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2021年2月20日 (土)

『奥羽の義』東北諸藩はなぜ

 令和3年2月13日土曜夜、震度6強の地震が宮城・福島を襲った。関東でもかなり揺れたが、震度6強の地域は本当に怖かったでしょう。この地震は東日本大震災の余波だという。避難した女性が「今度の避難所は、前回より良くなっている」と話すのをテレビで見、胸がつまった。
 それにしても、10年にもなるのに「余波」とは・・・・・さらに余震はこれで終わりではないと、自然のエネルギーは強力すぎる。
 ところで東北は、自然ばかりか歴史でも痛い目に遭った、戊辰戦争である。

   <戊辰戦争
     1868慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いから、1869明治2年5月18日の五稜郭の戦で、榎本武揚らが降伏するまでの倒幕派と旧幕府軍の戦争。倒幕軍は4月江戸城を接収。この間、慶喜は恭順の意を表す一方、旧幕府主戦派は上野で彰義隊の戦、その他関東各地で抵抗、東北地方では閏4月に仙台・米沢を中心に奥羽列藩同盟、さらに翌月、奥羽越列藩同盟へ発展、会津戦争となる。9月、会津落城の結果、降伏。品川から逃れた旧幕府海軍は函館で最後の抵抗を試みた。
 この戦争による倒幕派の勝利は、新政府絶対主義官僚の地位と見通しを不動のものとし、明治天皇制統一国家形成へ決定的役割を果たした(『日本史辞典』1908角川書店)。
 
 戊辰戦争から150年余り、世間一般、戊辰の内戦を思い返すことが少なくなった気がする。しかし、勝利した側は近代化の先魁として同じ年月を「明治150年」として称える。敗れた側は、「賊軍」の汚名を着せられ明治日本を生きるのに苦労した。東北諸藩の人々、住民、子孫は複雑だと思う。
 『奥羽の義』(2020河北新報社)本編には、なぜそうか、どうしてそうか、当地ならではの資料と写真で戊辰150年の東北の思いが描かれている。小説やドラマになったり、よく知られた戦いや悲劇はむろん、地域に残る逸話も紹介されている。
 今、コロナ禍で暮らしにくい世の中だが、戦い敗れ、戊辰後の生き難さを乗りこえた奥羽の人々から学べる事がありはしないか。

     『奥羽の義』
    第1部  開戦への道
 【京都守護職・容保桜・八月の政変・禁門の変・王政復古・鳥羽伏見の戦い】
   会津、薩摩両藩をを中心とする公武合体派が長州を中心とする尊攘派を京都から追放した八月の政変。御所を護る会津に大砲を放ってまで攻撃する長州、このとき苦戦する会津を薩摩が応援、禁門の変である。この戦いでは長州藩が朝敵であった。

    第2部  悩める大藩仙台
 【会津追討令・鎮撫総督上陸・出兵強要・会津出兵・関宿会談・列藩同盟成立・ 世良修蔵暗殺・世良修蔵の密書・列藩同盟の先に】
    京都で鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争が始まったが仙台藩は距離を置いていた。しかし、明治新政府から会津追討令が出され藩を二分する激論となった。その間にも追討軍は海路を大型船4隻でやってくる。追討軍の上陸地、浦戸諸島の寒風沢島(塩釜市)と観瀾亭(松島市)の写真が往時を偲ばせるのは、その土地ならではの視点で捉えているからだろう。
 会津藩を思いやり「非戦中立」を決断した藩主だったが、日々動く京都の動静に対応するには仙台はあまりに遠かった。しかも総督府参謀は高圧的無礼な態度で会津出兵を促す。
 仙台、米沢両藩は追い詰められる会津藩救済へ動いた。会津藩境の白石城に白石城に奥羽14藩の代表を招き、鎮撫総督府に嘆願書を提出するも却下。まもなく25藩、ついで北越6藩も参加し31藩による「奥羽越列藩同盟」が成立。新政府と戦う軍事同盟となり、奥羽全体が戦火に巻き込まれていった。  

     第3部  東北に戦火
 【白河の戦い・磐城の戦い・二本松の戦い・駒ヶ嶺の戦い・からす組奮戦】
   二本松の戦い。今なら小学校高学年の少年たちの悲劇は大正6年、元隊士が激戦を回想するまで世に知られなかった。賊軍とされた側は、大ぴらに過酷な体験を話すことが出来なかったのだ。おそらく、明治20年代『史談会速記録』刊行まで待たなければならなかった。

     第4部  会津戦争
 【母成峠の戦い・彼岸獅子の入城・白虎隊・鶴ヶ城総攻撃・只見-八十里越・戦死者】
      
          第5部  列藩同盟崩壊
 【秋田藩離脱・秋田戦線・破竹の庄内藩・新徴組・天童藩】
   天童藩「将棋駒奨励の祖、無念の死」
  ―――天童市(山形県)は将棋駒の生産量が日本一。シェアは9割超を誇る・・・・・その礎を築いたのは天童藩家老・吉田大八。吉田は小藩で生活が苦しい藩士の内職として「将棋は兵法戦術に通じる。武士の面目を傷つけるものではない」と駒作りを奨励した。その甲斐あって、天童の将棋駒は150年をへてなお人々を愉しませているが、吉田大八は非業の死を遂げる。
 1868慶応4年旧暦4月、庄内藩討伐を進める新政府の奥羽鎮撫総督府は天童藩に先導を命じる。天童藩は庄内藩と事を構えたくなかったが、藩主に代わり吉田が案内・・・・・猛反撃に遭い天童城下まで焼かれてしまった。この直後、白石で奥羽越列藩同盟の結成会議が開かれ、状況が一変。天童藩も加入を決めた。ただ、庄内藩は引き替えに吉田の身柄引き渡しを求めた。吉田は意を決して出頭し天童の観月庵で切腹、自ら首を突き絶命。

     第6部  仙台藩降伏
 【勤皇派復権・白鳥(はくちょう)事件・遅すぎた榎本艦隊・榎本艦隊出航・艦隊出航後の悲劇・函館五稜郭の戦い】
   「艦隊出航後の悲劇、取り残された150人を斬首」
 1868明治元年10月12日、榎本艦隊は榎本武揚、新撰組の土方歳三、仙台藩額兵隊長の星恂太郎ら2000人を乗せて石巻から蝦夷地へ向け出航。乗船できなかった者のうち150人が新政府軍により捕縛、斬首された。
 むごたらしい出来事を住民は目撃したが、旧幕府の関係者と思われ処罰されたり、反対に報復を恐れたりして口をつぐんでいた。そのため悲劇は長い間歴史に埋もれていた。

     第7部  再 起
 【領地激減・北海道入植・余市の旧会津藩士・西郷隆盛の温情・西南戦争】
   仙台藩の領地 62万石→28万石。 伊達家一門の伊達邦直 1万4600石→60石

     番外編  列藩同盟群像
 【仙台藩「からす組」隊長-細谷十太夫・仙台藩士-玉虫佐太夫・仙台藩執政-遠藤文七郎・会津藩家老-佐川官兵衛】
 仙台藩士・玉虫佐太夫は渡米の経験もあり近代を先取りする才能があった。しかし、仙台藩降伏後、志津川(宮城県南三陸町)で捕らえられ切腹、明治の世を生きられなかった。
 他の人物はそれぞれのやり方で明治を立派に生き抜き感心する。ちなみに、からす組の細谷十太夫は、明治三陸大津波の直後に作業員102人を率いて被災地入りしたという。ほかにも被災地に駆けつけた戊辰の生き残りは少なくないだろう。

     番外編  写真特集
       「奥羽の義」写真は撮影者の内面と意気込みがにじみ出ているよう、どの写真をみても本文をおぎなって余りある。城や古戦場、文書の写真どれも地域ならではと感じる。「宮城県庁門前図」の写真、原画を上野の「高橋由一展」で見たことがある。しかし、養賢堂に気付かなかった。やはり、ゆかりの人たちは丁寧に見ている。
 会津人・柴五郎の伝記を書いて戊辰戦争に興味をもったが、『奥羽の義』を読んでその土地の歴史、それが辛い事だとしても、ゆかりの人が伝えることは大切だと思った。史資料だけでは掴めない時代の空気が感じられるし、風化させないためにも。   
     エピローグ
    【登場した主な場所・主な参考資料、図書】

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   “けやきのブログⅡ” < 戊辰戦争 >
2018年6月23日 明治150年/戊辰150年、その前の江戸湾防備(会津&富津)>
2018年2月 3日 秋田藩の戊辰戦争とその前後(秋田県)
2015年2月21日 戊辰の戦後処理、塩竃神社宮司、遠藤允信(文七郎)(宮城県)
2014年7月19日  五稜郭で戦う赤衣の額兵隊隊長、星恂太郎(宮城県) 
2014年1月18日  余市りんごと会津人の困難(北海道・青森・福島)
2013年11月23日  寒風沢島の洋式軍艦「開成丸」と三浦乾也(江戸)・小野寺鳳谷(宮城県)
2013年2月16日  伊達邦成(宮城県)の北海道開拓
2012年11月17日 戊辰戦争スネルと横尾東作(仙台藩士)
    もし読んでみようと思われたら、右端バックナンバーからお願いします。

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