三重県伊勢国出身、横浜で製茶貿易に尽力した大谷嘉兵衛
首都圏の緊急事態宣言解除、桜は満開、でも花見気分になれない。スティホームが長引き曜日の観念も薄れがち、でもブログのアクセスに励まされ更新日の土曜は忘れない。
先だって三重県のアクセスが多く、何が興味を引いたのかな~、次は何書こう。未整理のファイルをひっくり返すと、“東海エリアニュース「三重県北部の梅の名所めぐり」いなべ市梅林公園・鈴鹿の森庭園”のパンフレットがでてきた。アレ、三重県って近畿地方じゃないの?
地名辞典をみると「三重県は近畿地方の一県。しばしば東海地方に含められる」。南北に長い三重県、志摩半島は景観に寄与しているだけでなく、伊勢湾と太平洋に面し海上交通が発達、*伊勢商人の全国的活躍が納得できる。そういえば「伊勢屋稲荷と犬の糞」というのを聞いたことがある。
伊勢商人:江戸幕府が開かれると、伊勢商人は江戸に支店を持つようになった。寛永年間(1624~)以降、江戸の大伝馬町には木綿仲買商人が店をだす一方で、茶・小間物・紙・荒物などを扱う商人が江戸各地に出店。これら江戸の店持ち伊勢商人がすべて「伊勢屋」を屋号としていたのではないが、江戸の町に多かった伊勢屋は、なんらかの形で伊勢国と関係があったようだ。
三重県を国会図書館デジタルコレクションで検索すると事項が山ほど、そこに宮城県*多賀城市の広報誌があって東北の広報誌になぜ近畿東海の市町村名?
多賀城市の広報誌を見ると東日本大震災の被災地へ救援に赴いた市町村だった。今年は東日本大震災から丸10年、被災した各地域に助けあいの記録があるに違いない。
多賀城:けやきのブログⅡ2013.8.17<末の松山(宮城県と岩手県と)>
2011.3.11大震災。その翌年センバツの開会式で選手宣誓したのが宮城県・石巻工の阿部主将。今春第93回選手宣誓は同じ宮城県・仙台育英の島貫主将、宮城の、東北の、球児の思いを代弁。その中継を見ていた阿部さんは、「当時の僕らの思いを引き継いでくれたのかなと、うれしくなった」といい、4月から宮城県で教職につくという(2021.3.20毎日新聞)。共に汗した仲間、同世代たちにどんな青春が待ち受けているだろう。昔も今も、若人の旅立ちはまぶしい、コロナ禍に負けずガンバレ!
さて、若者が将来をかけて旅立つのは昔も同じ。幕末、一人の若者が伊勢から開港間もない横浜へ東海道を東へ東へと進んでいった。2021年の現代、東京オリンピック聖火リレーが出発したが世の中沈滞気味である。立志伝中の人、大谷嘉兵衛から元気をどうぞ。
大谷 嘉兵衛
1844弘化元年12月22日、三重県伊勢国飯高郡谷村(松阪市)に生まれる。貧しい百姓、吉兵衛の4男。幼名、藤吉。菩提寺の住職に文字を習う。
1862文久2年、横浜に赴き、伊勢屋小倉藤兵衛の店、製茶貿易商の丁稚になる。
ちなみに、江戸時代後期に伊勢国の広い範囲で茶が生産されるようになった。茶は、幕末に開国されると輸出品として注目され、伊勢茶も海外へ売られた。茶は、菜種油・木綿などとともに明治前半期の代表的な商品作物であった。
三重県で茶の改良・紅茶の輸出で有名なのには、伊藤小左衛門、大谷嘉兵衛、駒田作五郎(のち三重県製茶会社)。
1865慶応元年、藤吉は小倉藤兵衛の養子となるが、慶応3年、離縁となる。
横浜居留地輸出商スミス=べーカー商会に製茶買い入れ方として雇われる。
―――君は篤実を旨とし偽りをせず、而して取引上について時に紛紛を生ずる事あるも、その採決の早きこと例え外人と謂えども一歩も仮さず、その処置の至当なるには、毛唐人も一歩を譲ると、ああ偉なるかな嘉兵衛君、俊なるかな友田(大谷)君(『横浜人物一口評』)。
1868明治元年、24歳。独立して横浜区海岸通りに製茶売込業を開業。嘉兵衛と改名。
1872明治5年、同業の有志と製茶改良会社を設立。横浜区会議員。
1878明治11年、茶商協同組合を創設。
1879明治12年、全国茶業組合を組織。
アメリカのグラント将軍来日。嘉兵衛は横浜貿易商の接待委員として、特に茶商組合より大花瓶を記念に送る。
第一回製茶共進会審査員。製茶貿易の基礎をきずき、またアメリカに於ける茶の関税撤廃運動に奔走する。その経緯は嘉兵衛自身の『回顧録』に記されている。
1881明治14年、内国勧業博覧会審査官。第七十四国立銀行、取締役。
1882明治15年、横浜商業学校の前身、横浜商法学校創立発起人となる。同校創立には福沢諭吉の斡旋があった。
1884明治17年、茶業組合中央本部を創設。横浜茶業組合頭取。
1890明治23年、産業組合中央会議長。以後長く製茶貿易に尽力。
横浜市会議長。神奈川県会議員当選。
1890明治23年、横浜市会議長、神奈川県市部会議長となり、水道局長も務め横浜の水道に貢献。
1892明治25年、横浜貿易商組合総理。神奈川県会市部会議長。
―――往年、明治15~6年ころ、茶は粗製濫造のため海外の信用を落とし、明治17年農商務卿は組合準則を布き、明治20年省令を持って組合規則を発し取り締まる。改良の実を挙げるが、中国・インドが常に商機を窺っている。大谷嘉兵衛は、生産家の反省と改良を1~5まで具体的に示し・・・・・(『横浜時事漫評』千草道人1893千草園雑誌社)。
1894明治27年、日清戦争。横浜恤兵会専務委員。
嘉兵衛は製茶業改良のため千葉・埼玉・茨城・八王子地方を遊説、改良談を試みる。『茨城・千葉両県茶業改良談話筆記』和仁幸之進(三重県士族)発行。
1895明治28年、日本製茶株式会社社長。横浜商業会議所常務委員。
1896明治29年9月、台湾貿易会社社長。台湾鉄道会社創立委員。東京火災保険会社取締役。
1897明治30年、台湾銀行創立委員。『台清紀行』大谷嘉兵衛著 。
1898明治31年、横浜市水道事業のため貴衆両院に陳情。
1899明治32年10月、万国商業大会に横浜・東京商業会議所代表として出席。カナダ、ヨーロッパを歴遊、翌33年2月帰国(『欧米漫遊日誌』)。
1900明治33年、56歳。生糸貿易業を始める。神奈川県会議員。
日本勧業銀行監査役。台湾協会学校創立委員。湘南汽船・横浜汽船・横浜電線製造会社・グランドホテル・相模水力電気などの取締役を務める。
1901明治34年、日本赤十字社監事。東亜同文会評議委員。
1902明治35年、湖南汽船会社取締役。
1903明治36年、横浜市参事会員に選ばれ横浜市水道局長に推される。
1904明治37年、日露戦争。
1905明治38年、横浜輸出協会(横浜貿易協会)会頭。工業所有権保護協会評議員兼監事。横浜港改良期成会専務委員。
1907明治40年、貴族院議員。横浜市設備調査会第四部長。
「海外商工事務官設置建議案」を提出し議会で可決され、明治43年設置される。
1908明治41年、東洋拓殖会社設立委員。
1909明治42年、産業組合中央会会頭。韓国銀行設立委員。
1910明治43年5月、渡清実業団員として中国各地視察。台湾製茶株式会社相談役。
1911明治44年、恩賜財団済生会評議員。帝国発明協会理事。
1913大正2年、在郷軍人会横浜連合会顧問。
1918大正7年、貴族院議員。神奈川県救済協会副会長。
1920大正9年、財団法人報效会監事。日米関係委員会委員。
1923大正12年9月1日、関東大震災。横浜市復興会顧問。
1924大正13年、借地借家調停委員。
1927昭和2年、横浜修道会理事。フェリス和英女学校復興会顧問。
1933昭和8年2月4日、死去。享年89。
嘉兵衛は種々の事業に関係し、いずれも相当の成績を挙げたにも拘わらず、物質的に大きな成功を収めなかったのは、儲けてはこれを散じ、富を私することを敢えてしなかったからである。嘉兵衛の商業上の方針は、衆と利を共にする、共存共栄を唯一の目的としていたからである。
貿易上についても「万国共利」を終始一貫を主張していた。営利事業で得た利益は公共事業、慈善事業をはじめ有益な方面にこれを投じた。成功を私せずして衆とこれをともにしたのである。
<大谷嘉兵衛「修養世渡り警句」>
私は総て起るの二字に満身を掛く:七転び八起き・他人に怪我をさせるな・後悔先に立たず・損失は商売の常道なり。
義務的観念を重んぜよ:生るれば義務を負ふ・信用は斯う利益あり。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 /『大日本人物名鑑』1921ルーブル社出版部 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『大谷嘉兵衛翁伝』1931大谷嘉兵衛翁頌徳会 /『修養世渡り警句』大畑匡山編1915岡村書店 / 『横浜人物一口評』日比米太郎((一可)編1894著述館
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