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2021年5月 8日 (土)

"医は仁術"上は徳川将軍から庶民まで治療、浅田宗伯

  <黒船土産大コロリ
―――イヤ恐ろしいの怖いのと言ってあんなのも珍しかったです。今話していた仁が晩には斃れたという・・・・・もう焼き場へ持って行かれたという騒ぎなんです。実に義理も人情もなくなってしまって・・・・・まだ一人身だがトテモ神経がビクビクして今にも自分が伝染(やら)れそうですから、いっそこりゃア大阪でも高飛びした方がよかろうと、臑(すね)一本の身だけで出かけて行きました。汽車があるじゃアなし、東海道を品川大森川崎と往く、その路々だってアスコにもココにもなんです。

  <橋の水掃除
―――両国橋は棺が百個通ると掃除をした。水で清めて洗ったもの、ソレが日に幾度もなんで、棺なんざ間に合わないで・・・・・御屋敷方では御作事でドシドシ棺桶を拵えていたといういうんですが、どうしたら宜いか分かりませんで、しまいには「どうともなりゃアがれ」と酒も呑めば食べたい物も食べるようになりましたが、いつか漸々(だんだん)と滅(な)くなりました(『増補・幕末百話』篠田鉱藏1996岩波文庫)。

 激変期の日本社会、幕末から明治にかけてコレラの話が各地に伝わっている。情報過多も困るが、マスコミ未発達、人から人への心配ニュースは不安を倍増させただろう。
 コロナ禍にさらされてみると、当時の人々の焦りや心配がよそ事とは思えない。困ったときの神頼みならぬ頼りにしたいお医者様である。
 ところで、医者も人の子、いろいろである。自分を含め一般庶民は有名病院の高名な先生に治療を受け難い。それは医者のせいと言うより金の世の中、医療の仕組みもありそう。
 しかし、いつの時代にも身分や貧富で選別することなく治療する医師はいる。明治前期の大御所的漢方の名医、浅田飴の創立者・浅田宗伯もその一人である。

    浅田 宗伯

 1815文化12年5月22日、信濃国筑摩郡栗林村(長野県松本市)、漢方医・浅田済庵の長男に生まれる。名は直民、のち惟常。宗伯は通称。字は識此。号は栗園。

   ―――余は生まれつき健康ではあったが、ただ性質が愚鈍の方で、幼少の時は、孝経、論語、詩書の句読を父に教わり、また左氏文選を木澤天倪に学んだが、どうしてもその義を解すことが出来なかった。師匠もこれには閉口して、見下げていたようである・・・・・また友達と一緒になって、戦国策を読んだことがあるが、これもまた解しがたく・・・・・読書はこんな具合であったが、士気の方は、一般の児童とは多少変わっていた。閑さえあれば、古の英雄豪傑の伝記を読んでその人物を慕い、同じ気持ちになって、今に見ろと常に心の中に絶叫したものである。祖母もまた常に余の側に来られて、厳しく監督をしてくれた(『漢方医学余談』中山忠直1929中西書房)。
 ?年、江戸の高遠藩医・中村仲倧に入門、漢医方学を学ぶ。

 1832天保3年、京都に遊学、生活は困窮したものの中西深斎や吉益の門生とともに『傷寒論』を研究。
   ―――性格は豪傑をもって自認「身は医家に生きたるを以て医学を修めたれば、大医は天下を療し、その次は人を療すといえる志ありて・・・・・天下の病夫の疾患を救済せん」・・・・・文学の才ありしを以て、医を学ぶの傍ら経(儒学)を猪飼敬所に、史学を頼山陽に学ぶ・・・・・皇朝名医伝は山陽の奨励を得、20年を経て大成刊行するに至りたり(『浅田宗伯翁伝』赤沼金三郎1895寿盛堂)。

 ?年、地元や京都で*古医方を修め、一時帰郷して開業。
   古医方:日本の漢方医学は、17世紀後半に興った医学革新(古医方)により中国とは違った展開を見せ、今日に至る。
 1836天保7年、江戸に出て剃髪、宗伯と称し開業。
   しかし、患者が集まらず生活は困窮。やがて、幕府の医官、本康宗円と出会い諸家に紹介される。
 1839天保10年ころ、本康宗円多紀元堅ら江戸の有力な医師たちと親交を結び、また医業も進み広く知られるようになった。

 1855安政2年、幕府の御目見得医師となり医学館に出仕。『*医心方(いしんほう)復刻の校正に加わる。
   医心方:30巻。丹波康頼著。わが国現存最古の医書。   
 1857安政4年8月、幕府の依頼により、フランス公使*レオン・ロッシュの難病を治療。フランス皇帝から時計などを贈られ、医名は海外にまで届いた。
   レオン・ロッシュ:幕府を師事して積極的な対日政策を推進、イギリス公使パークスと対立。   
 1858安政5年、この当時、年間の患者数が約3千人に達した。医学と医術が二途に分かれていることを批判し、病理治療法合一を説き、また西洋医学を烈しく論駁して門人を増やした。

 1866慶応2年、将軍家茂が大阪で病を得たため大阪に赴く。家茂の脚気腫満を治療、奥医師に昇進。
   江戸に帰ると天璋院など大奥の侍医となり、法眼に叙せられた。天下の時事を論じ、和宮の命を受け国事に奔走。
   江戸漢方医界の大御所的な存在として多彩な学識と臨床手腕を発揮、密使の役も果たす。

 1868明治元年4月、江戸開城にあたり和宮と天璋院の命を奉じ、総督・有栖川宮に拝謁し、江戸城下の鎮静を願い出る

   ―――常に世を憂うる念にかられ、幕府末路の頃は執政の諸士と共に、時代の思潮を論じ、互いに腕を扼し卓を叩いたものである。殊に親交の深かったのは、厩橋公、川越侯、吉井侯、川路左衛門、水野筑後、小栗上野・・・・・この他に藤森天山、羽倉外記、林鶴梁・・・・・国家を憂うるの士とは、出家処士の別なく、親交を続けたのである(『漢方医学余談』中山忠直1929中西書房)
   維新後、東京牛込に一時隠居するも、深い学殖と実地医療の手腕が評価され、西洋医学導入後も朝廷に召され、尚薬・東宮(大正天皇)の侍医をつとめる。漢方医では最後の侍医。

 1871明治4年、牛込横寺町(新宿区横森町)浅田学塾を創立。薬価を問わず、「医は仁術」を旨とし治療と、後進を指導。
 1878明治11年、漢方医家を糾合、漢方医の結社「温知社」を組織。
   政府の医制改革に抗議、漢方存続運動を展開、漢方医界の復興に尽力する。

   ―――明治維新後、明治政府の西洋医学採用路線によって、公認の医学は西洋医学一辺倒となり、免許医師は西洋医学を修めたものに限られ、従来の漢方医は一代限りで廃絶の運命にみまわれたため、漢方は衰弱せざるを得なくなった。
 しかし、免許医師のあいだでの漢方研究の自由は認められていた。やがて、治療学として漢方の優位を論ずる在野の医師があらわれ・・・・・戦後は、近代医療に対する反省から、漢方医学の見直し論議が高まり、近年は西洋医学を補完する医学として世界的にも関心が高まり、新たにスポットがあてられている(『民間学事典』)。

 1879明治12年、明宮(大正天皇)の危篤を救う。
   「温知医談」を発行。
 1881明治14年、二代目温知社社主に就任。
   ―――人が痼疾で悩んでいるとさながら自身のことのように思われて、心を治を潜め考えを深くして、その治療に極力盡すことを欲し、日も夜も書物を手にして、今までに無い手当を知り、月々にその新しく知った手当を行った。これが余の志であった(『漢方医学余談』)。

 1882明治15年、温知社全国大会を湯島で開き、和漢医学講習所(温知学校)の建設議案を可決。
 1885明治18年、塾生は20名、患者数は一日、300名以上に及ぶ。
   晩年における患者の半数は施療患者であった。

 1894明治27年3月16日、この世に於ける最後の呼吸をし多彩な人生を閉じた。享年80。
   「皇国名医伝」「傷寒弁要」「脈法私言」「古呂利考」など80種200余巻に及ぶ膨大な著作を遺した。国会図書館デジタルコレクションで著述や伝記を閲覧できる。ただし、殆どが漢文で筆者には難しい。

   参考:『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『民間学事典 人名編/事項編』1997三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂

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2021.5.9 
  筆者も知りたかったロッシュの治療の経緯について、大変興味深いコメントをいただきました。どうぞ、記事と併せてお楽しみください。
 また、コメントとともに『明治の兄弟』についてもありがとうございます。
 
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コメント

幅広く渉猟されておられる貴女の記事毎週楽しみです。柴五郎の著書も購入しました。
レオン・ロッシの幕府への初の目通しは元治1年3月と維新史料綱要にあります。私の控えでは「ロッシュがアルジェリアの戦乱中、落馬して受けた背中から腰にかけての戦場の後遺症の疼痛は、日本の寒気と温度によってしばしば彼を悩ました。時折、熱海に静養したのはこのためである。栗本瀬兵衛はこれを見兼ねて漢法の大家浅田宗伯に懇望し、駕篭で横浜のフランス公使館に往診を乞うた。宗伯の診療、投薬で、これは著しく軽快になった。この時の処方は今でも残っている。栗本鋤雲(栗本鯤)とロッシュの親密さが伝わる話である。」とあります。ご確認くだされば有り難い。

投稿: 西蒲原有明 | 2021年5月 8日 (土) 21時21分

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