海を走って鉄道開通、横浜~新橋
<えひめ丸事故きょう20年>(2021.2.10毎日)
―――ハワイ・オアフ島沖で、宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」(499トン)が緊急浮上訓練中のアメリカ原子力船「グリーンビル」(6080トン)に衝突された沈没、乗っていた35人のうち9人が死亡した事故である。 このとき亡くなった実習生のお母さんは、生きていれば37歳になる息子さんの部屋を今も当時のままにしているという。
実は、ハワイ旅行をしたとき、真珠湾に行きたかったが「えひめ丸事故」から間もない時で行くのをためらった。しかし、その海に行って合掌した方がよかったのかな・・・・・今でも迷う。海外旅行に限らず、時にこのような酷い事故現場に行き会わせると神妙になる。
今はコロナ禍、海外どころか国内旅行もはばかられ電車にも乗ってない。せめて本の中で汽車に乗るとしよう。そして乗った気分を味わうだけなら、いっそ日本初の鉄道に。
1853嘉永6年、ペリー、浦賀に来航。
1854嘉永7年、ペリー、蒸気機関車模型を持参し、江戸湾内小柴沖に来航。
1867慶応3年、渋沢栄一、マルセイユ~パリ間で鉄道に乗る。
1869明治2年、東京・横浜間に電信開通。鉄道建設計画決まる。
<鉄道ゲージと線路計画>
工部省鉄同僚お雇い外国人・モレル、大隈重信に狭軌を勧める。
次いで、汐留から東海道にそって市街地に線路をしく計画をたてるが、田町の薩摩藩下屋敷を横切ることになるので、*西郷隆盛は大反対。そこで、大隈らは海上に汽車を走らせることにした。
また、横浜も平沼湾が大きくえぐれており、この湾にそって線路を通すと大回りで大変。ここも思いきって海上を通すことにしたのである。
西郷隆盛:大久保利通・木戸孝允たならぶ維新の三傑。鉄道建設に反対、莫大なお金を使って急いで鉄道を作るより軍備拡充をしっかりするよう訴えた。
1870明治3年3月9日、鉄道建設のため、鉄道兼電信建築部長モレル来日。
エドモンド・モレル:イギリス人技師長。ニュージーランドやセイロン(スリランカ)で鉄道建設の仕事をしたのち、来日。
3月25日、汐留駅の起点位置に0マイル杭を打ち込む(ゼロ哩標識)。
着任間もないモレルは、イギリス人技師や*小野友五郎・*松永芳正・*武者満歌など日本人技術者と測量を開始。
4月、横浜野毛浦海岸からも測量開始する。
小野友五郎:幕末から明治中ごろまで活躍した数学者・政治家。長崎でオランダ人に測量や航海について学んだ。鉄道路線の測量にモレルとともに中心になって動いた。
けやきのブログⅡ2011.4.4<咸臨丸航海長・小野友五郎((茨城県笠間)>
松永芳正:1845~1902 紀州藩士。勝海舟に蘭学と機関学を学ぶ。鉄道の仕事に従事し、のち、大阪鉄道会社(関西本線)の建築課長となる。
武者満歌:けやきのブログⅡ2018.11.24<鉄道のはじめ、武者満歌(江戸)&鉄道・土木、鹿島精一(岩手県)>
10月、旧幕府作事方元締・松本兵四郎が請負い、六郷川の木橋工事始まる。
10月、横浜平沼の埋立を*高島嘉右衛門、引き受ける。
埋め立て地は曲線で、長さ1386m、幅75mのうち、鉄道9m、道路に11m、残り55mを高島嘉右衛門に無料で貸し付けることにした。ただ工事期間が短くきびしかった。この埋立工事が進むにしたがい仮レールを敷き、工事に汽車を利用した。このときの埋立地が横浜駅と桜木町駅の間にある高島町である。
高島嘉右衛門:1832天保3年、江戸三十間堀で生まれる。横浜で材木商を営み、土木工事もおこなった。佐賀藩に出入り、大隈重信をはじめ政府の幹部とは知り合いで、鉄道工事を引き受けた。
けやきのブログⅡ2015.8.1<南部藩、御用商人(高島嘉右衛門・村井茂兵衛・小野組)>
11月、八ツ山・御殿山の切り通し工事を*平野弥十郎が高輪の埋立工事と一緒に請け負い、明治5年6月に完成。
―――品川より高輪大木戸までの間、海中へ鉄道の土手築立、八ツ山下より追々仮レールを敷き設け、馬車にて御殿山の土を運び送る(石井満『日本鉄道創設史話』)。
平野弥十郎:土佐の生まれ。旧幕府の作事方で土木工事に長け、自ら工事現場に住み込む熱意と努力で工事を終えた。
?月、品川・六郷川間の工事と田畑買い上げ。
農村地帯で農民の激しい反対があったが強制的に買い上げ、代金は*品川県が払った。
品川県:幕府代官の支配地だった江戸の西南部の広い地域に明治2年品川県がおかれた。鉄道はここを通り川崎・鶴見へ引かれた。ちなみに、翌4年11月東京府に編入される。
<「海を走る鉄道」遺構出土>
港区郷土歴史館によると、出土した堤は台形の構造で、両脇は石垣で固められている。JR東日本による再開発工事中の2019年4月、JR品川駅付近で見つかった。その後も断続的に見つかり、これまでに長さ1km分が確認されている。線路そのものは出土していない・・・・・堤は「高輪築堤」の名で知られるものの、これまでは浮世絵のほか若干残されている写真でしかその様子を知ることができなかった・・・・・その後、周辺は昭和初期までに埋め立てられ、線路や堤の行方も分からなくなっていた(後略)(毎日新聞夕刊2020.12.25)。
1871明治4年1月5日、神奈川の切り通しに日本最初の立体交差の橋が完成。
夏、イギリスから機関車10輌がつぎつぎ届く。
9月23日、モレル、結核で死去、享年29。
誠実ですぐれた人モレルは鉄道建設に鋭意努力したが、完成を見ずに不帰の客となった。モレルを看病していた夫人(日本人)もまた同じ病で死去、夫妻の遺骸は横浜の外人墓地に葬られた。
11月、六郷木橋完成。川の堰き止め、橋脚、橋桁など難工事を着工後わずか1年という超スピードで完成させたのである。
1872明治5年4月22日、横浜駅の本屋完成(アメリカ人建築技師R.P.ブリジェンス設計)。横浜駅はもともと輸入資材の陸揚所で、貨物倉庫・機関庫・客車庫・組み立て修理の設備も作られていた。機関車の向きを変えるための転車台は新橋駅と同じ。
2月、西洋型木造橋の八ッ山陸橋完成。
7月、品川・横浜間が仮開業。距離は約23.8km、運賃は上等1円50銭・中等1円・下等50銭。途中駅がまだ開業してなく無停車運転。乗客は最初の一週間は4000人だったが、かなり多くに人が利用するようになった。
8月、汐留駅は、新橋駅と正式に名称がきまり、駅本屋(ブリジェンス設計)完成。面積22万4千㎡。文明開化のシンボル、東京の新名所となった。
9月、現在の東京・高輪ゲートウエイ駅近くに*高輪築堤が完成。
東京湾は沿岸漁業がさかんで、堤防を築くと船の出入りが出来ないので、堤防を4カ所で切り、船が通れるように工事したのである。
9月12日、明治天皇が出席して開業式がはなやかに行われ、人々は鉄道の開通によりあらためて「文明開化」を実感した。
高輪築堤:海の浅瀬に築かれた鉄道用の堤の最初の鉄道遺構、国の史跡に指定されることになった。
ちなみに、この年3月、山東一郎改め山東直砥、陸奥宗光神奈川県令(知事)によばれ神奈川県出仕。折からのマリア・ルス号事件の間、大江卓権県令に代わり県庁の仕事を担当。翌6年、参事(副知事)に昇進。
参考:『汽車誕生』(新橋・横浜 鉄道開通ものがたり)原田勝正1982らくだ出版 / 『お雇い外国人 交通』山田直匡1968鹿島研究所出版会 / 『近代日本の鉄道構想』老川慶喜2008日本経済評論社 / 『日本鉄道史 幕末・明治編』老川慶喜2014中公新書 / 『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社
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<高輪築堤 ゆかりの佐賀へ>
―――日本最初の鉄道が開業した際に築かれた「高輪築堤」(東京都港区)の一部が、佐賀市に復元された。東京の都心で発掘された遺構が9000キロも離れた佐賀市の佐賀城公園内にある佐賀県県立博物館南側に復元された・・・・・当時の日本は維新直後で財政難・・・・・だが「日本の近代化のために鉄道は不可欠だ」と推進したのが佐賀出身で後の首相、大隈重信だった・・・・・(2022.4.30毎日新聞)。
―――“どうする都市遺跡の保存” 都市遺跡の保存は難しい・・・・・再開発で遺跡が出土しても、それを壊した跡地に造る現代の構造物が生む経済的利得が優先されがちだ。その一例ともいえる「高輪築堤」の今後を考えるオンラインのシンポジウム(日本考古学協会主催)が先月あった・・・・・(2022.5.16毎日新聞)。
<余談>
東京オリンピック開催まであと半年、ここへ来て不都合が表面化し国内外の批判をあびている。日本は百年たっても「ここは日本だぞ」が通用すると思っている人が多いのかもしれない。これを機に変わるといい。2021.2.17
―――明治時代にレディファーストを実行する星を進んだ男と思って紹介したが、当時は笑いの種になったらしい。海外に留学または公務で出張のときは仕方がないが、帰国すれば男社会、レディファーストが何だとなる(けやきのブログⅡ:2014.10.11<松三郎とその夫人(宮城・高知)>)。
―――駐米公使・栗野慎一郎がアメリカから帰朝した時に、妻君が神戸で汽車に乗ろうとして、栗野に向かい「あなた手を取って頂戴な」と言った。すると栗野は「馬鹿ここを何処だと思う。日本だぞ」と叱り飛ばしたそうな(2014.10.18<北海道大学育ての親、佐藤昌介とその父、佐藤昌蔵(岩手県)>)。
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