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2021年2月 6日 (土)

黒岩涙香「ああ無情」ほか探偵小説で一世風靡・急速に発展「万朝報」

 新聞折り込み、スーパーのに混じり、<毎日新聞創刊150年へ>のチラシが入ってた。そこに「毎日新聞の歩み、ミニ年表」があり、“けやきのブログⅡ”と時代が重なるから興味津々。人物写真をみただけでも、その時々の社会・世相が垣間見える。
 例えば、人見絹枝は先だって取り上げたばかり、新渡戸稲造も何度か登場。また、芥川龍之介が大阪毎日新聞から中国に派遣されたとあるが、その事は『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』本編に挿入した。
 それはともかく、創刊150年にちなみ明治の新聞をと思ったが、明治37年、毎日繁盛社発行<全国新聞紙一覧>によると東京から沖縄まで218社もあり、にわか勉強では無理。そこで、昔読んだ「(ああ)無情」の著者、「万朝報」を創刊した黒岩涙香にした。

     黒岩 涙香
 1862文久2年9月29日、高知県安芸郡川北村で生まれる。名は周六。
   郷士の父・黒岩市郎と母信子の次男。父の実弟・直方の長男として入籍するも、実子が生まれ実家に戻る。幼くして顔立ちと才知が敏捷で「黒岩の猿」といわれた。
 兄の黒岩四方之進は札幌農学校一期生、北海道新冠の御料牧場長を長く勤めた。
 涙香の号は香奩体(こうれんたい)の詩「紅涙香」からとり、おもに探偵小説に用いた。
 別号は、古概・香骨居士・冷眼子・民鉄など。
   香奩(こうれん):香を入れる箱。 香奩体:詩の形態。婦人の艶情、閨怨などを歌ったもの。晩唐の詩人、韓偓(かんあく)の官能的な詩集「香奩集」から始まる。

 1874明治7年、近くの安芸浦の文武館で漢籍を学ぶ。
 1876明治9年、15歳。高知に出て森沢沮の塾、ついで大阪の英語学校で英語を学ぶ。
   当時、養父直方は大阪で裁判官をしていた。黒岩は「大阪日報」に論文を載せたり、英語学校の演説会で弁舌をふるうなど奇才を示した。
 1879明治12年、上京。成立学舎から慶應義塾に入るも中退。
   このころ馬場辰猪らの創立した「国友会」に入り政談演説に熱中。
 1882明治15年、学友と共訳『雄弁美辞法』、黒岩大の名で『政体各論』を出版。

 1883明治16年、22歳。「同盟改進新聞」の主筆。新聞界への第一歩、香雪居士・まれに半士半商人の署名を用いた。しかし、この新聞は資本が少なく休刊続きで廃刊。
   二大政書出版会社をおこし、政治書出版翻訳を試みる。
 ところで以前、変名で「輿論新誌」に掲載の北海道開拓使批判の評論が官吏侮辱罪に問われ、16日の重禁錮に処せられる。

 1884明治17年、「日本たいむす」主筆。忌憚なき筆は当局の忌避にふれ、発行停止を命ぜられ廃刊。
 1885明治18年、「絵入り自由新聞」の主筆に迎えられ、翻案探偵小説「法廷の美人」など、いわゆる涙香物で好評を博した。

 1887明治20年、「今日新聞」(のち都新聞)に勤める。
   「今日新聞」に「法廷の美人」を翻訳して連載。涙香外史の筆名を初めて用いた。
 西洋小説の翻訳は余技であったが、人気がたかまり好んで探偵小説を出し、本職の論説記者より探偵小説家として思われた。涙香の探偵小説の底には社会正義があり、手法に新しい要素があった。
 さて、「今日新聞」は夕刊新聞の元祖であったが、社運振るわず経営者が変わり、名前も「都新聞」と変わり涙香は主筆に迎えられる。

 1889明治22年、「都新聞」主筆涙香は欧米の小説をつぎつぎと翻案、掲載する一方、社説・短評・三面記事にいたるまで斬新な企画を編みだし、才筆を振るった。とくに探偵小説は人気だった。

 1892明治25年、「都新聞」の経営が*楠本正隆に変わり、涙香は楠本と衝突して退社、その系統の記者も退社させられる。
  けやきのブログⅡ<20211.23大村藩つながり松林飯山-楠本正隆-岡鹿門(千仞)>

   11月1日、「万朝報」創刊
   「都新聞」退社から3ヶ月、涙香は自ら社主として新聞発行を企てる。涙香小説の愛読者で家業を廃業してまで涙香の小説出版をしていた扶桑堂から借金、資金を得る。「万朝報」第二号は7千の固定読者を得、予想より売り上げた。
   涙香の小説は好評で、講談・歌舞伎になり興行は大当たり。翻訳小説の原著者、約20名と言われる。イギリスのベンジンソン夫人原作「幽霊塔」、ビクトル・ユゴー原作の「巌窟王」・「(ああ)無情」の題は、今も一般化しているほど内容をよく表現している。
 涙香の郷里、土佐は自由党発祥の地で、それらの人々と縁故があったが、新聞事業に入った。
 「万朝報」は、一に簡単・二に明瞭・三に痛快を綱領とし、経営では、貸し倒れの新聞社が多かったので、前金制度・本社が直接読者をとる方法を採用。
 1893明治26年6月、「絵入り自由新聞」を合併。

 1894明治27年、日清戦争。
   日本の新聞にはじめて英文欄を設けたり、短編小説の懸賞募集を続け、また紙面充実のため広く人材を集め、多士済々であった。
1895明治28年、「万朝報」読者は年々ふえ、東京方面では「東京朝日新聞」を抜いて一位。しかし、全国では「大阪朝日新聞」は年間2800万部、「万朝報」は2000万弱で二位。
 1896明治29年5月、万報社から社会諷刺の冊子、『狂詩戦』発行。
 1898明治31年6月、購読料を創刊以来の20銭から24銭へ値上げ。

 1901明治34年4月、社屋を京橋区から元・大隈重信邸を8万円で購入し引っ越し。
   7月2日、「万朝報」に平和なる檄文と題し、<吾等と心を同くする人は来れ、与に倶に社会救済の為に理的団結を作らん>の一文を掲げる。
 宗教的・政治的、あるいは何かの利益を得ようとする団体ではなく、社会改良の理想、道徳的精神運動で、内村鑑三・幸徳伝次郎(秋水)・堺利彦など発起人に名を連ねる。学生や教員など知識人は、進歩的な論説人にひかれて「万朝報」を読んだ。
 その一方で、社会記事に有名人の私生活暴露記事、スキャンダル・ジャーナリズムで読者の関心を集め(読者は真偽には無関心でおもしろがった)、涙香は部数をふやす経営の才があり、「まむしの周六」と恐れられた。

 1902明治35年、理想団を組織して、社会浄化を唱える。
 1903明治36年5月、『天神論』を朝報社から出版。
   10月、日露間の風雲急で一時、「万朝報」も非戦論を唱えたが態度を変えたため、非戦論者の内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦らが退社
 1904明治37年、日露戦争
   趣味と実益のため活動、五目並べの記事や囲碁・百人一首・相撲・俚謡正調など涙香好みの趣味娯楽記事を掲載、読者文芸の募集も幅広くなされた。
 1905明治38年、涙香が翻案小説家として最も活動したのは明治20年頃からこの38年頃迄で、70余種を書いている。

 1914大正3年、シーメンス事件。軍需品購入をめぐるドイツのシーメンス社と海軍高官との贈収賄事件。
 涙香は、シーメンス事件に対する政府攻撃で、涙香は請願上奏文を奉呈。山本内閣が倒れ、大隈内閣擁立に成功するが、このため反大隈系の読者が反発、不評を買い、経営上の大きなマイナスになった。
 1919大正7年1月、パリ講和会議開催。涙香は全権・西園寺公望ら使節団に随行。そのときの漢詩30余首は、見聞記とともに「万朝報」に掲載された。

 1920大正9年10月6日、心臓病で死去。享年59。
   自ら戒名を「黒岩院周六涙香忠天居士」とし、鶴見総持寺墓地に埋葬された。

 1940昭和15年、涙香の死から20年、「万朝報」は「東京毎夕新聞」に吸収され廃刊。

   参考 : 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『新聞記者の誕生』山本武利1990新曜社 / 『新聞の歴史①』1997図書センター / 『日本人名事典』1993三省堂

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