『大不況には本を読む』 『桃尻語訳 枕草子』 橋本 治
(2000.3.1)ミレニアム2000年。せっかくの千年紀、みんな先を考えるでしょう。先を見通せないから「いっそ千年後戻り」と思ったら、人の考えは似たようなもの。近ごろ『枕草子』『源氏物語』が取り上げられています。
こんな書き出しで『桃尻語訳 枕草子』を地元の図書館だよりに寄稿してから約20年、2019年1月29日に作家・橋本治が肺炎で亡くなった。享年70。
その節、ファンとして拙くも何かと思ったが、作品をたくさん読んでないし、第一橋本治が大きすぎて書けなかった。それにしても、思ったより世間が橋本治を振りかえらず、さびしかった。ところが、その思いは橋本治をよく知る人ほどもっとのようだった。
「追悼・橋本治さん」橋本大三郎(社会学者)
――― 訃報を聞いて言葉を失った。早いよ。早すぎるよ。私も70歳だが、この年で亡くなるなんて。偉大な才能が、ああ、往ってしまったよ・・・・・・ 東大駒場祭の、「とめてくれるなおっかさん/背中のいちょうが泣いている/男東大どこへ行く」のポスターが評判になった・・・・・・ 大変聡明な人だ。
卒業後、『桃尻娘』シリーズで橋本さんはあれよあれよいう間に有名になった。編み物もイラストもうまい。才能がありすぎて何でもできてしまう。そして数え切れない本を書き続けた。その一部しか、私は読めていない・・・・・・橋本治さんへの評価は低い。低すぎる。・・・・・・後略(毎日新聞2019.2.7夕刊)。
橋本治には69歳で書いた『九十八歳になった私』(中公新書)がある。
―――二〇一七年が終わった段階で、私はまだ六十九歳です・・・・・・ 「三十年後の近未来」に関しては、ちょっとだけ真面目に考えた。「三十年後の近未来」を考えたら、今や誰だって絶望郷(ディストピア)だろう。
本編は「九十八歳になる私」からはじまって「人生は消しゴムだの巻」で終わる。
人生百年時代の21世紀、もっと長生き、コロナ禍に見舞われうろたえている者にヒントを与えて欲しかった。
哲学などの難しい言葉とちがい、橋本治の話しことばはすっと入って、解ったような気になるから不思議。
『桃尻語訳 枕草子』(上・中・下巻)1988(河出書房新社)
今の季節、冬をみると、
―――雪がすっごく深くじゃなくて、うっすらと降ったのなんかは、すっごくホントに素敵よねぇ。
―――冬もね、氷が張った朝なんかは、たまんないわ。ちゃんと手入れがされてるのよりも、放ったらかしで水草だらけに荒れて青くなってるの――その隙間隙間、月の姿だけは白く白く映って見えてる――なんていうのはさァ・・・・・・ 結局、月の光は、どんなところでもジーンとなるのよ。
『桃尻語訳 枕草子』を初めて読んだとき、いとも軽やかな文章にびっくり! 註がまた詳しい。解りやすくて気に入った。井上ひさしいうところの、
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」書いてある。この『桃尻語訳 枕草子』が古文の副読本だったら、清少納言にもっと親しみを感じたかもしれない。
ところで文体に感心したが、著者の後書きを読んで「エー、そうなの」。古典をきちんと解釈して現代語に、それもやさしく面白い話し言葉に「訳す」には並外れた力量がないとできない。まさに、訳者・橋本治だったからできた。
<訳者のあとがき――あるいは、『桃尻語訳 枕草子』の作られ方>
――― 私がこの『桃尻語訳 枕草子』の仕事にとりかかったのは、1986年の3月のことでした。その仕事が終わったのが、1995年の5月――10年とちょっとかかりました。
“10年がかりの大仕事”というと聞こえはいいのですが、しかし私は、この10年間『桃尻語訳 枕草子』の仕事だけをやっていたわけではありません。
この10年間に、私は『桃尻語訳 枕草子』とまったく関係のない本を、70冊も書いてしまいました(あ~あ・・・・・・)。
・・・・・・私は1986年から1987年の前半までの間、ほとんど他の仕事をしないで、この『桃尻語訳 枕草子』にかかりっきりでした。おかげで、私の貯金はカラになってしまいました。「このまんまでいくと飢え死にしてしまう」と思って、まず上巻だけが出版されました。つまり、それくらいこの『桃尻語訳 枕草子』は手間がかかってメンドくさくて、・・・・・・この『桃尻語訳 枕草子』は、原文の直訳で逐語(ちくご)訳です。係り結びから助詞・助動詞の類まで、あたうる限り原文に忠実に、全部丸ごと訳し出そうとしています。
・・・・・・テキストとしては、萩谷朴校注による『新潮日本古典集成・枕草子』上・下を使いました。
・・・・・・古典を読むときのネックとなるのに、注釈の問題があります。この注釈を一々読んでいくのは、とてもメンドーなことです。・・・・・・だから私は、「訳文が訳文として読めるようにスル」のと同時に、「注釈を読むことが苦痛にならないように」ということも考えました。清少納言になって註をいれてしまえ」というのは、そのためです(河出文庫『桃尻語訳 枕草子』下)。
『大不況には本を読む』橋本治2009(中公新書ラクレ)
10年ちょっと前の出版だが、今まさにコロナ禍で大不況。不況の理由はおいて、どんな本をよむといいのかなと頁をくってみた。あわよくば、「未来を探るための経験則」にできればいい。
しかしというか、やっぱりというか、そう簡単に答えは得られない。
そこで、けやき流に好きな箇所だけ抜きだしてみた。
また、このブログを、近代の人々や事物を自己流、基準もなしに書いているが、『大不況には本を読む』をよんで、それでいいのか考えさせられた。でも、すぐには変われない。
―――「止まってしまった時代」は、そのまま「未来を探るための経験則」になる。だから我々は、既に経験したはずの「百五十年」を振り返って、考え直さなければならいないのです。
・・・・・・百五十年を振り返って、「尊皇だ」「攘夷だ」と言い争っていただけの人間に代わって、「もう一度自分達で日本を作り上げるというのはどういうことか?」を考えた方がいいのです。
「だから、本を読むべきだ」とこの私は言っているのです。
「その本」はどこにあるのか?
残念ながら私には、それに対する「答」の持ち合わせがありません。私の答は、「これを読めばOKという本なんかない」です。
「書かれていないこと」を読む
「行間を読む」という言葉があります。文章と文章の間にある「なにも書かれていない行間」です。本を読む上で一番重要なのが、この「行間を読む」です。「なにも書かれていない部分がどうして読めるのだ」と、文句を言う人なら言うでしょうが、しかし、「本を読む」で一番重要なのは、そのことなのです。
「で、どんな本を読めばいいでしょうか?」
「本を読んで生きる指針を探す」ということの正しさを信じているから、こういう発想にもなって了うのですが、「書かれていない」ことを探すためにはどんな本を読んだらいいのか?」というのも、メチャクチャな質問です。要は、どんな本でもいいのです。とりあえず読めばいいのです。
2019.5.13毎日新聞<悼む>
「辛口の優しさ読者に」 がんで闘病中と知っていたのに、また元気になって、あの代々木の半地下の事務所兼仕事部屋で、次々買い手もらえる、としか思っていなかった。病室で原稿を書き続けていた本人だってきっとそうだったはずだ。
・・・・・・ 四十九日法要では編集者十数人が泣き笑いのエピソードを語った。「事務所を訪ねるのがいつも楽しかった」「気づいたら人生相談していた」という人も複数。そこにいて世の中の重しになってくれる安心感が失われたのはさびしいが、まだ膨大な著作がある。人生相談にだってきっと応えてくれる(専門編集委員・青野由利)。
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