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2021年3月20日 (土)

角界の反逆児・革命児、髙砂浦五郎

 桜が開花すると、母校前の外堀の桜並木を歩きたくなる。けれどもコロナ禍、昨年に続き今年も諦めている。その母校HOSEIミュージアムから「開設記念特別展示」案内が届いた。
 <都市と大学――法政大学から東京を視る>2021.3.8(月)~4.3(金)
 法政大学・関西大学・明治大学、併載シンポジウム<都市と大学――三大学の源流>

 さて、外堀の桜もいいが隅田川(上流は荒川)の桜もうれしい。子どものころ、遠出の遊び場は隅田公園だった。懐かしさもあるのか墨田の桜はとてもきれいに見える。
 荒川は埼玉県秩父山地に発し東京湾にそそぐが、その最下流部が東京の下町に入ると隅田川になる。隅田川に架かる橋は上流から、白鬚・桜・言問・吾妻・駒形・厩・蔵前・両国・新大橋・清洲・永代ここで分流、西側に佃大橋・勝ち鬨、東に相生・晴海がかかる。
 このうち両国橋は、武蔵・下総の2国を結んで両国橋、両国の花火は江戸の昔から有名。JR総武本線・両国駅の真ん前に大相撲の国技館、後ろに江戸東京博物館がある。
 両国駅構内には何枚も優勝額が掲げられ、駅利用者を見守っている。そこに「千代の富士の優勝額」が加わったそう。両国駅は江戸博ボランティアをしていた数年間利用していたし、さっそく見に行きたかったがコロナ禍では仕方がない。
 部屋に飾ってある<千代の富士優勝額レプリカ>で我慢、そして『千代の富士一代』(石井代蔵1992文春文庫)を読むとしよう。この本には、相撲部屋・親方、ひいき筋まで種々の話が詰まっている。千代の富士ファンならずとも興味深いと思うが、どうか。 

 ところでこれを書いてる3月半ばは春場所さなかだが、しばらく前から相撲中継を見なくなった。贔屓力士が居ないせいもあるが、休場続きの横綱なんて・・・・・勝敗もさることながら、颯爽とか潔さのかけらもない。厳しそうに見える相撲界だが案外大雑把なのか、地位によって甘えが許されるのか。こんなことで相撲人気がしぼんだら、ファンでなくとも淋しい。
 ところで、栄枯盛衰世の習い。明治維新後の社会変化は力士の暮らしも変えた。その明治と大正の相撲界をみてみよう。

 1868明治元年10月13日、江戸城を皇居とし、東京城と改称。
   11月、めまぐるしい政情不安のなかで両国橋の袂、櫓太鼓を響かせ相撲興行が江戸の名残りそのままに十日間開催された。しかし、文明開化の世となり相撲全廃論を唱える欧化主義者がいた。
   5月、東幕下十一枚目の*高砂浦五郎は王政復古の時局をチャンスとみ、相撲会所(のちの相撲協会)の封建的な経営の弊害を取り除こうと考える。同志250余名の連判状を作って、相撲会所に提出。しかし顔役が仲裁に入り解決(この話はフィクションとも)。
   高砂浦五郎:本名、山崎伊之助(のち浦五郎)。下総の出身。力士としては平幕で終わったが、年寄高砂の初代として多くの弟子を育て、現代に続く高砂一門の基礎を築いた。

 1871明治4年、廃藩置県。全国の藩を廃し中央集権て府県に統一、薩長土肥の官僚が派遣され大名がいなくなった。
   大名の庇護にあった抱え力士は野に放り出され暮らしが成り立たず窮乏。しかし、相撲会所の連中は、ただ昔を懐かしむだけで新しい対応策を考えない。しかも、秘密の金銭をもって自身ばかりを肥やす無為無策の幹部に力士らは不満をだき、改革を迫る。 

 1872明治5年、11月場所、初めて女性が相撲見物を許される
   ただし、初日は別として二日目以後に限って婦女の見物を自由にしたのである。
   4月、これまで多かったお宮やお寺の女人禁制が多かったのを改め、全面的に女性の立ち入りを許すようになった。

 1873明治6年、現役力士の高砂は会所改革の考えを綾瀬川(大関)らに、「近年力士生活の窮乏はひどい。年に2回の勧進相撲や地方巡業に出ても、会所は力士に給料を渡さず、わずかに衣食をくれるだけだ。そのため力士をやめて無頼の仲間に入る者も少なくない。これに引き替え会所幹部は権威を笠にきて私腹を肥やしている・・・・・」など打ち明ける。
 力士の待遇改善などの改革を相撲会所に求めたが、11月場所の番付け、高砂一派の名はことごとく墨で塗りつぶされ高砂は除名される。

 1874明治7年、クーデターに失敗した高砂は愛知県令の許可を得て、名古屋を根拠に高砂改正相撲組を組織し東京会所に叛旗を翻して対抗。京阪力士をスカウトして、苦汁をなめながら地方巡業しつつ陣容を強化、2年後には百数十名にふくれあがった。
 1875明治8年、高砂は改正組を率いて上京、神田秋葉原で興行し東京相撲と対立。

 1878明治11年、警視庁から「相撲取締規則」が発布され、東京相撲が二組に分離して興行する許可を得られなかった。
   このとき、相撲好きの大警視(警視総監)川路利良が、高砂の進歩的な考えを理解していたので仲裁調停。脱退事件は解決、高砂は東京相撲に復帰。会所の組織改革と申し合わせ規約の制定などを主導し改革整備に大きな功績を残した。
   東京相撲の実権を握った高砂は、相撲会所を「東京大角觝協会」と改称、勝ち星による給金の増額、十両力士の関取待遇を番付上明確にするなど、相撲規則を細目にわたって制定。

 1884明治17年3月、芝の延遼館で天覧相撲。これをきっかけに、極端な欧化主義にたいして国粋主義が高まりから再び相撲人気となる。
 1889明治22年、「東京力士協会申合規則」が成立。相撲会所は消えて、「東京大相撲協会」が設立される。
 1893明治26年、高砂浦五郎、永世取締となる。
 1895明治28年、日清戦争勝利により、相撲界は急速度で復興の波に乗る。
   夏場所で高砂のとった傍若無人の言動は多くの力士をまきこむ騒動に発展―――東横綱*西ノ海と西前頭三枚目鳳凰が対戦、軍配は鳳凰にあがったが、西ノ海の師匠高砂は物言いがついた土俵へ上がり、「砂の上にかかとの跡があるが、この下を掘れば俵だ」といって、かかとの跡のある砂を払ってしまった。
   西ノ海:髙砂が除名された際、京都から東京に馳せ参じて髙砂改正組に加わり、やがて横綱になる。
       番付け面に横綱の名称が登記されるようになったのは、明治23年5月西ノ海に始まる

 1896明治29年1月、中村楼事件
   番付け。西方の鳳凰が東方の髙砂系に回され鳳凰は反発、33人の西方力士がこれに同調して協会に、不正な取り締まりの元では相撲を取れないと檄告書を提出。協会は「改革は春場所終了後、ただちに着手して実行する」と回答、両国中村楼で手打ち式が行われた。
 高砂の強烈な個性と指導力がときに専横に流れ、協会内部に軋轢を生じ高砂排斥の動きを引き起こしたのである。

 1897明治30年、協会規約が改正され、高砂は権力を失って隠居。
      相撲評論家・徒然坊(つれづれぼう・阪井久良木)の相撲和歌
   髙砂の浦の松風きこゆなり 君が千年の春のはじめに
   天の将さに大任を降さんとして 此人を力士の道に心つくさむ     

 1900明治33年4月4日、高砂浦五郎、死去。享年、63。
    初代高砂の死去に伴い、弟子で関脇まで昇った高見山宗五郎(本名、今関宗次郎)が二代目高砂浦五郎を襲名。
 1904明治37年、日露戦争。
 1909明治42年6月、3年の歳月をかけ両国回向院境内に相撲常設館「国技館」完成。
   東京駅を手がけた辰野金吾が設計、その外観から「大鉄傘」と呼ばれた。収容はこれまでの2千人前後から1万3千人も収容できるようになった。
 また、東西制優勝制度を設け、東西の陣営で幕内の勝点の多い方に優勝旗を授与した。
 この開館場所から、横綱を大関の上におく階級としてはじめて明文化した。これまで横綱は大関の称号として「横綱大関」であった。

 1917大正6年11月、国技館火事で全焼、大正9年再建。
 1923大正12年9月1日、関東大震災で国技館は外観以外を全焼。相撲協会は再建費の負債に苦しみ、力士もまた窮乏にあえいでいた。
 1925大正14年、大阪相撲協会も経営難にあえいでおりから東京との合併問題がおこり、話し合いの末、12月、大日本相撲協会発足。

   ちなみに、国技館は1945昭和20年の東京大空襲でも焼けた。戦後、連合国最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、改修の末に両国メモリアル・ホールと改称されることになった。接収は昭和27年解除されたが、蔵前国技館建設が始まっていたため昭和59年まで相撲は蔵前で行われた。
 現在の2代目国技館は、1985昭和60年1月場所から行われ現在に至る。

   参考: 『大相撲史入門』池田雅雄2020KADOKAWA /『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『相撲の歴史と民族』和歌森太郎著作集1982弘文堂  /『大相撲歴代名力士200人名鑑』2015ベースボールマガジン社

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  <荒磯親方 論文でも「綱」
 荒磯親方(元横綱・稀勢の里)が、早稲田大学院スポーツ科学研究科の修士課程1年制でまとめ上げた修士論文が最優秀論文として表彰された。「新しい相撲部屋経営の在り方」がテーマで、時代に即した力士の指導法などを多角的な視点から論じている・・・・・「社会の仕組みを学ぶことができて、視野が非常に広がった。今後の人生にも生きる」と語っている(2021.3.18 毎日新聞)。

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