日本学術会議 初の女性会員は地球科学者、猿橋勝子
コロナ禍、家に居る。テレビをつけるとコロナ情報があふれ却って不安になる。でも学者の解説聞き流しがち、深く考えない。それは科学に無知なだけでなく、諦め半分もあるかも知れない。
しかし、科学者は疑問を疎かにせず追求する。一生の大仕事になって報われないかも知れないが、邁進する。業績を誇るためでなく人の役に立ち、応援したいからだと思う。ところで、そうした才能に男女に差はない筈、でも女性科学者は少ない。
長~い男女不平等の歴史が女性の活躍の場を奪ってきたのだ。しかし、その状況をただ嘆くだけでなく、自ら道を開き、後進を育て、学問を世の中に役立てるため真摯に研究に励む女性科学者たちがいる。
<2020年度ニュートリノ研究で猿橋賞:京大准教授・市川温子さん(2020.8.6毎日)>
この記事で猿橋賞を知り、『猿橋勝子という生き方』(米沢登美子2009岩波科学ライブラリー)を借りて読んでみた。すると重いテーマ、難しい理解できない事例があるにもかかわらず引き込まれた。
おそらく物理学者である著者が、「地球科学者・猿橋勝子」の学問と人となりを深く理解、科学知識がなく難しい理論や実験を理解できない者でも読めるように書いてあるのだ。その『猿橋勝子という生き方』を主な参考にその生涯をみてみる。
猿橋 勝子
1920大正9年3月22日、東京の芝区(港区)白金三光町で生まれる。
父は電気技師。神応小学校入学。
1937昭和12年3月、東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高校)卒業。
4月、大学進学を望むも親の思いを受け生命保険会社入社。
1941昭和16年4月、進学を諦められず、帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)物理学科入学。クラス担任から三宅泰雄・中央気象台研究部長を紹介され三宅研究室に通う。地球化学研究のパイオニア三宅との出会いが、科学者としての猿橋の将来を決定する。
1942昭和17年2月、シンガポール占領。6月、ミッドウェー海戦敗北。
1943昭和18年9月、戦局が厳しいなか国の方針で半年繰り上げ卒業。12月、第1回学徒兵入営、出陣。
中央気象台研究部(大手町)嘱託として働き出す。
1945昭和20年8月、広島と長崎に原爆投下。猿橋は科学が諸刃の剣であることを実感として知り、大きな衝撃を受ける。
1947昭和22年4月、気象研究所気象化学研究室・研究官。
1954昭和29年3月1日、アメリカのビキニ水爆実験で第5福竜丸被爆。
―――第5福竜丸「白い灰」を持ち帰る。微量分析の達人・猿橋の分析により、白い灰の正体は、サンゴ(珊瑚)の粉末であると判明・・・・・分析の結果、水爆は、ビキニのサンゴ礁をなぎ倒し、硬いサンゴを芥子粒大の粉末にまで破壊し尽くし、富士山の10倍の高さに巻き上げた・・・・・まさしく想像を超えた破壊力だ。
―――放射能を含んだ死の灰は気流に乗って遠くまで運ばれ、雨とともに降り注いだ。猿橋らは、日本に降った雨から高い放射能を観測・・・・・この事実を、猿橋ら科学者は一般の人たちに伝え続けた。安全な生活を取り戻したいという母親たちの思いが、原水爆反対の機運として日本中に広がり、「原水爆禁止署名運動」が始まる。翌年の第1回原水禁世界大会までに、3000万を越す署名があつまった。
―――三度の原水爆被害を受けた日本人は、核兵器廃絶の思想を骨の髄まで染みこませなければならない、と猿橋は考え、それに沿って行動した。「科学者は、同時に哲学者でなければならない」猿橋はこの言葉を、後進の女性科学者たちに伝え続けた。
―――「第五福竜丸」と「むつ」、「ふね遺産」に認定: 日本船舶海洋工学会に認定された・・・・・反戦反核運動の象徴にもなった2隻だが、今回は技術的側面からの評価となった・・・・・「善しあしは別として、原子力が今のAI(人口知能)のように最先端技術として捉えられていた時代があった。さまざまな議論がなされた船だが、(認定が)歴史として冷静に立ち返るきっかけとなれば(2020.9.3毎日新聞)。
1957昭和32年4月、東京大学から理学博士の学位を授与される。論文は「天然水中の炭酸物質の挙動」。
1958昭和33年2月、平塚らいてうに「世界婦人集会」に日本代表として出席、科学者の立場から核兵器の恐ろしさ、非人道的な残虐性を世界の婦人に伝えるよう求められる。
4月26日、「日本婦人科学者の会」創立総会が学士会本館で行われる。
5月、「世界婦人集会」開催地ウイーンでした英語の演説は大成功。
1962昭和37年5月~昭和38年1月、渡米。
カリフォルニア大学スクリップス海洋研究所に招聘され、海洋放射能に関する日米共同研究。日米の国力の違いが大きい中で、女性が単身アメリカに行き、しっかりしたデータを出して、気難しいフォルサム博士を納得させたことは絶賛に値する。
<希望をもたらした科学者 猿橋勝子博士と微量測定>
―――1960年代に、放射線微量測定法を樹立し、ビキニ核実験後に海水セシウムが百倍になったことを発見。アメリカの指導的研究者だったスクリプス研究所のフォルサム教授から、当初、疑念をもたれたが1962年渡米し、6ヶ月の公開実験により、線量測定法の正しさをフォルサム博士も確認した。これらの結果から、核実験による環境汚染が広く認められるようになり、1963年8月、アメリカ、イギリス、ソビエトによって部分的核実験禁止条約が締結された・・・・・「世の中をかえる研究というのは純粋な心から生まれるものなのです」(第5回浪江町復興検討委員会・浪江町2012.1.26)。
1964昭和39年6月、ニューヨーク、第1回国際婦人科学者会議に出席。
1965昭和40年1月、気象研究所地球化学研究部・主任研究官。
~1967昭和42年、第11回太平洋学術会議組織委員会委員(日本学術会議)。
―――1965昭和40年、日本の科学の自主的・民主的・総合的発展を求める科学者の横断的組織である「日本科学者会議」が発足。私(安齋育郎)も請われるままに参加していった。原子力工学を専門とする科学者が数少ない中で、政府の原子力政策を検討する重要な役割を負うことになり、政策批判の活動に徐々に傾斜していった。
その頃,アメリカの原子力潜水艦の寄港地の放射能汚染が社会的な関心を集め、三宅泰雄、檜山義夫、猿橋勝子ら放射線研究分野の著名な科学者が、当時まだ上野にあった日本学術会議を舞台に論争を繰り広げるようになった。自己の学術的主張に徹底的にこだわって一歩も譲らない専門家同士を火の噴くような論争を目の当たりにして、専門的職業人としての科学研究者の生半可ではない姿に触れて感動したことも、社会問題に原子力の専門家として目を向けることの重要性を認識する上で少なからぬ影響を受けた(『立命館国際研究』安齋育郎2006)。
1966昭和41年5月、モスクワ、第2回海洋学会議出席。
1967昭和42年6月~7月、ケンブリッジ、第2回国際婦人科学者会議出席。
原子力施設視察:イギリス・オランダ・フランス・スイス・イタリア・ギリシャ。
~1973昭和48年、東海大学海洋学部非常勤講師。
~1991平成3年、東邦大学理事、客員教授。
1970昭和45年~1972昭和47年、水地球化学・生物地球化学国際会議組織委員会(日本学術会議)。日本学術会議海洋学特別委員会委員。
1973昭和48年5月、国際原子力機関(IAEA)主催・放射能生態学に関する会議(エクサンプロバンス)に出席。
1974昭和49年11月、気象研究所地球化学研究部・第2研究室長。
1975昭和50年7月、シアトル、第5回国際放射線会議。
1976昭和51年9月、エディンバラ国際潰瘍学会。
1978昭和53年4月、ヒューストン、第3回天然放射能緩急会議。
11月、パリ経済開発協力機構原子力機関(OECD・NEA)の放射性廃棄物に関する会議。
~1979昭和54年、第6回国際放射線会議(日本学術会議主催)組織委員会委員。
1979昭和54年4月、気象研究所地球化学研究部長。運輸省原子力連絡会議委員。6月、海洋開発審議会専門委員(総理府)。12月、キャンベラ地球物理学連合会(IUGG)総会。
1980昭和55年4月、気象研究所退官。10月、「女性科学者に明るい未来をの会」創立。会の事業として、自然科学の分野で優れた研究業績を上げた50歳未満の女性科学者を顕彰する「猿橋賞」の授与が決められた。
―――猿橋先生は地球化学者・三宅泰雄先生のもとで、研究を続けました。その結果、100篇近い科学論文・・・・・多くの著書を出版しています・・・・・ 猿橋先生は、研究も生活についても厳しい先生で、現役時代 、地球化学・海洋化学の分野の皆には有名でした(『天気』気象研究所地球化学研究部 廣瀬勝己2007)
1981昭和56年1月、*日本学術会議第12期会員(~1984昭和59年)。
―――従来の日本学士院等に代わって設立。有権者登録をしてある22万人の郵便投票によって選出。設立から30年余の間、女性が立候補したことは一度もなかった。猿橋は1025票、第6位で当選、初の女性会員である。
エイボン女性大賞受賞。自らの研究を進めながら、女性の地位向上や世界平和のために国際的に活躍として受賞。
1985昭和60年、三宅賞(学術賞)地球化学研究会、放射性および親生元素の海洋化学的研究で受賞。
1990平成2年3月、公益信託「女性自然科学者研究支援基金」認可される。
1992平成4年9月、北京にて第1回日中女性科学者開催。2年後、大連にて第2回。
1993平成5年、田中賞(功労賞)日本海水学会―――長年の海水化学の進歩への貢献。
2007平成19年9月29日、東京にて死去。享年87。
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毎日新聞20234.18
<第43回猿橋賞に宮原ひろ子さん>
―――宮原さんは、太陽活動と地球の気候変動に関連があることを発見。「宇宙気候学」という分野を切り開いた。
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コメント
へえ、こんなとこまで人工知能(AI)によるアルゴリズム革命は影響を及ぼしていたんだ。
投稿: 京都鉄道 | 2024年1月 5日 (金) 05時08分
鉄鋼業も最近はダイバーシティが進み始めているようですね。
投稿: エメラルドグリーン | 2023年11月13日 (月) 13時36分
航空機用のベアリングなんかもいいとおもうが。
投稿: 電力軸受マルテンサイト | 2023年8月29日 (火) 12時37分
ルパン三世のマモーの正体。それはプロテリアル安来工場で開発されたSLD-MAGICという高性能特殊鋼と関係している。ゴエモンが最近新斬鉄剣と称してハイテン製のボディーの自動車をフルスピードで切り刻んで、またつまらぬものを斬ってしまったと定番のセリフ言いまくっているようだ。話をもとにもどそう、ものづくりの人工知能の解析などを通じて得た摩耗の正体は、炭素結晶の競合モデル/CCSCモデルとして各学協会で講演されているようだ。
投稿: プロの魂ホームラン | 2023年7月19日 (水) 05時28分
いずれにしてもトライボロジー関係はバイオテクノロジー投資関係でも脚光を浴びつつありますね。
投稿: グリーンGX経済 | 2023年6月30日 (金) 14時21分
日立金属はプロテリアルに名前が変わったですね。その話はSLD-MAGICという自己潤滑性特殊鋼(マルテンサイト鋼)のことですね。2000年代のずいぶん前から講演なさってましたね。ハイテン成形の金型材料で威力を発揮して最近はエンジンバルブ関係の適用が進んでいるとのこと。しかし昔はさぞかし高炉メーカーの圧力で、電炉に有利な情報は緘口令がしかれていてさぞかし苦労なさったんじゃないでしょうか。
投稿: グリーンGX経済 | 2023年6月14日 (水) 01時28分
素晴らしいですね。ところでダイセルリサーチセンターの久保田邦親博士(工学)の提唱するCCSCモデルは鉄鋼材料のトランプエレメントが自己潤滑性を増幅させてサステナブル工学へ多大な寄与をするとのこと。界面摩擦 現象検出には今後ラマン分光法は欠かせなくなりますね。
投稿: プラントエンジニア | 2021年7月22日 (木) 16時40分