独自の世界を表現した浮世絵・版画家、小林淸親(江戸東京)
2020年師走。新型コロナウィルスのせいで行動を制限され、所によっては温暖化のせいか雪に慣れた人もびっくりの積雪で苦労している。人間界にお構いなしの天候が恨めしい。こんな時はマスクして図書館、読みものより見るものにしよう。するとあった。
原寸大の浮世絵が収められた原色図版『清親』。大型でかなり重い。しかし、見る愉しみがまさり借りた。順にみると、清親(きよちか)の作品と知らず見ていた浮世絵や版画がのっている。「東京名所」に描かれた光景、清親が直面した上野の*彰義隊の戦闘をはじめ、大火、表情豊かな人物画などである。
けやきのブログⅡ 2017.7.22<古老が語る、上野戦争(官軍と彰義隊)>
小林 清親 (こばやし きよちか)
1847弘化4年、江戸本所御蔵屋敷総頭取をつとめる幕臣(御家人)の家に生まれる。幼名・勝之助。
1862文久2年、父の病死により、満15歳で家督を継ぎ、清親と名乗る。
1863文久3年、14代将軍上洛に従い大阪に滞在。そのまま幕府の瓦解を迎える。
1868慶応4年/明治元年、伏見の戦いに参加するが破れ、そのまま陸路を江戸へ敗走。
戦闘を目撃した彰義隊を描く、絵本①「東台戦争記]絵本②「弥生之雪桜田実記」篠田仙果編・杉浦朝次郎)。
1869明治2年、15代将軍慶喜の供をして静岡に赴くが、暮らしは厳しかった。
1898明治3年、「浮世絵備考」梅本鐘太郎 (塵山) 東陽堂
1871明治4~5年、東京へ帰る。東京は洋風化し始めていて芸術心をそそられる。
―――明治初年における新東京の新感情を芸術的に代表した画家は小林淸親である。彼は新奇な驚異と粗野な感動に答える魔境である(*野口米次郎)。
野口米次郎:詩人。慶応大学教授。英詩で名あり。日・英・米の詩界の交流に尽力。
1873明治6年、東京に戻り、榊原鍵吉の剣術興行団に加わる。
東海道を上って半芸人の放縦生活を享楽し歩く。名古屋から伊勢路へ入った頃はこの生活に飽きたうえ、剣術興行も物質的効果がなく団体を解散。放浪中に、西洋の風景画を見て衝撃を受ける。のち、東京風景画の木版の上に洋画風景の様式を真似ている。
1874明治7年、本格的な絵の修行をはじめる。ワーグマン、河鍋暁斎、柴田是真から学んだといわれるが、はっきりしない。
両国の版画出版社「太平」、のち人形町の具足屋を説得し「東京風京版画」を出版。
―――清親の東京風景は明治7~12年にかけて出版せられ、その枚数は百枚にも及ぶ。私はそれらの作品を「静寂な夜陰を破る光の突撃」とでも評するであろう・・・・・なまなました特殊な新都会東京に満ちた青春気分を伝えるには、清親はもってこいの画家だ
・・・・・彼は版画芸術を解放して、新しい民衆芸術を開拓した・・・・・真率で純正な芸術家はどこでもいつの時代でも尊い(野口米次郎)。
1876明治9年2月、「訴訟代言人御規則」「訴訟用罫紙御規則」 仮名付著者・小林清親、編出版・山崎清七[ほか]出版・編集 小林 東京第六大区本所若宮町113番地。清親になじまない出版は不思議だったが、原胤昭との縁らしい。
<方円舎清親>の名で「東京江戸橋之真風景」「東京新大橋雨中図」を出すと、<光線画>の名で一世を風靡。なお、方円舎のほかに真生楼などの号あり。
光線画:清親が創始。これまでの日本画になかったものを木版技術で表現。
このころから、徐々に西洋の影響を脱却し、制限された材料を大胆に有利に利用して夜景の題材を成功させている。
「御茶水蛍」:現在の文京区本郷一丁目付近。奥行きのある風景を描いている。夜の暗い闇の中、崖に挟まれた神田川に屋形船、奥に見えるのは神田上水の水を引く懸樋(かけひ)。よく見ると蛍は薄黄色い黄色に濃い黄色をの点を重ねて表現。屋形船以外には人工的な光がないので、蛍の光がとても明るく感じられる。
1877明治10年、第一回内国勧業博覧会に「猫と提灯」(版元・松木平吉)出品。風景画とは別のジャンルを清親に開かせた作品。
「明治十年勧業博覧会瓦斯館之図」:博覧会の雰囲気を巧に描き出し、光に照らされて仰ぐ人たちとシルエットの人物、点々とともる文明の光、ガス灯も美しい。
そのほか、「朝鮮国条約書」仮名付著者・小林清親、方円堂。
1878明治11年、井上安治が弟子入り。安治は「光線画」で脚光をあびた師の画風を継承。
1879明治12年、「鴨之図」松木平吉出版。
「*川口鍋釜製造図」:明治10年代の工場労働者を描いた一枚として貴重。清親は働く人たちにも視野が向けていた。
川口:荒川を挟み東京と向かいあう川口は、江戸百万都市の消費需要にこたえる日用品鋳物など生産が盛んだったが、日清・日露戦争の巨大な需要で鋳物業はさらに発展した。
1881明治14年、清親も大火で罹災したが、大火を主題にした作品は有名。
神田松枝町から出た火はおりからの強風にあおられて16時間燃え続け、1万数千戸を灰にした。それに続き2月11日も四谷箪笥町から出火、1400戸を焼失。清親の米沢町の家はこの1月の火事で焼失した。ところが清親は、この二度の火事ともスケッチをしていて、自家の焼失を意にかけなかった。これがために妻と不和になったという。
大判錦絵「明治十四年二月十一日夜大火 久松町にて見る出火」
―――真っ黒に集まる群衆の姿は恐怖の動揺である。彼らの頭の上に、彼らの頭と頭の間に、長い提灯や円い提灯が見える・・・・・これは火事の絵になくてはならない。右手土蔵作りの家の屋根に刺し子の仕事師が三人ゐる。一人は屋根の天辺に直立し他の二人は梯子から家の棟へのぼったばかりである。川にかかる橋の向川岸は一面の火だ・・・・・濛々と煙る焔は、左から右へ高い空へ、狂う龍の如く舞い昇って行く。この版画くらい恐怖の表現に成功した絵はあるまい・・・・・北斎の風景画に「動く絵」は沢山あるが、人間の恐怖を描いた風景画はない。広重の夜景には音楽的静寂味があって、私共の詩心を養ってくれるが、清親の火事場の版画のように、人間生活の悲劇を語るものでない(野口米次郎)。
「<清親ポンチ>を描きはじめる。この頃から風刺画を「団団珍聞」「東京日日新聞」などに発表。「清親ポンチ絵画帖」小林清親・小林鉄次郎出版。
1882明治15年、「新版三十二相」。版元・*原胤昭と手を組み、それまでの東京風景から一転した画風をみせる。
原胤昭:江戸奉行の三男、本所与力の原家へ養子に入る。維新後、英学を学び、キリスト教信仰、社会事業家。のち、十字屋書店を開き、ついで新聞・錦絵出版をする。「三十二面相」は評判が良く、翌年には「百面相」を出版。昭和8年、「前科者は、ナゼ、又、行るか」原胤昭著出版。肖像画・小林淸親。
1883明治16年、新富座で「柳桜東錦絵・下の巻」で「百面相」を上演。清親も協力し大当たりして百面相の語が流行した。
*福島事件にまつわる「天福六花撰」を出し発禁。清親は、美術研究を捨て放浪生活。雪降る北国をさ迷い、漁師と共に海浜の波から波を追った。
福島事件:福島県でおきた自由党員弾圧事件。福島県令三島の道路工事強制動員に、河野広中ら自由党員が反対運動を展開。農民と警察が衝突し多くが逮捕・処罰された。
1884明治17年、「武蔵百景」。
1891明治24年、「帝国議事堂炎上之図」。
1894明治27年、日清戦争。日清戦争を主題にした「百撰百笑」: 日本万歳を発表。
錦絵、狂画を巧に描き、「百面相」「百選百笑」などは名高い。清親画塾を開く。
―――「我野戦砲兵九連城幕営攻撃」:日清戦争ではじめて清国領土、九連城をを攻撃。清親は清国堅城を攻撃しようとする緊張を、暗夜の雨中で表現。敵の堅塁は、まったく描かず、炸裂した光の位置で高さを示すのみ、その閃光と暗夜のぼかしも見事である・・・・・清親の戦争画は、他の浮世絵師の「大時代もの」と異なり、芸術的昇華を意図している(『清親』岡畏三郎)。
1895明治28年、「毛鉛画独稽古」教科適用. 第1編、第2編。愛智堂出版。
1897明治30年、「川中嶋古戰之圖」・「鎌倉古圖」清水成造出版。
30~31年。「教育いろは談語」清親・武川清吉出版。漫画・せりふが面白い。
1901明治34年、「*二六新報」に入社。一時未決監に入れられた。
二六新報:明治26年、秋山定輔が創刊。国家主義的論調。
1907明治40年、東京博覧会に「大火の図」出品。
1909明治42年、[川俣絹布整練株式会社明治四十三年カレンダー][出版者不明]。
1915大正4年11月28日、死去。享年68。
明治浮世絵の三傑の一人、また浮世絵の掉尾を飾る画家と称されてきた小林清親。「浮世絵の歴史は、清親の死によって幕を閉じる」とまで評価されたが、浮世絵師の画系に連ならず、その作品は独学によってなされたもの。伝統に縛られず独自の世界を表している。
大火で真っ黒に集まる群衆の恐怖の動揺を描いた清親、彼がコロナ禍の世に蘇ったら、どのように表現するだろう。
参考: 原色図版『浮世絵大系12・清親』(後藤茂樹1975集英社)/ 『浮世絵師列伝』別冊太陽2006平凡社 / 謎解き浮世絵叢書『小林清親 東京名所図』2012町田市立国際版画美術館/ 『日本人名事典』1993三省堂 / 『春信と清長』野口米次郎1926第一書房 / 『資料による近代浮世絵事情』永田生慈1992三彩社 / 国会図書館デジタルコレクション
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