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2021年5月 1日 (土)

東京墨田、明治の向島

 新茶の季節。近所のお茶屋さんの本店は上野アメ横、店先で上野あれこれ話ができて愉しい。先日、「上野駅正面に都電がたくさん並んでた。乗車賃はたしか14円」と言ったら、若旦那は目をパチクリ。上野の住民でも都電が走っていたのを知らない。親たちの思い出話にさえ登場しないのだ。明治・大正どころか昭和も遠い。

 ちなみに、上野駅正面の線路が線路が並んでいた広い通りは現在、高速道路下になっている。
 図書館で「都電」を検索、愛好家が多いらしく昔と今の沿線風景・路線・車輌・歴史などたくさんあった。「都電がいる光景」たとえば有楽町の数寄屋橋、上野広小路を都電が行き交う写真など見つつ思い出に浸った。
 東京の都電は荒川線を残すのみ、しかし全国には元気に活躍中の路面電車がある。消えた都電を惜しみつつ懐かしむのみだが、今尾恵介著『路面電車未来型都市交通への提言』(ちくま新書)を読んで、懐かしむだけでいいのか考えさせられた。

 それはさておき、都電のある風景写真を見ていると、上野や家族で出かけた浅草、勤め先があった日本橋、銀座。会社のお使いでうろうろした渋谷駅周辺、方向音痴の私は世田谷に行く玉電に乗るのが大変だった。
 よく利用したのは、都電30番【須田町 ←→ 寺島二丁目】
 上野駅正面から乗った。仏壇通りの浅草田原町雷門浅草吾妻橋一丁目言問橋を過ぎて向島三丁目で降りる。通りの真ん中で降りたら車に注意、通りを突っ切って商店街を駆けだせば目的の伯母さん家。
 途中に鰻屋があって店先の樽を覗くと、鰻がたくさん上へ下へと動き回って気持ちが悪い。見なきゃいいのに、つい見てウァー。そのせいで、大人になっても蒲焼きが食べられない。
 夏休みなど長期休みはいつも向島へ泊まりに行っていた。宿題は家に置きっ放しで遊び放題、時には隅田川の向こうへ、浅草はもっと面白く楽しかった。ちなみに、実家の本籍は浅草、しかし道楽者が家をつぶしたそうで今は何もない。

 向島は自分にとって懐かしく楽しい場所。しかしそんなことより、向島は江戸の昔から文人墨客が訪れる地、向島を愛する著名人が多く住んだ。
 いずれも詩文を残し、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できるものもある。それらを読むと、東京スカイツリーが建つ以前の粋な向島が偲べるかもしれない。

   ―――向島といふのは、徳川将軍家が隅田川の御殿から関屋川を隔てて、向ふにある関屋の御殿を向ふの島と呼んだ所から・・・・・(『聴雨窓俳話』角田真平1912博文館)。

   ―――(向島終点)この辺は江戸の近郊である。明治通りを左に行ったところに百花園があり、隅田川に沿って、長命寺や水神様の隅田川神社などがある。昔は船遊びで、「ちょっと向島の水神まで」といった具合で、粋人の寮もあった(『続・都電百景百話』雪廼舎閑人1982大正出版)。

   ―――(向島百花園)春夏秋冬、都人士の足を絶たざるを向島百花園となす。中にも秋は此の園が生命とする所で、毎歳秋期には虫聴会などといふのが催ほされ、風流人士の杖を曳くものが少なくない(『昭和人事総覧』1929聯合人事調査通信社)。

   ―――春の向島は雑踏するから俗だなだといふ人があるが、桜は陽気な花田から、賑やかな処に趣味がある。お多福の面を被って花の下を行く人、三味線を弾きながら堤の下を通る人、いづれも桜の花と相対して面白味をもつて居る。寂しい処に寂しく咲いた桜の花は却って俗である(『小剣随筆 その日その日』上司小剣1905読売新聞社)。
   
   ―――木母寺。梅若丸の伝説で有名であり、その霊を祀る小堂が梅若堂と云つて所謂梅若塚の上にあり、堂前に多くの碑がたっている。榎本武揚子の銅像、発起人に渋澤栄一・大隈重信・大倉喜八郎などの名が見える。川柳翁碑震災追悼碑日露戦役従軍記念碑柳北成島先生碑芭蕉涅槃碑などなど、佐久間象山碑も見える(『大東京史蹟案内』一高史談会 1932育英書院)。

   ―――明治年間、向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者は少なくない。思出るがままにわたくしの知るものを挙れば、華族には榎本梁川(武揚)がある。学者には依田学海成島柳北がある。詩人には伊藤聴秋、瓜生梅村、関根痴堂がある。書家には西川春堂、篆刻家には浜村大澥、画家には小林永濯がある。俳諧師には基角堂永機、小説家には饗庭篁村幸田露伴、好事家には淡島観月がある。皆一時の名士である。
 然し、*明治43年8月初旬の*水害以後以後永く其の旧居に留まった幸田・淡島・基角堂の三家のみで、其の他は是より先、既に世を去ったものが多かった。
 堤上の桜も亦水害の後は時勢の変遷するに従い、近郊の開拓せらるるにつれて次第に枯死し、大正の初に至っては三園堤のあたりには僅かに二三の病樹を留むるばかり・・・・・(『荷風随筆』永井荷風1996中央公論社)。

   水害:1910明治43年8月8日東海・関東・東北地方一帯の豪雨、各地に大洪水。鉄道・通信不通、浸水44万3000戸。うち、東京府18万5000戸。

   ―――(東京向島の景色) 川の向こう堤は有名な隅田堤でありまして鳥居の先に僅かに見えますのは*三囲(みめぐり)稲荷の社で春の弥生はなかなかの賑わいであります。桜の花は八重が多くて余程見事であります。この堤(どて)は枕橋から千住大橋近くまでおよそ一里もありましょう。また三囲より隣りまして牛の御前の神社があり長命寺、木母寺、白鬚神社などありまして
・・・・・橋場の今戸、左手の高見にあります待乳山の聖天(しょうてん)から向島を見渡しますとどうも佳い景色であります。かの夕暮という謡、月の風情を待乳山と申すのはこのことであります(『少年必携学術幻灯会』篠田正作1891中村芳松)。

   ―――「向島の風色(ふうしょく」)三囲稲荷。向島の入り口なる小梅村の堤下にある小さな社で、(榎本/宝井)基角宗匠が、雨乞いに
   夕立や 田もみめぐりの 神ならば
と詠んで雨を降らせたというはこの稲荷である(『日本の名勝』正木貞二郎1918科外教育叢書刊行会)。

   ―――<向島>二業連合会支部・芸妓屋組合事務所
  (料理之部)(待合之部)(芸妓屋之部):屋号と人名は割愛(『料理待合芸妓屋三業名鑑』附・貸座敷、公周旋. 1923日本実業社)。

   ―――紐育(ニューヨーク)のハドソンのリバーサイド又ポートランドのハイウエ或いはゼネバーの夕河岸の月、いづれも好風景であるが、我が隅田川は彼等に比して劣る眺めと云はれまい
・・・・・和田氏は一生殆ど向島住居・・・・・然るに近年身分の向上は、社会の総問屋で我が家自ずと人の京(みやこ)で、居を中央に置くの必要からやむなく去年、麻布の大いなる邸宅に移ったのであったが、しかも小花の咲く向島の旧宅は如何に死にまで名残りであったろう。因みに、この旧宅は元、幕臣で明治の文豪・成島柳北の邸址であったとか(『*和田豊治氏と其の言行』矢野滄浪1924時事評論社)。
   和田豊治:明治大正期の実業家。豊前中津藩(大分県)儒学者の長男。武藤山治とともに渡米。紡績業界の巨頭といわれる。

   向島:東京都。東武伊勢崎線向島・曳舟駅。隅田川の東で墨東地域ともいう。

 

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