海老茶式部と自転車、明治の女子教育
卒業して就職、洋裁や生け花を習ったり、やがて結婚、そういう風潮があった。自分は為たいこと、成りたいものもなかったので見合いして結婚した。
友人は銀行の仕事に生き甲斐を感じて働いていた。ところが、25歳で「肩たたき」、でも屈せず働き続けた。女子は職場の花、女子の昇給は・・・・・それに負けなかった彼女、ほんとうに偉い。当時も感心したが、今はもっとだ。
それから半世紀、やっぱり男女差別はある。先だっては、女性蔑視発言で泣く泣く?表舞台から降りた人がいた。長らく男性優位の日本、自分が言ったことに自覚があるようには見えない。また、機会均等でないから表舞台にたつ女子が少ない。女子議員の数は世界最低とか。自分はその任でなく口ばかりで申し訳ないが、能力ある女子が活躍できるよう社会が改善されるよう願っている。
明治の女子教育をかえりみると、150年前からほんの少ししか前進していないように見える。その経過をみてみた。
1870明治3年、私立学校を中心に女学校が増加し、特にキリスト教主義の学校は男子にくらべて制度化が遅れていた女子教育の分野に進出する。
東京に私立・A六番学校開設。
横浜に私立・フェリス女学校
1872明治5年8月、「学制」によって、男女の区別を行わない教育の制度が示され(女児就学を除く)、中学校には少数ながら女子生徒が在籍するなど、一部で男女共学が行われた。
「学制期」は開化・男女同権の機運が盛んで、男袴をつけた「女書生」スタイルが流行した。
東京女学校
開拓使仮学校女学校
新栄学校女紅場(京都、のち英女学校)
1875明治8年、女子師範学校が設立。
11月、官(国)立・東京女子師範学校(のちお茶の水女子大学)を設立。
5月、石川県、初の公立女子師範学校を設立。
女子師範学校は学資が支給されるから、高等女学校進学が困難な階層から生徒を集めた。また、「女高師=謹厳実直で品行方正」のイメージがあった。
1879明治12年、教育令「男女教場を同じくすることを得ず」。
男女別学、性別をとり、男子教育の充実が優先課題、女子教育は二の次であった。
1882明治15年、文部省は女子中等教育に注目し、徳育・情操教育・家事教育においた女子中等教育の教育方針を示す。
東京女子師範学校、付属高等女学校を開設。
1885明治18年、高等女学校数は全国で9校、中学校(男子)の生徒数の4%である。
森有礼文相時代(~22年)には国家主義的な立場から女子教育を重視し、欧化政策が進められた。それでキリスト教系の学校がさらに増加した。
欧化政策のもと洋服が一時期取り入れられたが、欧化政策終了とともに和服に戻された。
1890明治23年、東京師範学校、修学旅行を始める。最初は東京近県の学校幼稚園を参観し、毎年実行するようになった。のちに、上級生は伊勢・京阪・奈良地方に行くようになった。
1894明治27年、日清戦争。
女子高等師範学校規定制定。英語は随意科、博物・物理・科学は理科に統合。
1895明治28年、高等女学校規程を制定。高等女学校の内容に統一的規程を提示。
1899明治32年、高等女学校令。
府県は府県立の女学校を1校は設置することが義務づけられ、女子の「高等普通教育」を行い、「良妻賢母」を育成機関とされる。在学年限は3~5年(のち4~5年)。ただし、男子の中学校と比べ教育内容は低く抑えられ、大学進学は認められなかった。
8月、文部省「訓令十二号」:宗教教育や宗教儀式を行うことを禁じる。
これにより、キリスト教主義の女学校の多くは、高等女学校となることができず各種学校にとどまった。
<高等女学校生徒の一ヶ月の最低必要経費>
通学生・2円50銭、寄宿舎生・6円50戦前後。
生徒の出身階層、士族層・専門職・近代的なホワイトカラー・進歩的な考えをもった地主や商家が多かった。
当時、下田歌子が宮中の征服に範をとって考案したとされる女袴が女学生の間に広く着られるようになった。袴にブーツのいでたちから「海老茶式部」と呼ばれ、新聞や雑誌などに盛んに取り上げられた。華美と質素を兼ねたこのスタイルは、大学の卒業式の女子学生の服装として現在に受け継がれている。
新たな女性像の一つとして登場した女学生は、教養ある女性層を代表、時代風俗の象徴として注目を集め、憧れの対象、時に風刺の的ともなった。
小説や広告絵画のなかで美しく描かれる一方「海老茶式部」「堕落女学生」などと呼ばれ、風刺雑誌の格好の標的ともなった。
1900明治33年、三浦環、東京音楽学校へ入学。
環は、紫の袴をはいて自転車に乗って上野の森へ通う。自転車は高価で女子は乗らない時代だったから、在学中から評判になった。環がモデルとされる小説「魔風恋風」が、『読売新聞』に連載されると、♪魔風恋風そよそよと~~学生の間で流行った。
7月、津田梅子、女子英学塾(のち津田塾大学)設立。
梅子は、女性の英語教師という専門職を養成することで、女性の自立を図ろうとした。
1901明治34年1月~1925大正14年、『女学世界』創刊。350号刊行した。
女子に必要なる事柄を網羅し、賢母良妻たるに資することが刊行の目的。
女性雑誌が次つぎ創刊され、女学生は時代のヒロインとなる。新しい女性のありかたも問われ、中流以上の家庭で高等女学校の学歴が「嫁入りの条件」とする考えがでてくる。
1903明治36年、専門学校令。
旧学制下では、女子の大学入学や女子大の設置は認められていなかったため、進学希望の生徒は、専門学校令に基づいた専門学校や、各種学校の専攻科などへ進んだ。
代表的な専門学校に、日本女子大学校・東京女子医学専門学校・女子美術学校などがあった。
―――日本女子大学付属高等女学校、卒業式における演説<女学生諸君に望む>(大隈重信)。
日本の家庭は家本位なり・・・・・諸君の理想は英米の家庭および婦人にあるかも知らぬが、日本の現在では少し六ヶしい、殊に維新後30年間に、非常の進歩を致した英米の法律は、婦人に権利を與え、家の権利は減じて個人の権利が重くなった。去りながら日本では家が本位である。人間の上から父子が本位である。けれども英米には家という本位がない。即ち夫婦が本位となって夫婦ありて家庭がある・・・・・然るに日本には家といふ権利に、惰力的勢力が強く、いわゆる忠孝主義で、父子の関係に重きを措いて居る(『大隈伯演説座談』岩崎徂堂1909 大学館)。
1904明治37年、日露戦争。開戦に際し。教育上の注意につき訓令。
1911明治44年、実科高等女学校の制度。
「主として家政に関する科目」を教授。入学資格・修業年限は多様で、主として農村における高等女学校の普及になった。
明治40年代は、公立高等女学校の数が145校にふえた。しかし、明治期の女子教育は初期を除いて、男女別学体制のもと性別による制限が大きかった。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『東京人 no.130』1998東京都歴史文化財団/ 『日本教育史年表』1994三省堂
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