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2020年12月19日 (土)

明治の女子さっそう、岸田俊子・清水豊子・樋口一葉

 川柳「メルケルが総理だったなら」に同感、作者に座布団あげたい。メルケル首相に「女性なのに偉い」と言う人はいないと思う。外国で女性政治家・外交官は珍しくない。しかし、日本で高い地位に就くと能力を認めるより、「女子が就いた」と評判になったりする。理由の一つに、男尊女卑の風が消え残っているせいもありそう。また、女子の方もいちいち反発せず、右から左へ流しているかもしれない。
 ところで、女性の多くは日々、家事・子育て・仕事を難なく同時進行している。この能力、家庭に限らず社会で活用できると思う。しかし、誰もが能力を活かす仕組みができていない。今もそうなら、百年以上昔の明治はどうか?
 書物を読む女子が嫌がられたというし、女性に窮屈な社会だったのは想像に難くない。しかしそれでも、時流に屈せず、信ずるところをつらぬく女性はいた。
 演説や著述で女性たちに呼びかけた中島湘煙(岸田俊子)、清水豊子(紫琴)はその代表だろう。そして、生活の資を稼ぐために小説を書いた樋口一葉もまたそうだと思う。

   中島 俊子 (岸田俊子・湘煙・しゅん女
 1863文久3年、京都の古着屋・岸田茂兵衛の長女にうまれる。
 1880明治13年、17歳。文事御用掛として宮中に奉仕するが2年で退職。
    ?年、 土佐立志社員・*坂崎紫蘭らと交友、その影響で自由民権思想を抱く。  
 けやきのブログⅡ2020.8.15<龍馬伝「汗血千里の駒」作者は自由民権家、坂崎紫瀾>

 1882明治15年、大阪・岡山などで、男女同権を演説。
 1883明治16年、大津で「函入(箱)娘」の題で演説、政談にわたり集会条例違反容疑で大津警察署に拘引されるが、病のため出獄。罰金刑に処せられる。
 1884明治17年、*中島信行と結婚。「女学雑誌」に論文を投稿。
   *中島信行:土佐藩士。坂本龍馬の海援隊を統率。維新後は神奈川県令、元老院議官を退職して自由民権運動にかかわり、自由党の副総理。初代衆議院議長。
 1887明治20年、保安条例公布
   一線をしりぞき、横浜フェリス女学校教師になる。「善悪の岐」著述。
 1892明治25年、イタリア公使となった夫・中島信行について渡欧。病で帰国。
 1901明治34年、大磯で死去。享年、38。
   遺稿「湘煙日記」

    清水 豊子(紫琴・つゆ子)
 1867慶応4年1月11日、備前国和気郡(岡山県)の大庄屋格の農家に生まれる。
 1880明治13年、京都府女学校小学師範諸礼科、卒業。
 1884明治17年、17歳で民権家の代弁人と結婚。岡崎姓を名乗り、自由党系の政治運動に参加。演説からスタートして文筆にも進出。
 1885明治18年、「女学雑誌」創刊。岩本善治を中心に開明的な女性論を展開。
 1889 明治22年、植木枝盛の「東洋之婦女」に序を寄せる。このころ離婚したらしい。
   京都にあって「西京の有志家」として活躍。清水とよの名で評論を発表。
 民権家をふくむ男性たちに向かって、国会開設が男女とも「立憲政体の治下に生息する民たらしめよ」と切望。男女不平等を容認した「自由」は「自由」の名に値しないと訴える。

 1890明治23年5月、上京して「女学雑誌」に入社。以来、毎号のように同誌で活発な文筆活動を展開。11月、編集主任。
   7月25日、集会及政社法公布。女子は「政談集会の発起人たることを得ず」「政社に加入することを得ず」と性差別規定が導入された。
   9月30日、第一通常議会招集。衆議院規則案が全議員に配布され、傍聴人規則に「婦人は傍聴を許さず」。「女学雑誌」は規則案公布から十日後、婦人傍聴問題特集を組む。
   10月11日、「女学雑誌」第234の付録に「泣て愛する姉妹に告ぐ」を掲載。
   付録は、4頁立てのカラー紙刷で、他に岩本善治の論説「衆議院婦人傍聴の事」と、清水豊子の板垣退助インタビユー記事「同件に付板垣退助を訪ふの記」を併載、全体が衆議院婦人傍聴問題特集となっている。
 豊子は、性別役割分業論や女子能力劣等論などに反論したうえで、「母として子を育てる」観点に立っても「正当の理由なきのみならず、故なくして国民の権利を剥ぎ、国家大不利の濁源を醸成するものなり」と論じる。

   <泣て愛する姉妹に告ぐ>   清水豊子
 切に敬愛しまつる姉妹達よ、貴嬢等はこのたび発布せられたる、衆議院規則案第11章、傍聴人規則中、その第165条に、
 「婦人は傍聴を許さず」
と、特筆大書しあるを見給ひし乎、さきには政社法改正の不幸あり、今復た、かくの如き規則案を発布せらるる等女性の権利は、何処まで狭めらるるにや・・・・・ 
 誰も彼も無闇に入り込むといふ事は、もとよりあるべき筈はなし、特に議員が紹介をなし、もしくは傍聴券を与えたる婦人なれば、素より議場において、不都合なることを為し出すべき様はなし、然るにかくの如きむつかしき規則の上に、さらに婦人は傍聴を禁ずと特筆大書して、全く議場には婦人の隻影だも止めぬ様にせられしは、まことに不可思議至極の規定ならずや・・・・・
 一身の不幸不利は、しばらく置くも、一般姉妹と国家の為、いづくんぞ奮起せざる事やある、すべからく相謀りて、一日も早く此の逆境を脱するの方法を、講ぜられん事を、切に望む、切に望む。

 1892明治25年、東大農科大学助教授・古在由直と結婚。
 1895明治28~1900明治33年、花園随筆を「序学雑誌」「太陽」に連載。
 1897明治30年、「心の鬼」・「二人娘」・「誰が罪」を発表。
 1899明治32年、「もつれ糸」を「万朝報」に発表。ほかに「移民学園」を発表、以後、小説を書かなくなる。
 1901明治34年、34歳。「女学雑誌」に短いエッセイ発表を最後に文筆活動から完全に退く。死去まで32年間の長い沈黙は、社会な仕事を女に拒んでいる社会制度、結婚制度の問題なのだろうか。ちなみに、夫の古在は妻の活動を喜ばなかったという。
 1933昭和8年、死去。享年、66。

    樋口 一葉
 1872明治5年、東京府の下級官吏・樋口則義と多喜の次女として、現在の千代田区内幸町の官舎で生まれた。本名・奈津、通称・夏子。
 1886明治19年、歌人・中島歌子の歌塾<萩の舎>に入る。
   上流家庭の子女が集まる歌塾にあって、下級官吏の娘の一葉は肩身の狭い思いをするが、才能を示し姉弟子の三宅花圃*とならび才媛と称された。
  けやきのブログⅡ2014.7.12<明治最初の女流作家、三宅花圃(田辺竜子)>

 1889明治22年、父の死で一家の生計をたてなければならず、花圃が小説「藪の鶯」で認められているのに刺激される。
 1890明治23年9月、本郷菊坂町で母、妹との女所帯がスタート。
 1891明治24年、小説家・半井桃水 に師事。
      この頃から上野の東京図書館へ通う。仕事部屋も蔵書もない一葉にとり、小説の種さがしもさることながら、誰にも煩わされず自分だけの時間と空間をもてる図書館は、貧しい都市生活者に開かれた得難い隠れ家だった(『樋口一葉をよむ』)。

 1892明治25年、半水の主催する文芸誌「蔵野」に、「闇桜」「たま襷」、また、花圃の紹介で文芸雑誌「都の花」に「うもれ木」を発表。作品は一部に認められたが、生計を支えられず、針仕事、小間物屋を開業、<萩の舎>の助教をつとめながら、執筆。

 1893明治26年、戸主として、下谷竜泉寺町へ転宅。
  ―――一戸建ての中流的暮らしから、下町の長屋住まいになり、一葉にとって貴重な出来事であった・・・・・ 父や兄たちが不在だから、自分で選んだ作家という職業をひたすら歩むことができた(前出)。
   1月、「女学雑誌」から独立し「文学界」創刊。一葉は同人たちとの交友に強い影響を受け、戯作風、物語調を脱し、自分の生きている時代の現実をみつめ、そこに生きる人びとの姿を生活の中から生まれる言葉で表現しようと考えるようになる。こうした自覚によって、「大つごもり」をはじめすぐれた作品が生まれる。

 1894明治27年5月、古巣本郷へUターン。本郷丸山福山町4番地の借家にはさまざまな人びと、文学界同人、新聞記者、作家その他、和歌や国文・習字などを習いにくる学生たちが集まり賑わった。
   サロンの女主人としての一葉を想像すると、前向きで明るい一葉、皆に慕われるマドンナと思えてくる。
 1895明治28年12月、博文館の文芸誌「文芸倶楽部」に、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など再掲・発表。
  けやきのブログⅡ2012.10.28<樋口一葉『たけくらべ』(真筆版)と露伴・藤村の序>

 1896明治29年、「わかれ道」「われから」
       11月23日、結核で死去。享年24。
   ―――萩の舎という上流子女の世界も、廓や銘酒屋の女という底辺の世界も、ともに身近にしっていた一葉は、抜群のスタンスをもって明治女性の種々相を描き出した。それは彼女自身の「身と心」をもって獲得した、他の誰も真似のできない文学表現である(関礼子)。

   参考:『樋口一葉を読む』関礼子1992岩波ブックレット / 『新日本古典文学大系』23女性作家集・ 24樋口一葉集2002岩波書店 / 『日本人名事典』1993三省堂

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