士。
 1912大正元年、九州帝国大学医学部・衛生学第一講座担任
   九州大学キャンパスの寄生虫学教室前の通りは、「宮入通り」と命名され、顕彰碑がある。
 
 1913大正2年、カタヤマガイ(ミヤイリガイ)発見。

  ―――宮入は佐賀県下の筑後川流域の日本住血吸虫症流行地で、田植え中の農民から下肥を入れないのに肥まけする側溝を教えられ、その溝にネコとウサギを入れて感染実験を行ったとき、溝の中にいる体調7~8ミリメートルの小さな貝を発見した。さらに助手であった鈴木稔とともに、有毒溝から得られた貝を飼育したシャーレにマウスを浸漬して感染実験を行い、三週後の死亡したマウスから多数の住血吸虫の成虫を獲た。
 さらに感染動物の糞便中の虫卵から孵化したミラシジウムをこの貝に接触させると、これがただちに貝体内に侵入することを知り、発育を追求して最終的にセルカリア(吸虫網前口目の扁形動物)を得ることによって、この巻貝が日本住血吸虫の中間宿主であることを証明した。この貝は、発見者にちなんでミヤイリガイと呼ばれている。
・・・・・・宮入の研究は、英国のロバート・ライパーに強い衝撃を与え、後にエジプトにおいて二種の住血吸虫が存在し、それぞれに中間宿主が異なっていることへの発見へとつながっていった点で、きわめて意義深いものであった(『寄生虫病の話』)。

   日本住血吸虫症:世界最初の文献は1847弘化4年、土地の医師・藤井第二郎(好直)著『片山記』(漢文)。のち京都帝大・藤浪鑑が『中外医事新報』に現代語訳し紹介。
 この日本住血虫による寄生病は、片山病とか山梨病などと地名から病名がつけられたように、病原体も感染経路もわからなかった。東京・茨城・千葉・静岡・岡山・広島・佐賀の各県、とくに山梨・広島・福岡の3県が多かった(『世界大百科事典』1972平凡社)。

   ―――この寄生虫が水田周辺に生息する巻き貝にすみついていることを突きとめた・・・・・・一連の研究は海外の住血吸虫対策にも貢献。英国の研究者が宮入をノーベル賞候補に推すほどだった。日本では貝の駆除や水路改修が進められた末に新規患者の報告がなくなり、山梨県は96年に終息宣言をした(毎日新聞2020.6.30「憂楽帳」)。

 1919大正8年、朝鮮総督府の命令でエジプトにおける寄生虫調査を行う
 1923大正12年5月、帝国学士院会員。
 1925大正14年、退官。九州帝国大学名誉教授となる。
 1928昭和3年、正三位勲二等旭日重光章を受勲。
 1946昭和21年4月6日、死去。享年80。

 その偉業に比べ知名度は高くないが、出身地の長野市内に顕彰する「宮入慶之助記念館」https://miyairikinenkan.com/ がある。
 小惑星宮入:星の番号は14902、小惑星名 Miyairi、彼の孫の天文学者・村山定男(1924~2013)によって命名された。村山定男は、元国立科学博物館理化学研究部長。
           
        ***   ***   ***
   『寄生虫病の話』(身近な虫たちの脅威)小島莊明著2010中公新書。
 はじめ、新聞のコラムで宮入慶之助を知り、ブログに書こうと思って図書館で本を探したが見当たらない。それに感染症、寄生虫病というのも気がすすまない。せっかくだけど記事にするのやめようと思った。
 しかし考えてみれば、コロナ感染におろおろしてる今だからこそと思い直した。そして、『寄生虫病の話』を借りて、飛ばし飛ばしではあるが一応終わりまで頁を繰った。なぜか途中で本を置こうと思わなかった。
 優れた学者の本は、おばさんにも少しは解るように書かれているようだ。それこそ、コロナ禍去って、著者の講演会があったら聴講してみたいとさえ思った。
2020.12.11

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