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2021年1月30日 (土)

函館図書館に生涯をささげた岡田健蔵、石川啄木と函館

  ―――薄命の詩人として陋巷に窮死した石川啄木は、今や読書人の寵児として出版界を賑はして、日日の新聞雑誌は勿論、或は単行本となりまして其詩を讃へ、その歌を引き、評論となり、読本となつて、文壇人や出版業者の生活資源となつて居ります。実に没後二十有七年の間に於て、その全集が改版六回の多きに及んだといふ事は、我国出版界空前の新記録でありまして、全く驚異の事実であります。
 又更に啄木研究者は各地に啄木会を起し、機関雑誌を発行し、又嘗て啄木をして
  石をもて追はるるごとく
  ふるさとを出でしかなしみ
  消ゆる時なし
と歌はしめた程のその古郷さへも
  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに・・・・・(続きは国会図書館デジタルコレクション『秘められし啄木遺稿』岡田健蔵1947新星社で)。
 
 コロナ禍が収まらないこの冬、雪に慣れた地方でも大雪で事故が多発し困難に遭っている。北海道も・・・・・と思いつつ岡田健蔵の資料を探して冒頭の一節にであった。啄木へ思いのこもった文を書いたのは北日本屈指の図書館人岡田健蔵である。いつか訪れたいと思っている函館市立図書館創立者である。
 
    岡田 健蔵
 1883明治16年8月15日、北海道函館区鰱澗町(たなごまちょう函館区澗町8番地)で、工匠(大工の棟梁)岡田丹蔵の長男として生まれる。
   父丹蔵は青森県下北郡川内町の出身。1861~1863文久年間に箱館に渡り、函館の棟梁仲間では、そうとう名の売れた人であった。
 1896明治29年4月、私立・幸小学校から公立・弥生小学校高等科第3学年に転校。
 1897明治30年、第3学年を修了すると同時に退学。丁稚見習のため弁天町の雑貨商、山崎作蔵商店に奉公。

 1903明治36年3月、退職。鰱澗(たなごま)町で西洋ロウソクの製造を始め「太陽石蝋(せきろう)」と名づけて販売。
   ろうそく製造の原料のパラフィンはアメリカ、ステアリン酸はフランスからと総て輸入品に依存していたので、健蔵は原料を道産品にし自給化しようとした。そして、北海道産のニシン、イワシ油から蝋分を抽出、これに代えられないか文献を探したが適当なものを得られなかった。このことで、健蔵は各種の文献を集め、産業の発展に資さなければと図書館設立を決心する。
 1904明治37年、日露戦争へ、第七師団出征。

 1906明治39年9月、「*函館毎日新聞 緑叢(りょくそう)」の大会を谷地頭で開催。
   健蔵はこの機会に図書館の必要性を説き、設立を提案、満場一致で可決。
   函館毎日新聞:明治11年1月、北海道最初の新聞「函館新聞」発刊。明治18年から日刊、同31年「函館毎日新聞」と改題。

 1907明治40年5月5日、石川啄木、函館に来る。
   当時、啄木は故郷の渋民村で代用教員をしながら、父と村内の対立を案じ、奔走していたが父が家出してしまった。父の居ない家で家族を抱え貧しい暮らし、啄木は故郷にいたたまれず、「学年末には職を辞し新方面に活躍しよう」と、北海道移住を決意。そして、文芸誌『紅苜蓿』(べにまごやし・クローバー)の同人を頼って函館へやってきた。
  ―――啄木の北海道時代は函館・小樽・釧路と移り、上京するまで約1年間だが、この時の啄木は、文学に対する深い造詣と、すぐれた天分を多くの人に敬愛され、故郷では求めることのできなかった多彩な生活を得た(『石川啄木』岩城之徳1989吉川弘文館)。
   6月、健蔵は澗町の自宅店舗に「函館毎日新聞緑叢会附属図書室」を設ける。
    私財を投じて収集した健蔵の函館の郷土資料・雑誌・新聞、これに函館毎日新聞社に寄贈された図書・雑誌、さらに篤志家の支援を集め、図書を一般に無料公開したのである。
   8月、函館大火。市街の過半を焼く、焼失1万2395戸。健蔵の住宅店舗も類焼、蔵書の過半数を焼失。止むを得ず図書室を閉鎖する。しかし、災難にめげず私財をなげうち図書館のために働く。

 1908明治41年、健蔵は区長・山田邦彦の紹介状を携え、緑叢会派遣として東北ならびに中央の既設図書館を視察して視野を広める。岡田が影響を受けたという、齋藤與一郎・*内田銀蔵・帝国図書館と縁があったのはこの当時かもしれない。
   内田銀蔵:歴史学者。史学としての日本経済史の確立に貢献。

 1909明治42年、函館大火後、健蔵の一年半に及ぶ献身的な努力と情熱によって、図書室は私立函館図書館となり、本格的な公共図書館の設立に成功。また児童サービスを開始、これは日本の図書館史の中でも先進的な取組みであった。
   名ある函館市立図書館は評議員20名、館長・泉孝三、副館長・工藤忠平、主事・岡田健蔵を配したこの私立図書館から始まったのである。

 1912明治45年4月13日、石川啄木、東京小石川で死去。享年27。
   翌年5月5日、実家のある函館で入院していた妻の節子も死去。享年28。
   節子は生前、函館図書館主事・岡田健蔵に依頼。啄木とその母および長男の遺骨を東京から函館へ移し、自らも同じ墓地へ埋葬される。
   「啄木日記」は、節子が妹婿の宮崎郁雨に形見として伝え、「明治44年」を除いてはすべて函館図書館に保管されている。

 1913大正2年、相馬哲平が書庫建築費、小熊幸一郎が図書館建築費を寄附。
   4月13日、啄木の一周忌にあたり函館図書館で追悼会があり、啄木会が結成される。そして「啄木文庫」を設立をすることになった(大正2.4.15「函毎」)。
  ―――啄木会会員・阿部たつを著『啄木と郁雨の周辺』によると、その「啄木文庫」は、節子夫人の遺志によって函館図書館に寄贈された啄木の日記や手沢本に端を発し、また、岡田健蔵の熱心な収集活動に応じて啄木の親友で後援者でもあった宮崎郁雨と女婿にあたる石川正雄の寄附や寄託もあって次第に充実していったという。・・・・・中略・・・・・
 ・・・・・市立函館図書館に大切に収蔵されてきた「啄木文庫」は、全国的に例を見ない優れたものばかりであり、日本の近代文学史上において、欠くことのできない貴重なコレクションでもある。この資料の保存・整理、湿度や温度の調整、紫外線・虫害対策、盗難防止に関しては、数々の問題が横たわっていた。しかし、函館啄木会はこれらの問題に対しても熱意を持って真剣に取り組んできたのである(函館市史デジタル版・函館啄木会)。

 1916大正5年、図書館の書庫が完成。この書庫は、北海道初の鉄筋コンクリ-ト建築物。
   しかし図書館の経営は困難を極める。館員を雇うこともできず結局、岡田健蔵が一家を挙げて図書館経営にあたることになった。
 1922大正11年秋、市会議員に当選。図書館事業促進の目的で二期勤める。
 1923大正12年、『小学校建築の不燃化に就て』紅茶倶楽部(函館叢書・第1冊)刊行。
 1924大正13年、『函館駐剳独逸領事ハアバア氏遭難記』函館ハアバア記念会(函館叢書・第4冊)刊行。
 1926大正15年、『露西亜文化と函館』紅茶倶楽部出版(函館叢書・第5冊) / 『ジヨン・ミルン博士の生涯』ミルン博士追想記念会(名函館叢書・第7冊)。

 1928昭和3年7月、函館市立函館図書館が竣工。
   以来、桜の名所である函館公園の中で多くの市民に親しまれる。
 1930昭和5~1944昭和19年、館長をつとめる。
    この間に、公立図書館長・高等官七等待遇・従七位に叙せられる。

 1934昭和9年3月、函館市で大火。関東大震災につぐ大火で市内の三分の一が焼失、650人の死者、多くの罹災者が出た。
   図書館は必死の防火により火災を免れる。館長・岡田は罹災児童を励ますため全国の図書館を通し、「罹災児童同情図書・雑誌」の寄贈を呼びかけ、全国各地から12万4365冊の図書・雑誌が贈られた。重複も多かったが、中には旧満洲や台湾で発行された、現在では入手しにくいものも含まれている。贈られた図書・雑誌の多くは罹災児童に配布されたが、一部は図書館の蔵書として活用。
 1936昭和11年、『蝦夷地に於ける和人伝説攷』深瀬春一(間瀬印刷所出版部)に序文。
 1937昭和12年、盧溝橋事件で日中戦争おこる。
   『函館大火史』(函館消防本部編)に<函館の火災と消防及水利>を寄稿。

 1941昭和16年12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。対米英宣戦布告。
  1944昭和19年12月21日、肺疾患で死去。享年61。
   市内の実行寺に葬られる。
   公私のすべてを図書館にささげ、市民と後世のために貴重な郷土資料をどん欲に収集、函館に日本有数の図書館とその利用者たちを育てた。今日、市立函館図書館が質量ともに北方郷土資料の宝庫として世に知られているのは、図書裡(としょり)の号を持つ岡田健蔵の明智と犠牲の賜といえる。

  参考:  『近代日本総合年表』1968岩波書店  /「ステップアップ」vol.45(1992.12) /「岡田健蔵と函館図書館」田畑幸三郎 /「函館人物誌」近江幸雄著) / 国立国会図書館月報2012-01-20 / 『北海道』1982昌平社 / ウイキペディア

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