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2021年2月27日 (土)

函館五稜郭設計の幕末・明治の兵学者、武田斐三郎

    <大江健三郎さん自筆原稿 東大へ 「文庫」設立公開を検討>
  ―――東京大は、ノーベル賞作家、大江健三郎さん(86)の1万枚を超える自筆原稿など、計約50点の資料が文学部に寄託されたと・・・・・同学部は今後、資料を管理する「大江健三郎文庫」(仮称)を設立し、研究者向けに公開する方向で検討している・・・・・(毎日新聞)。
 今は本を買わなくなってしまったが、昔は給料日に書店に行くのが楽しみだった。雑読乱読手当たり次第、大江健三郎さんの本も買った。そして、大江作品を理解しきれないのになぜかお終いまで読んだ。よく解らないまま何冊も読んだのが今でも不思議。
 近ごろは活字中毒が消え必要に応じて読むばかり、さびしくなる時がある。そこへ大江さんの記事。本さえあれば良かった若いころが蘇り、ただ懐かしい。
 ところで、大江さんの故郷は愛媛県。愛媛県ゆかりの人物をあげると正岡子規、「坊っちゃん」の夏目漱石、秋山好古・真之兄弟などが有名だが、同じ明治人に「箱館五稜郭」で有名な武田斐三郎(あやさぶろう)がいる。
 彼は幕末、四国愛媛からどのような経緯で遠く北海道函館で星形の城を築いたのだろう。

     武田 斐三郎     (たけだ あやさぶろう)

 1827文政10年9月15日、伊予国大洲中村の大洲藩士、武田敬忠の次男に生まれる。
   諱は斐。字は成章。雅号は竹塘。
   ちなみに、愛媛県のもととなった八藩(松山・今治・小松・西条・宇和島・吉田・大洲・新谷)は、廃藩置県のときそのまま8県になり、明治9年香川県を合県し大きな愛媛県となる。のち明治21年香川県が独立、県領は現在の愛媛県となった。

 1844弘化1年、大阪に出て蘭方医、緒方洪庵適塾で学び、蘭学に精通。
  ?年、英語・フランス語をまなぶため江戸に出る。伊東玄朴に入門、数年間学ぶ。
   伊東玄朴:幕末・維新期の蘭方医。佐賀藩士・伊東祐章の養子。シーボルトに師事。オーストラリアやオランダの医書、製鉄・鋳造など訳書も多い。

  ?年、 佐久間象山の塾で、航海術・築城・造兵に通じる。
    貧しく辞書が買えず、いずれの場所でも猛勉強。勉強しすぎで近眼になる。

 1853嘉永6年10月27日、ロシアの艦隊が長崎に入港。箕作阮甫(洋学者・医師)に従って長崎に出張を命ぜられる。
   オランダ語は「当時有数比類なく」と称された武田斐三郎は、函館奉行所付の翻訳官を命ぜられ、ロシア使節応接に加わる。
 開国した日本は、国防と富源開発の諸事業の遂行にあたり、外国の技術の導入と伝習に意を用い、居留外国人について外国語を習熟する道が開かれた。箱館では、斐三郎ら諸術調所を中心として蘭学の教授のみならず、軍事・産業・交通などの諸方面にわたり、実地について技術の導入・適用が測られた。幕末から明治初年にかけて北海道をめぐって活躍した志士山東一郎も、当時ロシア語を学ぶには箱館にしかずと来航、司祭ニコライに日本語を教えながらロシア語を習得した一人である。

 1854安政元年、ペリー箱館来港。
   斐三郎28歳。筒井肥前守川路聖謨に附してロシア船御用取り扱いとなる。
   次いで、松前蝦夷地御用・堀、村垣に従い、蝦夷地巡視。そのまま箱館詰となる。
 1855安政2年、結婚、梨本氏を娶る。箱館奉行所内に作られた「箱館諸技術取調所」教授、十人扶持。卒業生に前島密、井上勝、山尾庸三らがいる。

 1856安政3年、斐三郎、箱館で弁天崎砲台・五稜郭・反射炉の建設に従事
 1857安政4年から数年かかって五稜郭作られる。設計は武田斐三郎、監理もした。
   外国の軍隊に攻められたとき、箱館奉行所を石垣と堀で囲んで守りをかためるようにしたのである。斐三郎はヨーロッパ式の城にして守りを固め、城の中から大砲や鉄砲が撃ちやすい「星の形」にしたという。
 1859安政6年、箱館に来貢したアメリカ・ミシシッピー号の艦長について実地作業を習い、練習艦・函館丸艦長となり、自ら水夫を指揮して航海、新潟・佐渡・敦賀・下関・長浜(伊予)・大阪・宮古と諸港を巡航した。

 1861文久元年3月、ロシア領アムールへ向かう。箱館で初めて造られた亀田丸乗組員35名)で航海測量に出たのである。ニコライスキーでは、ロシア人が日本からの珍客として歓待してくれた。帰路、オホーツク海で台風に遭ったが、事なきを得て8月、箱館に帰港。
   この年、アメリカの地質学者・パンペリーが江戸幕府の招きで来日。北海道の地質調査を行い、採鉱・溶鉱法などを教える。
 1862文久2年、ブレーク来日(文久元年とする資料もある)。
   ―――ブレークはアメリカ太平洋鉄道探検隊に地質学者として参加。パンペリーとともに1カ年にわたり蝦夷の地質調査や採鉱の方法、技術などを指導。鉱物資源調査には武田斐三郎は大島高任らと通訳学生として参加。
 ブレークはまた、箱館奉行に鉱山技術を教える学校の開設を進言、箱館運上所内に「坑師学校」が設けられた。
 パンペリーとブレークは、斐三郎や坑師学校の学生を相手に、アメリカから持参した書籍、機械、化学薬品などを用いて、採鉱学・冶金学・分析化学などを教授した。とくに、武田斐三郎・宮川三郎・*大島高任を「才ありてよき学生なり」と評し、派遣を要請している(『お雇い外国人』)。
    けやきのブログ2011413釜石鉄山の基礎を築いた大島高任(岩手県)

 1864元治元年、斐三郎、開成所兵学教授を命ぜられ、小石川竹嶋町に家を構える。
   軍艦奉行・小栗上野介に抜擢され、鉄砲局の監理、大砲製造所・頭取となる。
   江戸の小石川小日向関口で大少砲を鋳造、反射炉を王子に築いた(のちの陸軍砲兵工廠)。大御番格、歩兵指図頭取として150俵および10人扶持となる。
 
 1868明治1年3月、徳川慶喜が恭順したのを不服とする暴徒に自宅を襲撃される。
    4月、御役御免となる。
   12月、*静岡藩より松代藩へ御貸人となる。
     静岡藩:江戸開城とともに謹慎を命じられた慶喜にかわって、宗家をついだ家達に駿河・遠江・三河で70万石を与えられたのに始まる。 
 1869明治2年、箱館戦争。
   斐三郎、松代藩士官学校創立に努めフランス式兵法を藩士に講じる。

 1869明治2年、版籍奉還。開拓使の設置。蝦夷地は北海道に箱館は函館となる。
 1871明治4年春、兵部省出仕。兵学寮長官・砲兵大佐・兵学大教授に任ぜられる。
 1874明治7年、従五位。
 1875明治8年、陸軍幼年学校長を兼ねる。
 1880明治13年1月28日、病で死去。享年53。
   浅草、松葉町海善寺で葬儀、新谷町智光院に葬られる。多くの詩文が残されている。

   参考:『国防の先覚者物語』永島不二男1943若い人社出版 / 『お雇い外国人 開拓』1975鹿島出版会 / 『函館市功労者小伝』1935函館市  / 『日本人名辞典』1993三省堂 /『愛媛県誌稿 下』1917愛媛県

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