アムステルダムオリンピック・人見絹枝、東京五輪・東洋の魔女
下手の横好き、卓球する。コロナ禍で試合が無いが、ラケット振れればOK。しかし上級は大会開催を待ち望んでいる。今まさに、卓球全日本選手権が行われているが、一般人が参加できる試合は殆ど休止中である。オリンピック出場がかかる試合でも開催できてない競技もありそう。いずれにしても選手の心情は・・・・・察してあまりある。
さて、1年延期の東京オリンピック、開催できるのだろうか。日中戦争が始まり実現しなかった「幻の東京オリンピック」みたいにならないといい。それにしても、この状況を誰が予想しただろう。
しかし何はともあれ、当事者はオリンピック開催を信じ、選手は努力を重ね、コーチはそれを支えている。次の記事は、視覚障害者柔道界に15年のブランクを経て復帰、同級生コーチと二人三脚で東京パラリンピックに挑む選手の話。
―――女子63キロ級の工藤博子(36)=シーズンアスリート=だ。地元・大分で介護職員をしていた一人の女性が2018年、畳の上で頂点を目指すアスリートに転身・・・・・ともに畳の上で汗を流した盟友、東京で視覚障害者柔道選手を指導していた仲元歩美さん(36)の指導で18年6月に国内大会で優勝、実績を積み、20年8月に東京代表候補に内定・・・・・東京大会の1年延期が決まったが・・・・・フィジカル面を強化するために、筋力トレーニングを重点的に行い体重の増加にも取り組んだ。工藤は「コロナ期間中での成長を実感している。東京大会では金メダルを目指す」と意気込んでいる(毎日新聞2012.1.12月刊パラリンピック)。
夏期オリンピックの女子(明治~昭和)
1912明治45年、第5回 ストックホルム (日本オリンピック初参加)
日本参加人数 女子0人・男子2人。
1928昭和3年、アムステルダム 人見絹枝が陸上800mで銀メダル獲得。
女子1・男子42
1932昭和7年、ロサンゼルス 前畑秀子が競泳200m平泳ぎで銀。
女子16・男子114
1936昭和11年、ベルリン 前畑秀子が競泳200m平泳ぎで日本女子初の金。
女子17・男子162
※前畑秀子さんのアルバムに残る人見さんの写真
―――同時代を生き、日本女子スポーツの礎を築いた2人・・・・・人見絹枝さん、姉のように仲よしだった(毎日新聞2020.5.25)
1940昭和15年、第12回 幻の東京オリンピック(戦争で中止)。
1948昭和23年、第14回 ロンドン JOC(日本オリンピック委員会)招待されず。
1852昭和27年、ヘルシンキ
女子11・男子61
1960昭和35年、ローマ 田中聡子が競泳100m背泳ぎで銅。
女子20・男子147
1964昭和39年、東京 女子バレーボール(東洋の魔女)が金。体操団体で銅。
女子61・男子294
1968昭和43年、メキシコシティ バレーボールが金。
女子30・男子153
1972昭和47年、ミュンヘン 青木まゆみが競泳で金。バレーボールが銀。
女子38・男子144
1976昭和51年、モントリオール バレーボールが金。
女子61・男子152
1980昭和55年、モスクワ 日本不参加。
1984昭和59年、ロサンゼルス シンクロナイズドスイミングとバレーボールで銅3。
女子53・男子178
1988昭和63年、ソウル 長谷川智子がライフル射撃で銀。シンクロナイズドスイミングで銅2。
女子71・男子188
~~~~~ ~~~~~
2016平成28年、リオデジャネイロ 参加、女子164・男子174。
人見 絹枝
<日本人初の女性オリンピック選手>
1907明治40年、岡山県御津郡福浜村(岡山市)で生まれる。
1913大正2年、福浜存立福浜尋常高等小学校入学。
1914大正3年、第一次世界大戦。
1920大正9年、13歳。岡山県立高等女学校入学。
テニス(庭球)を習い始め、6kmを歩いて通学、体力・持久力がついた。
1921大正10年12月、中国女子庭球(テニス)大会で大会。女子師範学校を破って優勝。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
10月、岡山県女子体育大会。走り幅跳び4m67の日本新記録(非公認)。
1924大正13年3月、岡山高等女学校卒業。
4月、東京の*二階堂体操塾(日本女子体育大学)に入塾、寄宿舎に入る。
けやきのブログⅡ<2016.7.30 女子体育の母、二階堂トクヨ(宮城県)>
10月、岡山県陸上競技大会。三段跳び10m33の世界新記録。
1925大正14年3月、二階堂体操塾を卒業。
4月、京都市立第一高等女学校に体操教師として赴任。
7月、二階堂トクヨに説得され二階堂体操塾にもどる。まもなく、台湾総督から体育の実技を教えてほしいと要請があり、台湾に赴き、指導して帰国。
10月、陸上選手権大会・*明治神宮競技大会近畿予選。三段跳び11m62世界新記録達成。ちなみに大会の観客6万人。
明治神宮競技大会:大正13年から内務省主催で開かれ、天皇・皇族出席のもと昭和18年まで継続的に開催された。バレーボールは第1回から加わり学校を中心に競技人口を増やしていった。
1926大正15年4月、二階堂体操塾、財団法人日本女子体育専門学校となる。
5月、大阪毎日新聞入社。後輩の藤村蝶とともに大阪に下宿。
8月、第2回国際女子競技大会、スエーデン・イエテボリ。一人で参加。毎日新聞の記者が付き添った。走り幅跳び5m50、立ち幅跳び2m49で優勝。
11月、スエーデンから帰国。大人気で岡山駅は黒山の人だかりだった。
1927昭和2年、谷三三五(ささご)に専任コーチを依頼。
5月、女子体育大会。200m走26秒1、立ち幅跳び2m61で世界新記録。
1928昭和3年5月、全日本陸上競技選手権。100m走12秒2、走り幅跳び5m98でともに世界新記録。
8月、オリンピック・アムステルダム大会。女子800mでドイツのラトケと競り合って銀メダル、日本女子最初のメダリストになった。
絹枝は2位だったが織田幹雄が三段跳びで優勝、オリンピックで日本選手優勝は史上初、日の丸が掲揚され絹代は「君が代」演奏を織田と涙を流して喜んだ。
織田幹雄:著書『少年少女20世紀の記録22』(1979あかね書房)<東洋の魔女>編は往時の感動を蘇らせてくれた。おそらく、陸上とバレーボールと競技はちがってもスポーツ選手として通じるものがあるからだろう。
1929昭和4年5月、人見絹枝著『スパイクの跡』出版。
1930昭和5年9月、国際女子競技大会プラハ大会。走り幅跳び5m90で優勝。
大会後、ヨーロッパ各地を遠征。ポーランド女子対抗競技会、日・英・独女子競技大会、ベルギー女子対抗、日・仏女子対抗競技などに参加。
11月、白山丸で海路帰国。
帰国するや連日、講演会や報告会に追われ休みがなく、海外遠征のない年でも、年間200回もの講演、報告会をこなした。そうしているうちに身体は疲れ、咳がでるようになった。
1931昭和6年4月、大阪帝国大学付属病院に緊急入院。
8月2日、肺結核のため死去。享年24。
―――「人見絹枝嬢の死」世界的の輝ける存在だった人見絹枝嬢は、流星の如く墜ちた。およそ日本人の死として、世界各国に伝わるもの、人見嬢の如きは幾らもあるまい。日本女性の最高記録だ。25歳は短い。けれでも女子競技会の開拓者としての嬢の名は不朽だ。その一生は、余剰物を排除した、清らかな、美しいエキスだった。
全国中等女教員大会で、良妻賢母主義の教育は、役に立たぬ。勤労主義の教育を取り入れ、女子の職業指導を行うべきだとの意見が出た(『溜飲を下ぐ』)。
9月、チェコスロバキアのプラハ市郊外のオルシャンスキー記念公園墓地に「人見絹枝記念碑」建立。
東洋の魔女・女子バレーボール
1957昭和32年、ブルガリアで行われたIOC総会で、新しくアーチェリーとバレーボールが1964年以降の実施競技に加えられることになった。
日本はそれまでの9人制でなく、国際式の6人制を採用しバレーボールチームを積極的に海外へ派遣。9人制はリクレーション性の強いスポーツとして定着していく。
1960昭和35年、日紡貝塚はオリンピック強化のための海外遠征に単独チームでインドネシア、ブラジルの世界選手権大会に遠征。
1961昭和36年、ヨーロッパ遠征(三大陸カップ)で22戦全勝。
この遠征で日紡貝塚は、当時、世界選手権三連覇中のソ連を破り、「東洋の魔女」とソ連メディアから命名される。
1962昭和37年、日紡貝塚は単独チームで世界選手権大会に出場、長年のライバルであるソ連を決勝で破って優勝。全国紙の一面を飾る大人気であった。
1963昭和38年、日紡貝塚女子バレーボールチーム、ヨーロッパに3度遠征し26戦全勝。
1964昭和39年、東京オリンピック 女子バレーボールが金メダルに輝く。
2020令和2年12月4日
東洋の魔女、主要メンバー、井戸川(旧姓谷田)絹子さん死去。大阪府出身。
東京オリンピックのバレーボール競技、エーススパイカーとして金メダル獲得に貢献。2018年現在もバレーコーチとしても活動していたが、脳出血のため死去。享年81。
―――(陽気で優しいエース)井戸川絹子さんは来夏に延期された東京五輪で聖火ランナーを務めることを楽しみにしていたが、かなわなかった。東洋の魔女の歓喜は64年東京五輪のハイライトだ。閉会式前日の大会大4日にライバルのソ連(当時)との全勝対決にストレート勝した。団体競技では五輪史上初の金メダルで視聴率はスポーツ中継歴代トップ・・・・・「鬼の大松」の異名をとった故・大松博文監督が「おれについてこい」と選手に猛練習を課し、独自に生み出した「回転レシーブ」による粘り強い守りで世界一に上り詰めた・・・・・(2020.12.8毎日新聞)
<余談>
東洋の魔女と大松監督の活躍は映画になったが、都内でそのロケに出会ったことがある。あんまり昔でよく場所も覚えてないが、川沿いを歩く女性を撮影していた。それが選手本人だったのか、女優さんだったのか遠くて判らなかった。その時、会社のお使いで急いでいたが、今思うとゆっくり見学すればよかった。
参考:『日本人初の女性オリンピック選手 人見絹枝』大野益弘2019小峰書店 / 『溜飲を下ぐ』丸山幹治1935言海書房 / 『「東洋の魔女」論』新雅史2013イースト新書 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~
<2021.1.17 阪神大震災きょう26年>
震災を知らない住民が半数を超えたという。震災のニュースにふれ20年前の寄稿文を引っぱりだしてみた。中年になった神戸工業高校定時制の生徒、どんな大人になったでしょう。
『ニッカボッカの歌』定時制高校の青春
(南 悟 著 解放出版社)
俺は今大工の華咲く一五歳足場に上り破風板を打つ
トンカチで釘打つ仕事の最中に自分の手たたき皮がめくれる
足場にて可愛い娘見とれ踏みはずし番線からまりニッカびりびり
やりました仕事みつかりうれしいなぁトンカツ屋さん給料ほしい
鉄工所だるさ我慢スイッチオン今日も格闘マニシング
ニッカボッカは建設現場などで見かける作業着。まだ15歳の高一少年たちがこのような仕事の歌を詠んでいます。国語の時間に指を折りつつ短歌を作る生徒たちに、ありのままを詠むようにと促す著者・南先生、その授業風景、連休さなかの5月4日、NHKテレビで見た方もあるかもしれません。
その番組「卒業のうた ― 夜の教室青春の短歌」放映のころ、17歳の空恐ろしい事件が相次ぎました。事件の少年らが神戸工業高校夜間定時制に通っていたなら、そこまで駆り立てられなかったでしょう。なぜか、それは生徒の短歌をよむと察せられます。
少ししか通えなかった学校に楽しみながら今通ってる
友だちと遊びほうけたあの頃の自分に見せたい今のがんばり
まわり道多くの仕事経験しやっと見つけた自分の居場所
仕事して学校来るのしんどいが友達いるから頑張れるのだ
今、北海道有珠山の噴火で長い避難生活を強いられている人が多くいます。神戸は5年前大震災に遭いました。自分もそうですが人は離れた地で大きな被害を被った人々を忘れがちです。せめて痛手を負った人を思い遣る心を無くさないようにと<震災を詠む>に思いました。
手に負へん崩壊家屋数えきれんジャッキアップしまくりまだ五〇軒
震災で神戸デパート焼け崩れ涙ながらに仕事失う
かけつける友の住まいは崩れおり生き埋めの友にわれは無力
立ち直りに向け震災二日後、自家の片づけを後回しに18歳少年は新聞配達。
木枯らしのガレキの中を探し当て吐く息白く新聞配る
「どのような失敗や挫折や障害があるにせよ、それが癒され、人として生きる力が与えられる不思議な学校」、読めばあなたも在校生。
~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~
| 固定リンク
コメント