離島から甲子園初出場・大崎高校&長崎県のいろいろ
2011年3月11日、娘と待ち合わせ。駅に向かって歩いてると急にめまい、何か変。地震だ!すごい揺れに棒立ち、駅前広場はたちまち大混雑。ペデストリアンデッキを見上げると通行禁止。慌てて娘にメールするも通じない。不安に駆られうろうろ、でもじっとしていた方がいいかも・・・・・暫くすると人混みをかき分けこっちに来る娘が見えて、ホッ。
とるもとりあえず駐車場に行き娘の車で孫の小学校に向かった。校門近くに停めた車で母子が出て来るのを待ったが、学校も混乱しているらしくなかなか出てこない。その間、車は信じられないくらいの大揺れ、今にも横転しそう。ホントに怖かった。
信号が消えた道を娘はこわごわ運転、どうにか私の家に着くと、二人はそのまま家に泊まって行った。都心で働くお婿さんとは連絡がつかなかった。それから10年、孫は大学を卒業して4月から社会人。こうしてみると、10年は長い。
その長い10年、被災地は困難と向き合い、辛い体験をして今日まで耐えてきた。何も役にたてず申し訳ないが、被災された皆様が少しでも早く元の暮らしを取り戻せるように願っています。
2021年3月、東日本大地震原発事故の検証、復興状況関連の報道が連日報道されている。そうした中で、選抜高校野球の記事もある。
春はセンバツから! 被災地からの出場校にはきっと全国から応援が届く!私もその一人、頑張ってください。
被災地からの出場校のほかに、長崎県立大崎高校“離島から甲子園初出場”の見出しに目が行った。
長崎といえば歴史と観光、何度か行ったが名所しか覚えていない。ただ、原爆資料館で会った小学生団体はよく覚えている。生徒たちみんなが静かに、真剣に、見学しているに感心したからだ。
さて、大崎高校がある離島はどこかな?地図を見るも、島が多すぎて見つからない。それもその筈、長崎県は島の面積が約4割を占めるほど、おびただしい島があるのだ。長崎県の本を見ると、知らないことがいろいろあって興味津々、けやき流つまり行き当たりばったり長崎県を見てみた。
<島原大変、肥後迷惑>
1792寛政4年、雲仙岳が大爆発し、眉山の東半分がさけて有明海のなかに崩れ落ち、付近の農村や城下町の一部が埋没。同時に起こった大津波は、流失家屋5000余戸、死者1万5000人、島原の農村はこれ以後なかなか立ち直れなかった。
1990平成2年11月、雲仙岳の主峰普賢岳が噴火、島原地方に大きな災害をもたらした。現在はその活動も沈静化しているが、雲仙山系は今なお活動し続ける活火山である。
<長崎県立大崎高等学校>
1952昭和27年、佐世保工業高等学校・崎戸分校と長崎県立西彼杵高等学校・大島分校が統合して県立大崎高校になった。
生徒数が120人弱と少なく廃部寸前だったが、清水央彦監督が指導にあたり急成長、昨秋の九州大会で優勝したという。「私学優勢といわれる中、地域を含めて高い目標を掲げて努力を続ければ夢はかなうということを教えてくれました」という新聞の投稿者とともに大舞台での活躍をお祈りします。
<西海市大島町>
大崎高校がある大島町(面積12.46k㎡)は、呼子の瀬戸を間に西彼杵半島に面する大島・寺島および六つの無人島からなる。江戸時代には大村藩の放牧場があった。半農半漁の貧しい島だった。
1935昭和10年、炭鉱が開発され、栄えた。
1954昭和29年4月、高等学校の採鉱科を廃止。
1970昭和45年、閉山。
数年前、『明治の一郎・山東直砥』を書くため同じ長崎の*端島(軍艦島)近くの高島炭鉱跡を訪ねたが、大島周辺は、南西につらなる蠣ノ浦島・崎戸島などとともに西彼杵(にしそのぎ)炭田の一つをなし石炭とともに閉山するまで栄えていた。
端島炭鉱(軍艦島):1890明治23年、三菱所有となった炭鉱の島で製鉄用原料炭に適した良質な石炭を産出。もともとは瀬であったが、炭鉱開発とともに周りの岩礁や砂州を埋め立てて拡張された人口島。多くの鉄筋コンクリートの高層住宅の遠目が軍艦の艦橋のように見えたことから異名が発生した。
1974昭和49年、閉山後、大島造船所が誘致され炭鉱の町から造船の町へと転換。
町内全域での長崎大島トライアスロン大会が行われているようだが、7月の大会までにコロナ禍が終息しているといい。
大島町への交通アクセスは、長崎市中心部から車で約1時間30分、佐世保市中心部からは車で40分。島なのに「車で?」と思ったら橋が架かってる。本州と四国だって橋を渡って行ける現代、西彼杵半島北西端近くに横たわる大島なら当然ですね。
ちなみに、大島の“百合岳公園”に動く彫刻“星のなる木”があるという。何枚もの羽が風が吹くと風車のように回り、晴れた夜は月光をうけて美しく回る(「県政だより・ながさき情報通信」2008-12)。
<長崎で建造された大和型戦艦「武蔵」>
1914大正3年、第一次世界大戦勃発。
列強国は軍拡の一途をたどり日本も戦艦八隻と巡洋艦八隻の建造計画をしたが、戦後不況と国際情勢の変化で軍縮へ転換。日本海軍は軍縮条約の失効を見越して、新主力艦の建造を検討、一番艦を海軍の官営造船所である呉海軍工廠、二番艦を長崎造船所で建造することになった。
1936昭和11年、大和型戦艦の建造注文が内示される。
1937昭和12年、建造に関わる長崎造船所従業員は、海軍が派遣した造船監督官の前で機密保持を約束する宣誓書に署名・捺印。
1938昭和13年3月、長崎造船所において起工式。
海軍の指示により竣工は1942昭和17年12月とされていたが、再三の繰り上げが要望された。対米戦へと進んでいく戦局のためである。
1940昭和15年11月、「武蔵」と名付けられた戦艦の進水式。
進水式に際して長崎港の船舶出入りが禁止され、「武蔵」が向島岸壁に係留されるまでの間は交通を遮断、市民生活にも一時的に影響が及んだ。
1942昭和17年5月、「武蔵」は運転公試のために呉軍港に向けて長崎を出港。太平洋戦争開戦により敵機襲来を警戒し、伊予灘で運転公試。この出航後、「武蔵」は長崎に戻ることはなかった。
1944昭和19年10月、「武蔵」レイテ沖海戦に出撃。シブヤン海において数次に亘りアメリカ軍航空機の空襲、魚雷攻撃をうけて沈没。戦死者数1039名。
<佐世保市「西海国立公園」>
日本列島の最西端に位置する長崎県は国内有数の観光地。国立・国定・県立自然公園に象徴されるように、多くの半島と壱岐・対馬、五島列島をはじめとする約600の島々によって屈曲の多い海岸線を描き出している豊かな自然景観に恵まれている。
1886明治19年、一寒村の佐世保に第三海軍区海軍鎮守府が置かれ、急速に発展。
1889明治22年、佐世保海軍鎮守府が開帳。戦争のたびに港が拡張され、長崎県では長崎のつぎに人口の多い町になった。
1902明治35年、村から市になり、太平洋戦争まで軍港として栄える。
1945昭和20年8月、敗戦。
敗戦後、佐世保市は敗戦よる鎮守府解体で壊滅的打撃を受け、人口は半減、平和産業への転換をすすめる。前途多難であったが、造船業を主軸に、終戦間際の大空襲で焦土と化した中心街も、戦後の都市計画で面目を一新。
九十九島の佐世保から平戸にかけての大小170の島が存在する外洋生多島海の美しい景観は、標高364mの弓張岳からの眺望がよかった。しかし、終戦まで近づけなかった。
それは、満州・上海・日華とあいつぐ事変の勃発で戦時体制色が強まり、付近一帯は佐世保港の要塞区域となったからである。
終戦後、秘密のベールが取り除かれると佐世保港外の景勝はいち早く脚光を浴びた。
1955昭和30年、九十九島・平戸・五島を含めた西海国立公園が誕生。
2021.3.13土曜日、お昼の用意をする前にテレビをつけると、NHK「72時間密着!春・五島列島の港」を放送していた。島の人たちの温かさ、素敵な青い海、思わず見入ってしまった。2019年の再放送だが途中からでも見られてよかった。
<北松浦の島々>
長崎県の東端、松浦市の沖には、福島・鷹島・黒島・飛島・青島がある。地形が台上でよく耕作され、すべての島が人口過剰(1997平成9年)にある。
平戸島周辺には的地(あつち)島・度島・生月島などがある。もともとは松浦一揆が結成された所。
平戸は貿易港として外国船の入港が相次ぎ、イギリス・オランダの商館もおかれた。同時に、キリシタン宗もこの地方に流布し、寛永の禁止後も信仰を持ちこたえた。
平戸島中野は、日本へ最初にサツモイモがもたらされたところであり、イギリスの平戸商館長*コックスによって作られ、やがて全国に広がっていくのである。
コックス:1613慶長18年、東インド会社の貿易船で来日。朱印状を得て貿易拡大につとめたが、オランダとの競争に敗れ経営悪化、10年後、商館を閉鎖して日本を離れた。この間の彼の日誌は、日英貿易史の重要資料である(『外国人名辞典』1993三省堂)。
参考:『日本の離島』宮本常一1997未来社 /『長崎県の歴史』1998山川出版社 /『郷土史事典 長崎県』1980昌平社 / 『大学的 長崎ガイド』2018昭和堂 /『長崎県の山』2020山と渓谷社 /『日本図説大系 九州Ⅰ』1992朝倉書店 /『郷土資料辞典 長崎県』1998人文社
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長崎県人からコメントをいただきました。一部ご紹介。
* 2月に「ヒストリーハンターズ」の問題を解くために大島に行って、車窓から大崎高校を眺めてきました。横断幕があって、町全体が明るく感じました。
* 島原市内の小学生はジオパーク学習で、島原大変について、6年生が学んでいます。
* 平戸の先の生月島は、15年ほど前に4年間離島勤務で住んだところです。隠れキリシタンの史跡とか、祈りのイラショとか捕鯨の益富家とか、非常に弥勒的なところでした。
* 競り船大会という、櫓漕ぎ船の大会に出させてもらったこともあり、櫓を漕げるようになりました。
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