法を守り、道理に従い、人民を治めた漢学者、林鶴梁
春は風、そよぐ若葉に誘われ外へ出たくなる。しかしコロナ禍、窓から眺めているしかない。お家時間を有効にしたいが、明るすぎる窓辺は読書に向かないは言い訳、いつしか活字中毒が消えてあまり読まなくなった。
活字中毒中は手当たり次第、洋の東西を問わず何でも読んだ。その名残が本棚にギュー詰めの文学全集、ろくに読んでない『三木清全集』、黄ばんで栞の紐も切れた文庫本いろいろ、『赤毛のアン』全9巻もある。断捨離したいが捨てられない。
『中国古典文学大系』全巻を一度手放したが再度購入、60巻どーんと並んでいる。『史記』『三国志』有名物語はもちろん唐、宗・元・明の漢詩・通俗小説・戯曲・仏教・歴代の笑話まで幅広く、たま~に読み返す。
『清末明国初政治評論集』は、ヨーロッパ近代文明の波に洗われた旧い中国が、新しい中国が形成されていく時代の日本でも知られた学者の評論集。正直、少ししか読んでいないが、百数十年昔の日本と中国、学者・文人の交流、考え方を知る参考になりそう。
―――洪秀全・張之洞・康有為・梁啓超・譚嗣洞・孫文・胡適・陳独秀・魯迅・毛沢東ほか。
ところで、令和3年の日本、社会と学者・権力と学問のありようが問われている。難しいことは分からないが、異説や好まない説をただ排除するのはどうか。相手が間違っていると思うなら拠り所を確かめ議論すればいいのに、問答無用で追い払うのは如何なものか。
幕末期、黒船来航に危機感を抱いた有志、学者は上を畏れず意見を述べた。林鶴梁という漢学者もその一人であるが、考え方や経歴はかなり興味深く魅力がある。その生涯を見てみたい。
林 鶴梁 (はやし かくりょう)
1806文化3年8月13日、上野国群馬郡萩原村(群馬県高崎市)で生まれる。
父・佐十郎はお箪笥同心。名は、長孺。通称は鉄蔵・伊太郎。
鶴梁は豪傑、物議を起こし人を驚かせる乱暴者で、放蕩無頼の生活を送っていたが、鶴梁の文才に注目した藤田東湖に推され、心を入れ替え学問を志し昇進の道を得る。
1830天保元年、古文を長野豊山に学ぶと共に、経書を*松崎慊堂について学び、文名を上げる。
松崎慊堂:儒学者。肥後国益城郡の出身。晩年、蛮社の獄では門人・渡辺崋山の赦免運動に尽力した。門人に安井息軒らがいる。
1845弘化2年、甲府勤番の子弟の学問所である徽典館の学頭、教官となる。
甲府では私財をだして貧しい学生を援助する。
1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー軍艦4隻を率いて浦賀来港。
この年、鶴梁は遠江中泉(静岡県磐田市)の代官に昇進。
鶴梁は任に当たり民財を費やさず、訴訟があれば無実の罪がないように耳を傾け、請願を断り賄賂を禁じた。そこで当地の人びとは「参州遠州は福星を得たり」と。
また、三河・遠江の詳細で正確な地図を作成し幕府の信を得る。
1854嘉永7年/安政元年11月4日、駿河・遠江・伊豆・相模に大地震・津波。
倒壊流出8300戸、死者1万人余。続いて伊勢湾から九州東部にかけて大地震。
鶴梁は官庫の米を被災者に供出する善政を行っただけでなく、私財130金を出して麦や稗を買い、永続して窮民を救済する「恵済倉」に蓄えた。さらに、富豪をつのって足らない分を補ったので、人びとは喜んだ。
さらに、*社倉に基づき「称貸収息立本」の法を設けたが、成立しないうちに転勤になってしまった。
社倉:備荒、貯蓄のための倉。領主の奨励金米あるいは農民が持ち高を出し合い飢饉などに備える。会津藩主・保科正之が始めたともいわれる。
1858安政5年、出羽幸生(さちう)(山形県寒河江市)の銅山奉行に任ぜられ、銅鉱採掘に実際的手腕を発揮。
幸生の銅坑は30ほどあったが、殆ど銅がでなかった。そこで、鶴梁は従者十数人と、おのおの灯りを手に坑内に入って銅のある場所を捜索した。
―――工に命じて布大小百数を裁ち、各々大直利の三字を染め成し、大なる者は赤布白文幟を山に立て、小なる者は白布青文手巾を製し額を抹し、酒を載せ肉を盛り、役夫を鼓舞し以て坑内に赴かしむ、旬日果たして銅三千斤を得、・・・・・大いに喜んで曰く官の賜なりと・・・・・ 幕政孺を以て吏務に任ずるもの、岡本花亭、*羽倉簡堂など数名に過ぎず、鶴梁これと誉れを均しくす・・・・・(『近世百傑伝・続』)。
羽倉簡堂:幕政家・儒学者。蛮社の獄を危うく逃れ、老中水野忠邦に用いられた。「海防秘策」を阿部正弘に上陳、藤田東湖らと時務を論じるなど見識・手腕に富む。
1859安政6年、江戸に戻ると、外圧に対し藤森天山と共に鎖国論を唱えて水戸藩主・徳川斉昭に兵権をゆだねる謀議を企て、世に容れられず失敗。
詩文に隠れて政治の表舞台から遠ざかり、屋敷に梅の木を百余本植え、花香月影の間に優游の日々を過ごす。
鶴梁の心にはただ徳川氏あるのみ。羽倉家の養子となった次男が戊辰の戦で戦死、骨を原野にさらし以て徳川氏に答えている。
1863文久3年、学問所世話頭取心得。
1864元治元年7月、佐久間象山暗殺される。
佐久間象山:思想家・兵学者。1854安政元年、吉田松陰の事件に連座し江戸小伝馬町の牢に入り、松代に蟄居。1862文久2年、蟄居赦免となり長州・土佐藩の招聘を受ける。1864元治元年、幕命により上洛。京都三条木屋町で暗殺され、知行・屋敷地とも召し上げられる。
―――<鶴梁、象山の良死を得ざるを予言す>
ある人、鶴梁に問うて曰く、象山死すべきか、鶴梁の曰くこれ詩禍のみ憂ふるに足らず、その京都に上るや、天下の人皆な之を栄とす、鶴梁独り嘆じて曰く、象山果たして良死する能わずと、既にしてその言の如し、人其の知言に服す(『近世偉人百話[正編]』)。
1868明治元年9月8日、明治と改元。
鶴梁は能吏で文名もあったが、維新後も幕臣であることを貫きとおし新政府に仕えなかった。そして、麻布谷町の屋敷、梅花深処で門生をとって教えた。
1878明治11年1月16日、自邸、梅花深処で死去。享年73。
後年(1922大正11年7月)、東京府・名所史跡保存会から赤坂区霊南坂町10番地、澄泉寺に一札、「史蹟、林鶴梁墓所、甲府に仕ヘテ、吏務ヲ兼ネタル名誉ノ儒者ナリ、東京府」が建てられる。
―――桜所子曰、鶴梁碩孺にして*循吏なり、勤皇の志ありて、而して徳川氏に忠、その心情亦悲しむべきものあり(『続・近世百傑伝』)。
循吏:法を守り道理に従って人民を治める役人。
鶴梁はその卓越した学問と見識によって、水戸藩主・徳川斉昭、信州松代藩主・真田幸貫、福井藩主・松平慶永、佐賀藩主・鍋島直正など幕末の名君と親交があった。
鶴梁には2男3女あり。次男・鋼三郎は羽倉簡堂の養子となり、戊辰戦争の際に上野須賀川(福島県)にて戦死。長男・国太郎は既に亡く、孫の圭次が後を継ぐ。
<林鶴梁の著述>
『鶴梁文鈔』正篇10巻・続篇2巻。とくに正篇巻末の「麻渓紀勝」は、麻布近辺の折々の風物を印象的に描いた名文として知られる。この漢文で著した「靏梁文鈔」は夏目漱石、三田村鳶魚など明治時代のインテリ青年の愛読書として知られる。
『林鶴梁日記』6巻が刊行されているが、漢文なので筆者にはとても歯が立たない。それはさておき、38歳から56歳まで19年間の日記は、当時の世相が解る書物として高い評価を受けている。
参考: 『近世偉人百話・正編』中川克一 編1909~1912至誠堂 / 『近世百傑伝.続』干河岸貫一1901博文館 / 『墓碑史蹟研究』磯ケ谷紫江1924墓碑史蹟研究発行所 / ウィキペディア
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