北海道鉱業開発の先駆者、ベンジャミン・S・ライマン
日本は四季があっていい。樹木の緑に花々、落葉しても樹形がおもしろい。雪が降れば山や川はむろん見なれた景色が絵になる。しかし残念ながら自然災害があり痛い目に遭う。
昨年は台風こそ来なかったがコロナ禍、とんでもないものに脅かされ、自由な行動を制限されている。それだけでも困るのにこの冬、度をこす風雪で被害を被り困難続きの地方がある。その一方、東京近辺は晴れ間が多い。冬型の天候にしても、近年その度合いがひどく被害も大きい。温暖化が拍車をかけているのだろうか。
さて、人の暮らしは天候によって左右されがちだが、産業の盛衰によっても離合集散する。賑わった炭鉱が閉山すると、人が去り鉄道も廃線になってしまう。しかし、それでも、故郷に踏みとどまる人がいる。
―――かつて炭鉱の町として栄えた北海道三笠市幌内(ほろない)町の集落で、唯一営業を続ける店がある。大正末期の1920年代後半に創業した「太田金物店」だ。幌内炭鉱の衰退とともに人々が去り、たった2人が暮らす消滅寸前の集落を3代目店主の太田悦子さん(86)が静かに見守っている。
<大正創業2人の集落今でも/北海道・幌内/終戦伝えたラジオも>
―――幌内炭鉱は1879明治12年、明治政府のお雇い外国人ベンジャミン・ライマン(米国)らによる地質調査を経て開坑された。北海道開拓長官の黒田清隆や伊藤博文も開坑前に現地を訪れており、幌内炭鉱の開発は日本の近代化に向けた国家プロジェクトだった(「元、炭鉱のまち照らす金物店」(毎日新聞2020.12.7山下智恵)。
お雇い外国人がアメリカ人・・・・・鉄道建設など大事業のお雇い外国人はイギリス人と思っていたので、アメリカ人というのが気になった。そして、ライマンが出ていそうな何冊かを見ると、どれも好意的でライマンに興味がわいた。
ベンジャミン・ライマンと日本、その時代
1835天保6年12月11日、ベンジャミン・S・ライマン、米マサチューセツ州ノーザンプトンで生まれる。
?年、ハーバード大学で法律を修める。
?年、ボストンの工科大学卒業。
?年、ドイツへ渡り、フライベルヒの鉱山学校で採鉱冶金を専攻。
?年、アメリカへ帰り、ペンシルバニア州立、地質調査所長・ゼー・ビー・レスリー博士について実習。
この間、地形により鉱層の連脈を知る方法を案出し、鉱床の露頭を発見する便宜を得る。さらに地下鉱床の形状および深浅を予知することさえできるようになった。
1871明治4年、北海道開拓次官・黒田清隆、欧米出張し外人顧問の招聘をはかる。
北海道は開拓のモデルとしてアメリカの経験と技術を選択、ケプロンを中心とする外国人顧問団に大幅な権限をあたえた。
―――開拓使のお雇い外国人は総数78人、その内訳はアメリカが圧倒的に多く48、ロシア5、イギリス・ドイツ各4、フランス1、中国13(うち10人は農夫)。職種は学校教師17、汽船乗組員12、鉄道建設8、農業・牧畜5、測量と土木・地質各3。
農業関係、札幌農学校ではクラーク、幌内鉄道の建設・経営・・・・・地下資源の開発に地質学・鉱床ではライマンらがすぐれた業績を残している(『北海道の百年』)。
1872明治5年11月、ライマン、北海道開拓顧問ホーレス・ケプロンの推薦によって地質・鉱床開拓の第一線にあたるため他の専門家達と来日。ライマンは、アメリカ人技師アンチセルとともに、北海道の基礎地質と地下資源の探査とに力をつくす。
初めは開拓使仮学校で教鞭をとりながら、日本の鉱山の歴史について研究し、その後、北海道に入り、全道を跋渉する。
4月15日、開拓使仮学校(のち札幌農学校)を東京芝増上寺内に設ける。仮学校の中から女学校が併設された。
仮学校と名付けられていても、一般生徒とはちがって、当面する必要に応ずるために働いた生徒がいた。地質測量生徒と電信生徒である。
5月17日、ライマン、石狩川をさかのぼる。
―――東海岸に出る目的で、75日分の食料を準備、補助の秋山美丸ほか翻訳官、人夫数十人と札幌を出発。夕張・空知・雨竜を調査して石狩原野左右の連山が大煤田(石炭)たることを察し、7月12日カムイコタンをすぎて蝋石の大塊を検し、ハルシナイに宿し・・・・・同伴せし上川アイヌに、親戚・朋友を訪問すべき暇を与え、自身は美丸らと引き返し・・・・・ライマンは地質を調査し高低を測り、各支流の水量を測り、松浦地図の誤謬を訂正しつつ石狩川を遡りしが、前人未踏で地名もなければ、秋山川(助手・秋山美丸)、矯龍淵(ケプロンふち)、荒井川(荒井郁之助)、大鳥川(大鳥圭介)、山内川(山内堤雲)、開拓川などの名を命じ、7月25日、開拓峠と名付けたり。石狩川の水源をきわめて分水嶺に達したるは、この一行を以て嚆矢とす(小島烏水)。
1873明治6年、仮学校の地質測量生徒10人余りはライマンの北海道地質調査に随行、測量の補助をつとめた。彼らは北海道地質測量図の完成に大きく貢献し、測量技師として、のち内務省に転ずる。
電信生徒は電信架設のために募集・養成され、北海道の電信網の拡大に役割を果たした。
1875明治8年、ライマン、北海道地質調査をひとまず終了。
ライマンが黒田次官のもとに差し出した実地踏査の意見書は、きわめて価値があり、外国人の手になったものでは秀逸であった。明細な表をつくり、この方面の進歩に大きな利益を与えた。
1876明治9年、ライマン、工部省お雇いとなり、越後遠江の油田調査を翌10年まで行う。
1877明治10年、西南戦争。
『日本油田地質測量書』辺・司・来曼 (ベンジャミン・スミス・ライマン) 工部省出版。
1878明治11年、ライマン、全国地質測量主任となり、全国の地質鉱山調査にあたる。その間、日本青年を助手として優秀な地質技師に育てる。その13名中、坂市太郎、西山正吾など後年、活躍する。
さて、殖産興業を推進する政府は、開拓使の要請により起業公債の一部を幌内炭山の開発と茅沼炭山の改良にあてることにした。
―――ライマンは幌内の石炭が質量ともにすぐれていることを保証し、開拓使大判官・松本十郎は「皇国第一ノ宝」と激賞した。一つの問題は幌内の石炭をどうやって積み出すかということであった。これを太平洋岸(室蘭)に送るか、日本海側に移出港を求めるか・・・・・結局、小樽までの鉄道建設に踏み切った(『北海道の百年』)。
政府は幌内炭鉱の開発に着手するが、石狩炭田という内陸部に立地するため、輸送ルートが確立されてないので鉄道建設を計画する(幌内鉄道)。
1879明治12年、幌内炭鉱、開坑。
1880明治13年、アメリカ人技師クロフォードの手を借り、小樽の手宮~札幌間、幌内鉄道が開通。
本州の鉄道がイギリス方式で建設されたのに対して、幌内鉄道がアメリカ方式なのは際だって特徴的であった。機器はすべてアメリカ製を用い、「義経」「弁慶」と名付けられた最初の機関車群は、大型の煙突と前方につきだしたカウ=キャッチャー(排障器)をそなえ、アメリカの平原を思わせる姿をみせていた。
1881明治14年、ライマン帰国。
ライマンは日本びいきで、日本の古い文物のコレクターとしても知られている。彼の助手の中から、のちに鉱山技術者が多く育った。
―――ライマンまだ誰も手をつけていない日本全国の地質調査を大鳥圭介に申し出、予察図を制作するため、東北・北陸・中国・九州・四国にわたる長旅行を企て、東京に赴くと、日本政府はドイツ人地質学者ナウマンを雇い、日本地質調査所が設立されると知り失望。
ただ、自分の助手たちに、一生涯安定した仕事を与えようとした考えが、蹂躙されたことが心外であった・・・・・。
ライマンの調査時日はわずか3年であるが、語学や科学の準備知識のない若い日本の助手たちに、数学や物理の初歩から教え、また実地に測量や常識的知識学を教え・・・・・最初調査に加わったおりは、数学は僅かに分数に達した位で、図画のごときは殆ど学ばなかったのが、今は充分に野外観察測量、および製図ができ、目に見えぬ地下の地質まで考察し得るように進歩した(『偃松の匂ひ』)。
10月、開拓使官有物払い下げ中止(明治14年の政変)。翌15年、開拓使を廃し、函館・札幌・根室の3県をおく。
1882明治15年、江別~幌内間の全線が開通。
北海道の石炭が小樽や室蘭から本州の工業地帯に運び出される。ちなみに、幌内鉄道の役割は石炭の輸送だけでなく、鉄道沿線の開発への影響が大きかった。
今尾恵介著『新・鉄道廃線跡を歩く 1』(JTBパブリッシング)を開くと、幌内線の盛衰が写真と地図、詳しい説明でよくわかる。
なお、当時の北海道は労働力不足だったので、空知集治監開設とともに、多数の囚人を坑内労働させた。
1907明治40年、ライマン72歳。フィリピン群島地質調査に赴く途中、横浜へ寄港。
門生らが集まりライマンを歓迎する。その記念写真が『北海道の百年』に載っている。
1920大正9年、ベンジャミン・ライマン、死去。享年85。
ライマンは邦人間にすこぶる好評を博していたが・・・・・外人連からも敬意をもって遇せられ・・・・・来朝当時から我が国の山水と風光に憧れ、歴史や習慣を慕い、外人のは珍しい菜食主義を守った・・・・・ライマンには信実な邦人学僕があって、終始日本を語り、遠雷の孤客を慰めていた。その結果、この者はアメリカへ伴われ、学資も給せられて大学に入ったが病のために没した。それでもライマンは邦人の留学生を招き、開拓使の懐旧談にふけり・・・・・終生、日本の空を眺め、淋しい孤独の日を送ったのである(『奎普龍将軍』)。
冒頭の「太田金物店」はライマンが死去した大正9年ごろ開業したようだ。主力商品は坑内でつかう工具、金物店は幌内炭鉱を運営していた北炭(北海道炭礦汽船)や三笠市と取引して繁盛した。
参考:『開拓に尽くした人びと』北海道の夜明け1965北海道 / 『北海道の歴史』1996三省堂 / 『北海道の百年』1999山川出版社 / 『北海道』郷土史事典1982昌平社 / 『旭川市史稿. 上』1931旭川市編 / 『偃松の匂ひ』小島烏水1938展望社 / 『奎普龍将軍』谷邨一佐1937山口惣吉出版
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