「北京籠城」柴五郎中佐、義勇隊員・中村秀次郎
“入学式は桜”が、いつしか“卒業式に桜”。いずれにしろコロナ禍、桜は名所よりご近所で。筆者も上野公園・谷中墓地を諦めテレビ中継の桜で我慢、桜吹雪は近所で吹かれる。
ところで、九州福岡県八女(やめ)市の桜はもう青葉でしょう。八女公園を訪れた柴五郎ファンから届いた見学記、昔のアメリカ映画「北京の55日」を思いだした。
伊丹十三が柴五郎を演じていたが、未だ柴五郎を知らず、その活躍ぶりも割愛されていたから、欧米人ばかりの映画に日本人が登場しているのが理解できなかった。なお、柴五郎の活躍を知ってから改めてDVDで「北京の55日」をみたら、正直がっかり、残念。
ちなみに、八女市は福岡県南西部の商業都市。中心地の福島は城下町・市場町として発達、農産物集散のほか、仏壇・ちょうちん・かさ・和紙・竹製品・久留米がすり・製茶など農村農村副業的工業が活発。なお、日々の暮らしは良くも悪くも変化している。産物も八女茶のように今なお盛んなのもあれば、作られなくなったものもあるだろう。
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<八女公園の奉公碑を見学して>
令和3年3月27日。桜もほぼ満開と言って良さそうな、3月27日(土)、福岡県八女市にある八女公園に行ってきました。目的は「柴五郎さんの足跡に触れるため」です。
この八女公園には5mはありそうな石碑が南側(八女市立図書館側)にそびえ立っています。石碑の最上段には横書き太字で「奉公碑」と書かれ、全面には漢字がびっしり。その漢字びっしりの碑文は柴五郎さんのものなのです。文末には、正三位勲一等男爵西徳次郎題、陸軍砲兵中佐正六位勲三等功三級柴五郎撰、八女郡教育会員川口廣人書とありました。西徳次郎は義和団の乱(北清事変)の時の駐清公使です。
さて、この「奉公碑」は一体何なのか?碑文を凝視し、何とかわかる部分をつないでまとめると・・・それは1900年に起こった義和団の乱(北清事変)において戦死した、八女出身の中村秀次郎という人の顕彰碑でした(明治35年4月建立)。詳しい内容は読めずわからずでしたが、激戦の中、中村秀次郎さんが「黒着物に白袴」で奮戦されたことを讃える内容のようでした。500字以上刻まれた、柴五郎さんの文を前にして、読めるようになりたい、と強く思いました。八女市立図書館で、もしかしたら何か情報が得られるかもしれません。
柴五郎さんを知ってからここ数年、その足跡を追っかけています。今回、八女公園の奉公碑の前に立ち、柴さんもこの碑の前に立たれたのではないだろうかと、思いを馳せながら手を合わせました。お世話になった方々のご恩やご家族への感謝、日本国のために共に戦って亡くなられた方々の慰霊の思いをずっと忘れず、もち続けておられた柴五郎さんを私はこれからも追いかけていきます。
福田 道子
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“けやきのブログ”を始めたきっかけは、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』である。第1回2009.7.1<本・ほん・ご本>から今年で12年、記事数650。最初のころは柴五郎をよく書いていたので、興味がある方はバックナンバーからお願いします。
2012.1.29 柴五郎報告にみる資本主義列強なかまいり日本
2011.10.7『北京籠城日記・回顧録』服部宇之吉
20210.12.9 義和団事変における柴五郎の活躍
2010.12.12 清廉潔白の人
2009.10.21『ある明治人の記録』柴五郎、義和団事変・北京籠城
2011年東日本大震災原発事故。
気持ちだけでも応援したく福島・宮城・岩手を中心に書いていた。その間、取り上げた人物、また災害から立ち上がる東北の姿にこちらが励まされ、学ぶことが多かった。
ちなみに、『北京籠城回顧録』の著者、服部宇之吉は福島県(二本松藩)出身。帝国大学卒業の文学博士。明治~昭和期の東洋哲学者。清国北京留学中、籠城になり、籠城が解かれた後ドイツへ留学。帰国後、東大教授。また清国政府の招聘で北京大学で教え中国教員を養成した。ハーバード大学その他で教授を歴任。
<北京籠城とその前後>
1894明治27年8月、日清戦争。
1895明治28年4月、下関条約調印。
4月23日ドイツ・ロシア・フランス三国干渉。日本に遼東半島の清国返還を勧告。
1898明治31年3月、ドイツ、清国杭州湾租借。ロシア、旅順・大連租借。
4月、米西キューバ戦争。柴五郎は観戦武官としてカリブ海へ。
7月、イギリス、威海衛租借。
9月、西太后のクーデタ(戊戌の政変)。
1899明治32年3月、清国・山東で義和団蜂起。
義和団はもともと一種の方術、拳法による結社で、排撃の目標は、まず自国民のキリスト教徒に向けられた。教民と一般民衆との間に関する紛争でも教民は優位にたち、宣教師も争い事にくちばしを入れた。面倒をひきこして政府から譴責されることをおそれる地方官は、諸事、教民に有利な計らいをし、一般民衆の不満がくすぶりはじめた。
義和団はしだいに実力をふるって不満を代弁するようになる。「西教排斥」のスローガンは、やがて「扶清滅洋」へと高揚していった。ヨーロッパ列強による横暴は目に余る腹立たしいものになって、西太后の宮廷政府は「扶清滅洋」運動にひそかに共感し、「暴行」を取り締まる熱意にかけるようになった。
1900明治33年2月15日、田中正造、足尾鉱毒被災民弾圧につき衆議院で質問。
5月1日、南京同文書院、授業開始(翌年、上海に移し東亜同文書院と改称)。
*北京の各国公使館は北京内城の東南部、公民巷と呼ばれる一画にかたまり、治外法権を享受していた。
5月31日、北京に義和団から逃れた大勢のキリスト教徒が公民巷に逃げ込んできた。
情勢不穏のため各国軍艦から護衛兵が北京に入る。日本・イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリア・イタリア・アメリカ8カ国の護衛兵は約430人ほどで、数が足りないので各国とも義勇兵を募る。
6月はじめ。義和団は北京の周囲のキリスト教会、新教・旧教を問わず焼き、鉄道を破壊。そのため北京-天津間の交通が途絶え、援軍が北京に入れなくなった。そこで、わずかな兵と各国公使館員、避難民が籠城することになり、それぞれ持ち場を決めて守ることになった。
日本人の義勇隊は31人、このほかに西公使、大尉2人、軍医に外国人義勇隊を会わせて150人ほどで日本公使館区域を守備することになった。
義勇隊員は服部宇之吉・西郡宗三郎ら学者、写真師、理髪師、植木師、時事新報・東京日日の記者、「奉公碑」の中村秀次郎(福岡県士族)らであった。・・・・・義勇兵に武器はなく、鄭通訳官が猟銃、予(服部)が拳銃、そのほか短刀、日本刀が2、武器を手にしたのは10人ばかりその他は徒手なり・・・・・(服部宇之吉)
6月11日、北京の日本公使館書記生・杉山彬、清国兵に殺害される。
6月15日、閣議、義和団制圧のため派兵決定。
6月20日、義和団、北京の公使館区域攻撃開始。
6月21日、清朝、列国に対して宣戦布告。
日本の婦女を英国公使館へ移す。義勇兵中村秀次郎、小島正一郎へ銃を支給し、陸戦隊と同様の勤務を命じる。
6月22日、清国官兵の銃撃が烈しく、各国兵が英国公使館に退却し、各国公使と協議したが、各自の公使館へ戻る。
6月25日、以下、柴五郎砲兵中佐談。
―――アメリカの(守備する)城壁上の塁壁は、前門よりはげしき攻撃を受け、はなはだ危かりしをもって、ドイツ・イギリス兵駆けつけて応援し、ようやく支持いたし・・・・・(中略)・・・・・東阿司方面の戦いもなかなか盛んにて、わが義勇兵中村秀次郎氏は、フランス公使館の北裏門の哨所にて戦死いたしました。この人が日本人中第一の戦死者でありました。このほかわが方面にて日本人4名負傷し、オーストリア兵1名戦死・・・・・
わが王府東北面の牆(かべ)に穿ちし銃眼の外面に、敵兵は昨夜中に胸壁を築き、もってわが銃眼を無効に帰せしめんと謀りたるゆえ、この日黄昏、守田大尉はわが兵数名を率いて、王府の西面より突出してこれを破壊せり、この日、王府東面の銃眼を守れる中村秀次郎君、敵丸にあたりて即死す。君は日清貿易研究の大志を抱きて、北京にきたり、筑紫辨館にあり館主帰国中、独力館務を処理してすこぶる手腕を示せり。かつ、すこぶる胆力あり、錬磨を経なば有為の人物となり得べかりしに、一朝不帰の客となりしは惜しみてもあまりあることなり。
7月、<籠城さなか、同胞の働きぶり>(服部宇之吉)
―――わが義勇隊の武装は貧弱なり、しかしてわが守備区域はただに延長の大なるのみならず、敵の攻撃もっとも猛烈なり。これは事実にして籠城者は何人も知るところなり。われらが少数にて難所を引き受け、しかも一致して常に快くその務めにあたりいたることは、深く外国人の心を動かし、ことにもっとも強く防禦司令官たる英国公使の心を動かしたりとみえたり・・・・・同公使は、中途より英国水兵を、また毎日義勇兵を2、3派してわが戦況を視察し、ロンドンタイムス北京通信員にして、公使以上の勢力ありと称せられたるドクトル・モリソン、またしばしばきたりてわが陣地を視察せるなど・・・・・われらは良心の命ずるところに従いて行動したるまでの事なりしが・・・・・その司令官らを会して籠城の経過を報告せる際、口をきわめて同胞がよく難局にあたりて・・・・・公使館の守りを全くせる功の半は同胞にありといわれし時には思わず涙くだれりと。ふたたび涙を揮いつつ、柴中佐は義勇隊解散の日われらに告げられたり。
知らず、後年の日英同盟は、遠くこの籠城に源を発せるにはあらざるなきか(『北京籠城回顧録』)。
7月6日、義勇隊31名の隊長、安藤陸軍大尉が重傷を負い、同夜死亡。
7月10日、今日、柴は病気だ。誰もが非常に心配して、彼のまわりに所狭しとつめかけた(モリソン日記)。
―――戦略上の最重要地である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった・・・・・日本を指揮した柴中佐は、籠城中のどの仕官よりも有能で経験もゆたかであったばかりか、だれからも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじて、それが変わった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の避難を浴びていないのは、日本人だけである(『北京籠城』ピーター・フレミング)。
7月16日、―――籠城中の不公平な責任分担のあり方かを指摘したいのだ。不公平の中ででも、日本人たちは全員四六時中前線につき、泣き言一ついわず、わが身にむち打って耐えていた(モリソン)。
8月14日、日本軍、各国連合軍と共に北京城内に侵入。
8月15日、日本の第五師団の各部隊が続々入城し、各国公使館の包囲がまったく解けた。日本の婦女が、英国公使館から日本公使館へ帰った。日本義勇隊、その任務が終わり解散を命ぜられた。
9月9日、清朝、義和団鎮圧令。
10月29日、加藤外相、清国の門戸開放・領土保全に関する英独協定に加入を通告。
1901明治34年1月、政府、北清事変費などのため増税案提出。
9月7日、清朝、独・露・米・英・仏・日など11カ国と北京議定書(辛丑条約)調印。
11月6日、イギリス外相、日英同盟条約草案を林公使に提示(翌35年1月、日英同盟協約ロンドンで調印)。
参考: 『北京籠城 他』柴五郎・服部宇之吉1988東洋文庫 / 『北京燃ゆ-義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子1989東洋経済新報社 / 『東洋戦争実記・北清戦史』明治342.28東京博文館 / 『増補 明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』中井けやき2018文芸社
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