父ブラックは邦字新聞『日新真事誌』創刊、子は青い目の落語家快楽亭ブラック
ウン十年前、父の知人の紹介で会社員と待ち合わせ、JR秋葉原駅ホーム階段下、買ったばかりの井上ひさし『四千万歩の男』を読んでいた。どの位たったろう。人の気配で顔をあげると「もう居ないかと思った」と笑顔の彼。美女でもない私、何がうれしいのかウン? 聞けば何のことはない1時間待ってた。本さえあれば時間は気にならない。
その日、河豚をご馳走になったが個室は窮屈、味が分からなかった。結婚した彼は会社人間、深夜帰宅は当たり前。でも喧嘩したことがない。こっちも好きなだけ本が読める。それでもたまには早く帰り、家族4人で食事に行った。
ある時「ふぐ食べたい」。夫はニヤリ。私も笑うと、子が何笑ってるの?「お父さんが釣った魚にふぐ食べはさせない」。子には何のことやら、変な親。
コロナ禍、長~いステイホームのせいか何でもない昔が思い浮かぶ。子らが高校生のころ、父親と顔を会わせると「お~久しぶり」。それでも無事に育ってそれぞれ親になった。
さて話変わって、明治の人気落語家・快楽亭ブラック、父も母もイギリス人。明治の東京で日本語新聞『日新真事誌』を創刊したJ・R・ブラックである。開国間もない日本を啓蒙した父、庶民を愉しませた息子。ことなる道を歩いたブラック父子を見てみよう。
ジョン・レディ・ブラック John Rdddie Black
1827文政9年12月11日、英国スコットランド・ファイフシャーで生まれる。
家は資産家として知られ、イギリス海軍士官を輩出していた地域の名家。全寮制のロンドンのクライスツ・ホスピタルに入学、15歳で退学。
1851嘉永4年、ロンドン郊外グリニッジ・ウエストで仲買人・総合代行業を営む。
1853嘉永6年、エリザベスと結婚。この年、アメリカ東インド艦隊長官ペリー来航。
1854安政元年、妻を伴い英領オーストラリア・アデレイドへ向かう。
当時、理想の植民地として喧伝されていた新天地に夢を求めたらしい。商業活動するも失敗、シドニーを拠点にコンサート歌手として活動。故郷のスコットランド民謡など叙情的な歌い手として高い評価を受ける。
1858安政5年11月18日、31歳。長男・ヘンリー・ジェームス・ブラック(のちの快楽亭ブラック)生まれる。
1862文久2年、大英帝国植民地・インドに渡りイギリス人相手に歌手活動、帰国資金を得ようとしたもよう。
1863文久3年、妻子を英国に帰し、単身で来日。横浜で競売人として活動する。
1864元治元年、A・W・ハンサード(家は著名な印刷業者)と出合い、ハンサードから多く学ぶ。イギリス人同士、横浜の狭い居留地で出会って意気投合したらしい。まもなく、ハンサード刊行の『ジャパン・ヘラルド』共同編集人になる。
ちなみに、福澤諭吉は『ジャパン・ヘラルド』の記事を翻訳、それを諸藩の江戸留守居役に売って報酬を得、中津藩子弟の学費にあてていた。
1865慶応元年9月、妻エリザベスがヘンリーを連れて来日。
ブラックは『ジャパン・ヘラルド』の経営権を売り、ヘラルド社を離れる。
1867慶応3年9月、本格的な日刊新聞『ジャパン・ガゼット』発行。
―――(ブラック)われわれはセンセーショナルなニュースの重要性を過大に評価しない。遅かれ早かれ、作り話は現実に場所を明け渡さなければないらないことを知っている・・・・・こうした作り話が信実ではないと証明するために、この地で起こった出来事、あるいは前の週に知り得たこと、そして根拠の十分な事実と考えられるようになったことを、定期的に記事として掲載していくつもりである(『幕末明治新聞ことはじめ』)。
1870明治3年5月~明治8年7月。横浜で写真入り英字誌『ファー・イースト』創刊。
写真ジャーナリズムの先魁となった『ファー・イースト』は、維新直後の日本の姿を克明にヨーロッパに紹介。
1872明治5年3月、邦字紙『日新真事誌』創刊。
ブラックに邦字紙(日本語新聞)発行を勧めたのは、日本語が堪能で政府高官ともつながりをもつダ・ローザで、彼は日本文も自在に綴ることができたという。ブラックは知識欲旺盛で潜在能力あふれる日本人に、いわば世界標準の新聞を提供したいと考える。『日新真事誌』は現代的に整理された内容の紙面であった。
―――既刊の『横浜毎日新聞』『新聞雑誌』『東京日日新聞』とともに大蔵省により購入され・・・・・ブラックは自ら論説の筆を執って、教育を論じ、議会制度の由来を説き、遣欧使節への批評をのべるなど、日本人の啓蒙のため大いに論陣を張った(浅岡邦雄)。
1874明治7年、板垣退助ら8名<民選議院設立建白書>を左院に提出。
この建白書が『日新真事誌』に掲載されると、大きな反響を呼び議論沸騰、佐賀の乱などもあって政府は危機感を抱く。しかし、治外法権に守られる外国人ブラックを処罰できない。そこで、ブラックをお雇い外国人にして商業活動を封じ、さらに新聞の所有者を日本人に譲渡するよう求める。結局、ブラックは『日新真事誌』を去る。
1875明治8年6月28日、新聞紙条例改正とともに讒謗律を発布し言論抑圧。
1876明治9年、ブラックは無届けで築地・貌刺屈社から『万国新聞』発行するも1号のみ。
ブラックは治外法権を理由に抵抗、パークス英国公使と寺島宗典外務卿の交渉となるが、結局、在留英人の日本語発行を禁じる特別布告が発せられる。失意のブラックは、妻ともに上海に赴く。
7月、上海で『ファー・イースト』を新シリーズと銘打って再刊。
1879明治12年、英字紙『上海マーキュリー』を創刊。
上海でブラックは健康を害し、保養を目的として日本に戻り横浜居留地16番地に住み、『ヤング・ジャパン』執筆にかかる。その一方で、ゲーテ座で音楽会を開き、美声で在留外国人を大いに愉しませた。
1880明治13年、次は『ヤング・ジャパン』前書きより引用、
―――この本は、現行の条約が1858年に締結されてから経過した21年間に、外国人が多少とも興味を持ち、また多少とも関係した、この美しい「日出づる国」で起こった一番目立った事件を、簡単に物語ったものにすぎない・・・・・昨年6月、健康を害し・・・・・転地を望んでいたのだ。ところが、十日後には、著者は医療に身をゆだね(中略)・・・・・著書を出版した他人の仕事から多く助けてもらった・・・・・アーネスト・M・サトー氏(英国公使館書記官)の多くの問題に関する論文もまた・・・・・たくさんの重要な情報を与えてくれた・・・・・横浜にて、1880年1月8日J・R・ブラック。
6月11日、脳卒中で急逝。享年53。外人墓地に葬られる。英字・邦字の各新聞は死亡記事を掲載、ブラックの死を惜しんだ。
『ヤング・ジャパン 横浜と江戸』1~3巻
(J・R・ブラック著訳者・ねずまさし、小池晴子1987東洋文庫)
1858安政5年から1877明治10年までの横浜居留地と江戸を中心にペリー来航後の日本を冷静な目で描いている。治外法権のある居留地の外国人の新聞は幕府や明治政府の干渉を受けなかった。その新聞を基礎に震天動地の乱世、次々にやって来る外国との応接・紛争・ミカドと将軍の関係・暗殺も客観的に記し、読み物としても文献としても貴重。
ヘンリー・ジェームズ・ブラック(快楽亭ブラック)
1879明治12年1月、ヘンリーは父と共に政談演説会場に出入りしていたが、講釈・松林白円に誘われて横浜・富竹亭で初高座、滑稽演説を披露。
1880明治13年4月末、横浜-小田原間の東海道本線沿いの駅で政談演説。政治に関心は薄いにもかかわらず、演説すると心が躍った。
6月、父ブラック死去。
22歳のヘンリーは経済的に困り、母や弟妹から借金をするようになる。また、父の業績に誇りをもつ弟妹や親戚たちは、異色の道へ進んだヘンリーをよく思わない。また、日本の友人も偉大な新聞人の息子の芸人稼業を拒絶する。
ヘンリーは周囲の期待に応えるため、英語学校教師をし周囲は喜んだが、辞めてしまう。
1880明治13年、軍談(講談)仲間へ身を投じ、英国小説翻案物「二人孤児」などをかける。
1884明治17年、東京軽犯罪裁判所へ傍聴に通い、新講談の創作の参考にした。
―――市中の寄席に英人ブラックの講談が毎夜聴衆をよろこばした(永井荷風「仮寝の夢)。
1885明治18年、宮武外骨が頓知協会設立。会には仮名垣魯文、落語家・三遊亭円朝、快楽亭ブラックなどが在籍。
1890明治23年、本格的に英人ブラックとして寄席に出演。
1891明治24年3月、快楽亭ブラックと名乗り落語三遊派に仲間入り。口演速記が『やまと新聞』に連載、単行本になる。速記本は他にもあり、ベストセラーになった。
この頃から明治32年迄、「鹿(釈師)芝居」に出演。
中村座・茨木童子、春木座・幡随院長兵衛、横浜勇座(新演劇白虎隊一座)松王丸などを演じ、役者稼業でも人気を得た。
1893明治26年5月、浅草の菓子商・石井アカと結婚、石井姓を名乗る。日本名を石井貌刺屈(ぶらっく)とし、日本に帰化。この頃、広告のコピーライターを開業。
1897明治30年代以降、催眠術や奇術などの余興を売り物にする。浪花節の浪速亭愛造と一座を組み、落語界に波紋を投じたこともある。高座では、西洋の探偵小説を素材にした人情噺で客を楽しませ、時に奇術や催眠術を披露。
―――「エエ、ロンドンから一里ばかりはなれたところに、小さな村がございやす、そこに年古く住んでおります・・・・・」というふうに話し始め・・・・・あたまの禿げた、目玉のぐるぐると大きい赤ら顔のでっぷりしたおじいさんで、いつもフロックコートを着て、流暢な江戸言葉(『むかしの寄席』平山蘆江)。
1903明治36~37年、不景気と日露戦争という情勢下、寄席の休場が相次ぐ。
このころ、ロンドン・グラモホン会社代表者が来日、ブラックは顧問、調整役に選ばれ仕事があった。日本で初めてレコード吹き込みに通訳として間に立ち、多くの芸能人の吹き込みの世話をした。
ブラック自身も『蕎麦屋の笑』『江戸東京時代の咄』など吹き込み録音した。
1908明治41年9月23日、しばらく前から人気が無くなり、巡業先の西宮恵比寿座で、亜ヒ酸を飲んで自殺をはかった。しかし、未遂に終わる。
―――養子のホスク(のち松旭斎天左)らとともに上海を巡業したりしながら、主に関西方面の高座を根城とする。
1912大正元年ごろ、主として西日本の地方回りの旅興行に明け暮れていたようである。
1916大正5~6年、上海・香港の協業に松旭斎天左と改名した養子、ホスコとその妻フランス人・ローザの一行に加わる。
1918大正7年、東京にカムバックしたものの、もう東京では忘れられた存在になっていた。
1920大正9年、このころまで寄席出演を続け、引退する。
―――内弟子に身辺の世話をさせながら朝湯を楽しみにしているブラックは、それほど落胆の晩年とはおもわれない(『快楽亭ブラックのニッポン』)。
1923大正12年9月1日関東大震災。
9月19日、東京目黒区中丸の自宅で死去。享年66。
横浜外人墓地に父・母・妹とともに葬られる。ブラックの死は、大震災直後の大混乱で落語界では気付かれなかった。
参考: 『日新真事誌』の創刊者ジョン・レディ・ブラック』浅岡邦雄1990国立国会図書館 / 『近代日本新聞小史』岡満男1969ミネルバ書房 / 『幕末明治新聞ことはじめ-ジャーナリズムをつくった人びと』奥武則2016朝日新聞出版 / 『快楽亭ブラックのニッポン』佐々木みよこ・森岡ハインツ / 『名人名演 落語全集・明治編』1982立風書房
| 固定リンク
コメント