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2021年1月23日 (土)

大村藩つながり、松林飯山-楠本正隆-岡鹿門(千仞)

 コロナ禍でステイホームの日々。
 友だちに会いたい、旅にも出たい。でも不要不急、家にいるしかない。でも、図書館へは行く。ネットで予約した本を受け取ったら回れ右して、すぐ帰る。本のお陰でふさぎ込まないでいられる。みんなも読めばいいのにと思う。
 しかし、自分がピアノに縁がなく弾けないのと同じ、本との出会いも簡単ではないらしい。
 趣味といえども、それに出会う環境、階層など関係するらしい。
 ところで、そんなに本読んで何になるの?って言われ、絶句したことがある。
 ただ面白いから読むだけ、「何になる」とか考えたこともなかった。変かな。
 それはともかく、本といえば学問、学問が出世の入り口になることもあった。
 幕末、勤皇・佐幕が入り乱れ世の中が騒がしい時代、長崎大村藩で若くして学問にすぐれた*松林飯山(廉太郎)が藩校教授に取り立てられた。そればかりか、飯山は藩主に非常に大事にされた。
 その長崎の松林と遠く東北仙台の*岡鹿門は盟友である。そして岡は松林の同藩・楠本正隆と明治期に出会う。
 三人並べると、幕末明治の一時期が垣間見えそう。
  けやきのブログⅡ2015.2.7<なりふり派手な尊攘派浪士、本間精一郎 (新潟寺泊)>

 大村藩は勤皇を鮮明にして賞典を得る。維新後、世の中が様変わりしても明治の新日本を明るく元気に渡っていけたと思う。
 しかし、筆者は会津贔屓。同じ時代を恵まれず苦労して生き抜いた敗者を思うと、少し複雑。
 とは言え、幕末の混迷に時代に命がけで信念を貫いたのは、佐幕も勤王も同じ、後の世の人間がとやかく言えないですよね。色々はひとまず置いて、80年間の記事を拾ってみた。

   大村藩

 肥前彼杵(そのぎ)郡におかれた藩(長崎県中央部大村湾岸)。藩主大村氏。2万8千石。大村氏は鎌倉時代から地頭としてこの地を支配。戦国時代には純忠が本領確保につとめ、関ヶ原の戦に子喜前が徳川方に属し本領を安堵。以後、廃藩置県に至る。

 1833天保4年11月2日、岡鹿門(千仞)仙台藩士の五男に生まれる。
 1838天保9年、楠本正隆、肥前長崎で生まれる。幼名は小一郎。
 1839天保10年2月、松林飯山(廉之助)、筑前早良郡飯盛山下(福岡県)に生まれる。名は漸。
   父・杏哲は医者で、絵をよくし、そのため山紫水明の大村を愛して移り住む。
 1847弘化4年、飯山9歳のとき一家で大村藩の蠣ノ浦(かきのうら)に移り住む。
 1850嘉永3年、大村藩主は美少年で神童の誉れ高い12歳の松林飯山を召し、唐詩を講じさせる。
   すると、評判にたがわず、唐詩百首を一字も間違えず暗誦、居合わせた大人をおどろかせた。
   藩主は飯山を藩校・五教館表生定詰と一口俸を与える。

 1851嘉永4年、江戸練兵館の「鬼歓」こと斎藤歓之助、大村藩仕官。
  ―――藩の士気が従来からすこぶる振るって・・・・・武道においては剣客・斎藤弥九郎の一子寛(歓)之助が召し抱えられた程であります・・・・・近年、帝大の総長には大村出身の人が4人までなられて・・・・・
  その流れを遡れば藩学・五教館の教授であった松林飯山に出会わないわけにはいかないのである・・・・・(「双松岡」松田栄一1943大阪帝国大学内)。

 1852嘉永5年、松林飯山、江戸に遊学、安積艮斎に入門。
   藩主が江戸へ出るとき、飯山少年は藩主が徒歩のときは籠に乗った。それほど藩主に愛されたのである。

 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦4隻を率い、浦賀来貢。
   大村藩は高まりつつあった尊皇攘夷運動のなかで、いち早く外海竹での台場(砲台)の築造、質素倹約令の発布、鉄砲組の編成、青少年藩士の長崎・江戸への遊学など、社会の変化に対応すべく種々の政策を打ち出した。
   岡鹿門20歳、昌平黌に入る。鹿門は才すぐれ、人一倍勉学したので詩文掛に選ばれ、舎長になる。

 1857安政4年、飯山19歳で昌平黌入り、詩文掛となる。
   までのあいだに、松本奎堂・岡鹿門を知り、盟友となる。

 1859安政6年、松林飯山、学成って大村へ帰り、馬廻りとして60石を賜る。さらに弱冠22歳ながら藩校・五教館の学頭を命ぜられる。
   このとき、楠本正隆は藩命により監察となり松林飯山と共に子弟を育成する。
   岡鹿門は昌平黌を退学し仙台に帰るが、まもなく上方にもどり、さらに山陽・山陰路を歩いて再び大阪に戻る。

 1860万延元年、松林飯山、京攝の間に遊学を命じられる。主に勤皇の志士と交遊して得た情報を逐一、大村に伝えていた。
 1861文久元年11月、天下の風雲いよいよ急を告げ志士往来の激しい時に勤皇の学塾・双松岡塾を開く。その場所は、大阪堂島沈流田簑-玉井(玉江橋)の間である。
 名称は、昌平黌の同志、大村藩士・松林飯山、参州刈谷藩士・松本奎堂、仙台藩士・岡鹿門(千仞)から一字ずつ、二つの松(双松)とで双松岡。この塾には学僕・山東一郎(のち山東直砥)がいた。

 1862文久2年5月、町奉行の圧迫により双松岡は解散、それぞれの道を歩むことに。
   岡鹿門は仙台へ帰郷。松本奎堂と山東一郎は淡路島へ赴く(『明治の一郎・山東直砥』)。
   松林飯山は大村へ帰って再び五教館の助教に任じられ、京阪で見聞したこと、おもに幕府の専横を子弟に語り、彼らの心を動かす。

 1863文久3年1月、松林飯山は再び京阪にで、天誅組の藤本鉄石や勤皇の志士と交流、6月、大村に帰郷。
   8月、藩主・大村純煕(すみひろ)、長崎総奉行に任ぜられる。
   当時、大村藩も佐幕派と倒幕派の対立が生じていた。そこで、藩主の長崎総奉行をきっかけに、浅田家老を中心とする佐幕派が倒幕派を弾圧する挙に出た。ところが、これが倒幕派の結束を固めることになってしまった。
   9月、天誅組大和義挙(大和五条の天誅組の変)で松本奎堂、戦死
   10月、大村藩、勤皇三十七士同盟(大村三十七士)が結ばれ、本格的に尊皇攘夷運動を展開。楠本正隆も飯山の同志であった。

 1864元治元年9月、藩主が長崎総奉行を辞任するとまもなく、藩政の重職は佐幕派主流から尊皇攘夷をとなえる改革派にとってかわる。
   10月、藩主による「積年の流弊一洗いたすべき」諭告と、それをうけた家老よりの幕府批判の「口上」がだされ、ここに至って藩論は尊皇攘夷に統一される。
   幕末雄藩の藩論決定には、家臣団の間におこった改革派の活躍の場合が多いが、大村藩の場合には、藩主による上からの改革だといわれる・・・・・藩論が固まったとはいえ、佐幕派の勢力が消滅したわけではなく、両派の対決はいっそう激しくなる。

 1866慶応2年、松林飯山、大村藩医・長与俊達(*長与専斎の父)の墓碑銘を書く。
   長与専斎:岩倉使節団に加わり、のちコレラの予防など衛生行政に尽くす。

  ―――松林飯山は、人も知る如く識見一代にすぐれた少壮の勤王派であったが・・・・・彼が書いた俊達の墓碑銘には、かれ俊達の功績と共に人物を誉め、併せてその墓碑銘をかれに依頼した父専斎のことにも言及し・・・・・(『適塾と長与専斎 衛生学と松香私志』伴忠康1987創元社)。

 1867慶応3年1月3日、佐幕倒幕、両派の対立抗争、「小路騒動」おこる。
   大村藩倒幕派の中心人物、針尾九左衛門松林飯山が、新年登城の儀の帰り道、反対派の刺客に暗殺される。
   松林飯山の28歳という若すぎる恩師の死に、五教館の生徒は犯人の逮捕を誓う。3ヶ月後、兇行の一味25人を逮捕、切腹あるいは処刑する。この血の粛清によって、挙藩勤皇の一途を進むことになった。
 そのころ、岡鹿門は、松本奎堂・松林飯山二人の盟友を喪い、仙台に帰る。

 1868慶応4年1月、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争はじまる。
   勤皇の岡鹿門は奥羽越列藩同盟に反対し、官軍の伊知地正治参謀と会い終戦を画策、藩政執行官の怒りにあい投獄される。
   まもなく、仙台藩は官軍の猛攻に敗れ、鹿門は釈放される。獄中で福沢諭吉「英国議事院談」を読み、議事院を開くよう建言したり、藩政の立て直しに参画する。やがて上京して官途につくが、藩閥政府のもとでは志を得ることが難しかった。

   この年の秋。楠本正隆は大村藩剣術師範・斎藤歓之助と上京。*徴士に選ばれ、長崎裁判所判事・九州鎮撫使参謀助役を兼任する。
   徴士:諸藩士や一般人の有能な者を選任。官吏であるが、藩主とは、なお君臣関係。

 1869明治2年6月、江戸城にて論功行賞。
   まず薩摩・長州は10万石、土佐は4万石、それについで2万7千石の大村藩は3万石を得る。
  ―――幕末各藩の例に漏れず、勤皇・佐幕対立の鋭かった大村藩の動向を真に勤皇の一途に決定的ならしめたものは、実に、飯山の死にあったといはれるが、これを春秋の筆法をもっていえば、飯山の死が、この西陲の一小藩を薩長土に伍する勲藩たらしめたといふことができよう・・・・・(「双松岡」)。

 1870明治3年、岡鹿門、大学中助教を拝命、東京へ。
   太政官修史局協修、東京府書籍館監事など漢籍の収集に当たる。
 1872明治5年、楠本正隆、新潟県令。地方行政に活躍。
 1877明治10年、廃藩置県。
   このとき大村藩のみ、藩の負債を新政府に付すことがなかった。参政・楠本正隆の財政整理よろしきを得たためという。楠本は、東京府知事に任命され、5年間務める。
   西南戦争。
     最大の士族反乱。私学校生徒熊本鎮台を攻撃したが、鎮圧され、西郷隆盛も城山で自刃。

 1878明治11年3月、岡鹿門は東京府書籍館(とうきょうふしょじゃくかん)に「傭」として採用される。
  ―――『飯山文存』の刊行は、東京府知事・楠本正隆が企画、千仞(鹿門)に手訂本及び遺稿を付し論定せしめた・・・・・飯山の遺稿が二人を知己にした(「岡千仭と王韜」1976国立国会図書館)。
 1879明治12年4月、岡鹿門は東京府書籍館・幹事(館長に相当)に就任。
   この人事には東京府知事・楠本正隆の意向があるとも。その訳は、楠本は松林飯山と同じ大村藩出身で同志でもあった。その飯山と岡は昌平黌以来の友人、双松岡の盟友である。
   松林飯山、不慮の死から12年、不遇であった鹿門を楠本がひっぱりあげた。

 1881明治14年、岡鹿門、病気のため退官。私塾経営にあたる。
   漢学塾、綏猷堂(すいゆうどう)は東京芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若い俊秀があつまり、3千人を超えたという。
 1882明治15年、戊辰戦争で薩長軍とともに各地を転戦した大村藩主・大村純煕、死去。享年57。
 1902明治35年、楠本正隆死去。享年64。
 1913大正2年、岡鹿門(千仞)死去。享年81。

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2021.1.30  春はセンバツから!
   センバツ高校野球 第93回の出場校が発表された。初出場校が10校もある。その一つ、長崎県の大崎高校は甲子園出場を決めて「島に勝利届けたい」と喜んでいる。長崎県人をとりあげたばかりで筆者も嬉しい。
  次は毎日新聞の記事から。
  ―――大崎高校。人口5000人足らずの長崎県西海市の離島、大島にある県立校の大崎が春夏通じて初出場を決めた。
 昨秋の九州大会を初制覇し、公立校では11年ぶりの九州王者となった。エース右腕・坂本を中心とした守りの野球が身上・・・・・「応援してくれる島の方々に勝ちを届けたい」・・・・・清水監督は「きつい練習に耐えた」と選手たちをたたえた。

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