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2021年5月22日 (土)

幕臣の明治はジャーナリスト、栗本鋤雲

 先日、浅田宗伯の記事に「フランス公使レオンと栗本鋤雲」に関するコメントが届き有難かった。投稿者のお名前を掲載したかったが、連絡できずコメント本文のみ掲載。
 さて、栗本鋤雲、幕末の優れた人物と聞くが明治期のイメージが浮かばない。しかし、時代が変わって埋もれてしまうような人物ではない筈と調べてびっくり、素敵な日本人がいた。幕臣として日本のために力を尽くし、学も文才も備えた人物、それが栗本鋤雲である。
 ちなみに、鋤雲の著述は国会図書館デジタルコレクション、『明治文学全集』などで読むことができる。

     栗本 鋤雲    (くりもと じょうん)

 1822文政5年3月、幕府医官・喜多村槐園の三男として江戸神田猿楽町で生まれる。
   本名・喜多村哲三。名は鯤(こん)。通称・瑞見、瑞軒。別号は匏庵(ほうあん)
 1830天保元年、喀血を患ったため、父も兄もしいて就学をすすめなかった。
 1838天保9年、健康になり*安積艮斎の塾に入り儒学を修める。
  けやきのブログⅡ2015.1.31妻にふられたお陰で昌平黌教授、安積艮斎(福島県)>
 1840天保11年、昌平黌に入り、佐藤一斎について『易経』『論語』まどを学ぶ。  
 1843天保14年、昌平黌の登用試験、最優秀の成績(甲科)で合格、白銀15錠を得た。

 1845弘化2年、下谷六軒町立花家門前に住む。実家の援助もあったが貧しかった。
 1846弘化3年5月~7月、富士山に登頂。甲府を経て帰り『登嶽日記』を書く。
   ―――江戸より甲斐に赴き。富士金峰諸山の登攀したつ記にして詳細なる紀行は一端回禄(火事)の災に罹りたるを、後日追記したる由なり(『紀行文集・続』1909博文館)。

 1848嘉永元年、幕府奥詰医・栗本瑞見の養子となり、六世瑞見を名乗る。栗本家は代々、製薬本草を以て名がある。
   江戸城二の丸製薬局に勤務、本草学を研鑽。
 1850嘉永3年、幕府内班侍医となる。製薬局務を担当した。

 1858安政5年、オランダから蒸気船・観光丸(スンビン号)献上。試乗員に応募、選考を通過したが、御匙法印(医官長)に「洋医の禁」を犯したと弾劾され、蟄居。蝦夷地に左遷となる。
    夏、箱館に渡り在住諸士の取締となる。
 1859安政6年、病院建設を計画。翌冬、落成式をあげる。箱館滞在中の業績として、七重村薬園開業久根川運河の開鑿養蚕振興などがある。
   11月、箱館に渡来したフランス人宣教師メルメ・デ・カションと親交を結び、日本語を教授しつつフランス語、西洋知識を学ぶ。
 1861文久元年、カションとの一問一答を纏めた『鉛筆記聞』を纏める。
 1862文久2年、医籍を改め士籍に列し、箱館奉行支配組頭に任ぜられる。
    7月、カラフト巡察に出発、北上して北緯48度に近い多来湖、ついで久春古丹部落で越冬する。幕臣でカラフト越冬の嚆矢である。
   ―――12月、北門防備ゆるがせにすべからざるを知り、孤剣短履、箱館を発してタライカ湖に至る。積雪の高さ屋上に達し寒気凛烈言語に絶す、鋤雲狗車の上に在り、御者アイヌに言って曰く「四肢将に亀裂せんとす。如何にして、暖をとるべき」と、アイヌ笑ふて曰く、「此の寒に耐ゆる能はずんば、安んぞ前程を踏査するを得ん。如かず是より帰途につかんには」と、鋤雲また寒を説かず、遂に露境に達す(『名流百話』渡辺斬鬼1909文錦堂)。

 1863文久3年4月、クナシリ島ついでエトロフ島に達し、巡検を終て野付岬に帰着。
    9月、箱館に帰る。「唐太小詩」「久那志利恵土呂布二島紀行」をつくる。
   10月、江戸に召還、昌平黌頭取を命ぜられ、上士に進み、七百石賜る。
 1864元治元年、目付に就任し幕政に参画。
    5月―――松平縫殿頭から栗本に「大小砲銃鋳造の義は、掛かり役役人員のみ多く、却って無益の手数、捗り申さず、その方義取り扱い候よう・・・・・彼は早速意見を上陳し。諸種の改革案を進言したのである(陸海軍建設と鋤雲)。
    7月、竹本淡路守とともに*横浜鎖港談判の委員を命ぜられる。
   横浜鎖港問題:攘夷派に押された幕府が提案したが、新興の横浜商人・外国側が反発。攘夷派の脅迫で生糸貿易が不振となり、事実上「鎖港」状態。  
   12月、勘定奉行・*小栗上野介らとともにフランス駐日公使レオン・ロッシュと同行、横須賀湾を調査、製鉄所建設用地を選定。
     小栗上野介:忠順。勘定奉行としてフランスの援助による財政、軍政改革などに取り組む。新政府軍には強硬な主戦論を展開し、のち上州で新政府軍に捕らえられ殺される。

 1865慶応元年、3月、ロッシュと協議、横浜フランス語伝習所を開校
   11月、外国奉行に任ぜられ、兵庫開港取消しを横浜在住の四国公使に通告。
 1866慶応2年8月、鋤雲、*下関事件賠償金支払い問題で渡仏、下関償還金支払い延期談判など難問にあたる。
   下関賠償問題:長州藩の下関外国船砲撃の責任をとり、幕府が英・仏・米・蘭に償金300万ドルの支払いを約した事件。幕府崩壊後、残金を新政府が支払った。

 1867慶応3年4月~11月、パリ万国博覧会。日本は、幕府・薩摩藩・鍋島藩がそれぞれ日本国を名乗って参加。
   また将軍慶喜の弟・徳川昭武がパリに留学していた。随行の渋澤栄一が、各国の近代的産業設備や経済制度を見聞、このとき得た知識が後年の活躍に役立ったのがよく知られる。鋤雲は渡仏中の昭武の保傅(教育掛)を兼ねた。
    6月、勘定奉行格に進み箱館奉行を兼任。蝦夷地の開発権を担保にフランス政府から借款導入の交渉のため、再度パリに派遣される。
    8月、パリ到着。パリ駐在公使・向山黄村とともに交渉したが不調に終わる。

 1868慶応4年/明治元年1月2日、太平奉還の報知がパリに達し、3月末帰国と決定。渋澤とともに会計その他事後処理につとめる。
    4月、倒幕軍江戸入城。慶喜、水戸へ退去。
     中旬、パリを離れ5月17日、横浜に帰港。鋤雲は家禄を返上して小石川に帰農。
   ―――幕府の末世に当たり・・・・・(鋤雲)先生が如き実に徳川氏の文天祥を以て自ら居る・・・・・ただ先生自ら求めて之につき、敢然として前朝の遺臣を以て自ら居れり・・・・・学問の淵博なるに服し、其の本草薬物の学に精し・・・・・ちなみに木堂なる雅号は、鋤雲が老子にある、木強ければ共すの句から選むて呉れた(『犬飼毅』清水仁三郎1913太閤堂)。
 1868明治元年、8ヶ月にわたるパリ見聞録*『暁窻(窓)追録』著す。

   ―――<栗本鋤雲翁四十六回忌に、島崎藤村> 大正3年、当時わたしはフランスの旅にゐて、巴里の客舎の方で栗本翁の巴里印象記ともいふべき『暁窓追録』を前に、自分の旅情に思ひ比べ・・・・・翁が巴里での見聞の記事は、大正年度にそれを開いて見ても古い感じを抱かせるどころではなく、尋常旅行者の想ひもおよばないやうな正しい観察の力がその中に溢れてゐるのにもひどく心をひかれた・・・・・もとより翁は壮年にして既に蔚然たる大家であり、その経学文章は一代の推重するところ・・・・・もし、著述に専念し得るやうであったら、もっとまとまったものを世に遺されたであろ後略後略(『仏蘭西だより』)。

 1869明治2年、『匏菴十種鉛筆記聞』(日本栗本鯤化鵬著)ほか刊行。
 1872明治5年、横浜毎日新聞入社、言論界へ。
 1873明治6年、編集主任。以来10年余り同紙に執筆。同紙を自由民権派系新聞の一方の雄に仕立て上げ、みずからもコラム「出鱈目」「五月雨」で洒脱な文筆を揮った。名記者として成島柳北福地源一郎(桜痴)らともに知られる。
   ―――栗本氏は報知に入社すると同時に、ただちに三田の福澤氏を訪問し、自分の意見を述べて助力をこい、門下の秀才に、報知にかかげる論文の投書方を依頼した・・・・・報知に入社した箕浦勝人・藤田茂吉等は、その中のもっともすぐれたもので
、投書学生の原稿料は、学費のおぎないに・・・・・かくして報知の論文は、時勢に適したものとして、いたるところ好評を博した(『今日の新聞』1925報知新聞社編集局)。

 1874明治7年、郵便報知新聞編集長となる。同僚の仮名垣魯文の推挙と伝わる。
 1875明治8年、讒謗律(言論弾圧法規)のため、編集長を藤田茂吉に譲る。
   この頃、犬飼毅(木堂)、鋤雲の家に寄食―――榊原氏の紹介で鋤雲の知遇を得、寄食して日夕鋤雲の英姿清節に接した。今日の彼の不撓不屈の気象も、礼に非ざれば取らずという節操も実は鋤雲の感化が多きに居って然るのである(『犬飼毅』)。
 1877明治10年8月、「郵便報知」紙上に「博覧会私評」、10月より漢詩欄を設ける。
 1878明治11年6月、甲折生の別号で「出鱈目草紙」を報知紙上に掲載し始める。
 1879明治12年1月、東京学士院会員。4月、本所区会の議長に選出。5月、清国の文人、王紫詮を招き、詩酒徴遂する。12月、王紫詮の『扶桑遊記』に訓点を付し、出版。
 1880明治13年、交詢社常議員に選出。明治16年、矢野龍渓の『経国美談』に序文。
 1886明治19年、老いをもって退社。
 1891明治24年11月、『唐太小詩』栗本鋤雲(匏庵)
 1892明治25年、この年、島崎藤村入門。
   報知入社から十余年間にわたり日々紙上を飾った文筆の成果、『匏庵十種』を報知社員・岡敬孝が編集、報知社から刊行。
   ―――幕府瓦解寸前ともいうべき時期の状況が、鋤雲のめざましい行動を通して、じつに活き活きと描かれている。幕末外交史、明治維新史の好資料であるばかりでなく、調子の高い記録文学というべきだ(『明治思想家集』稲垣達郎)

 1897明治30年3月6日、本所北二葉町の邸で気管支カタルを病んで死去。小石川大塚善心寺に葬られる。享年75。
   島崎藤村の歴史小説『夜明け前』に登場する喜多村瑞見のモデルは栗本鋤雲である。

 1900明治33年、『匏菴遺稿』刊行。
   ―――「幕末の形情」のなかには当面した国際情勢のなかでの日本の尖端よくあらわれ、経世の策が吐露されている(『明治思想家集』長谷川泉)。

   参考: 『近世日本国防論. 下巻』足立栗園 1939三教書院 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『日本史事典』1981角川書店 / 日本現代文学集13『明治思想家集』1980講談社・前田愛(年譜) / 『明治文学集4』成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集1983筑摩書房 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション

 

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コメント

前略 今回の記事中「慶応2年8月、鋤雲、*下関事件賠償金支払い問題で渡仏、下関償還金支払い延期談判など難問にあたる。」は事実と異なります。鋤雲は慶応3年渡仏したのが最初にして最後の海外渡航です。重箱の隅を突っついているのではありません。貴女のブログが楽しいからです。

投稿: 西蒲原有明 | 2021年5月22日 (土) 15時22分

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