杉浦誠、将軍に従い動乱の京へ・最後の箱館奉行・明治の東京で漢詩
例年なら今頃は友人と旅の空なのにコロナ禍で遠出叶わず、観光写真さえ恨めしい。
しかし、オリンピック開催を危ぶみながらも練習に励むスポーツ選手を思えば、不満を引っ込めるしかないのか。それにしても、オリンピック開催大丈夫なの?
何はともあれ、梅雨がないという北海道へまた行きたい。もう一度、「函館」の夕焼けと夜景、「箱館」の歴史、再建された箱館五稜郭を見学、五稜郭の主だった箱館奉行杉浦兵庫守を偲びたい。
杉浦誠を知ったのは『明治の一郎・山東直砥』を書くなかで、箱館奉行所改め箱館裁判所(新政府の行政府)役人となった山東一郎との出会いがきっかけである。
杉浦は仕事ぶりも人柄も申し分なく、実績もあるのに広く知られず惜しい。ちなみに、杉浦に次いで箱館奉行となったのは*栗本鯤である。
<けやきのブログⅡ2021.5.22幕臣の明治はジャーナリスト、栗本鋤雲>
杉浦 誠 (梅潭)
1826文政9年1月9日、江戸牛込田町で生まれる。名は誠。号は梅潭。
父・久須美祐義、母・小林真木、祖父は大坂町奉行・勘定奉行を歴任。
1843天保14年、祖父・久須美祐明が大坂西町奉行に異動、父と共に大坂へ。ここで祖父の仕事ぶりを見学したり、武術の稽古を付けてもらう。また人一倍勉学に励んだ。
1848嘉永元年、幕臣杉浦家の養子となり家督を継ぐ。
叔父の飛騨郡代・豊田友直の長女・喜多と結婚。
1851嘉永4年、25歳。大番衛士。妻の喜多死去。
1855安政2年4月、喜多の妹、多嘉と結婚。この頃、自宅を足場に読書会を開き、新しい知識の吸収に励んだ。
1858安政5年8月3日の日記。「暴瀉病(コレラ)甚ダ流行シ、死人山ノ如シ」。
1860万延元年、鉄砲玉薬奉行。
1862文久2年5月、洋書調所頭取、将軍に拝謁。
8月、老中板倉勝静に抜擢され目付に登用。今の省庁の次官ポストに昇進。
12月、浪士組掛に任命。尊皇攘夷運動が盛んな時であった。
1863文久3年1月、政事総裁職・松平春嶽に随行、京へ。幕府に攘夷実行を迫る朝廷への上奏文の草案作成を担当する。2月、妻死去。
7月、長崎奉行、目付に再任。林鶴梁の養女・喜美と結婚。
10月、諸大夫に叙任、兵庫頭を名乗る。
12月、将軍家茂に随行、翔鶴丸に乗り京へ。浪士掛に任命。将軍上洛後も京の町なかでは斬り合いが行われていた。浪士組、清河八郎暗殺事件にかかわったとも。
1864文久4年1月、杉浦は将軍の供をして京に赴く。
1864元治元年2月、宮廷工作情報、伝達など政務のためか強行軍の江戸往復。22日京を出発、早駕籠にて28日江戸着。3月7日江戸出発、13日京都着。
5月、朝廷に横浜鎖港を約束した将軍家茂に随行して江戸に帰還。
6月、過激攘夷派の政事総裁職・松平直克による政変で、穏健政策の板倉派、杉浦は目付を罷免。非職となり1年半の間、自宅謹慎の生活を送る。
1866慶応2年1月、*箱館奉行拝命。同役に小出秀実。
箱館奉行:幕府直轄の要地に配置された遠国奉行の一。老中に属し、定員2~3名。
3月、江戸を出発、奥州街道を行き、箱館丸に乗船、4月21日箱館港着。
―――多忙な箱館生活。五稜郭を出て、弁天台場や医学所を巡見、さらに小出秀実同道で各国領事館を廻った。杉浦が会ったのは、アメリカ領事ライス、プロイセン領事ガルトネル、ロシア領事ビューツォフ、イギリス領事(兼オランダ領事)ガワー・・・・・ポルトガル、フランス領事は不在・・・・・杉浦はビューツォフとカラフト問題を中心に深いつきあいを重ねる。他国のように横浜または江戸に公使を置かないロシアは、箱館駐箚領事が唯一の外交窓口だった・・・・・
―――アイヌ人骨盗掘事件。イギリス人がアイヌ墓地を盗掘し、持ち去ったアイヌ人骨の返還をイギリス公使パークスを通じて返還を求めた事件。翌年、返還され解決(『最後の箱館奉行』)。
日露和親条約で日本とロシアの雑居地と決められた樺太の内、日本人居住地の南にロシア人が住居を建設する問題が発生、その交渉にあたるなどした。
1867慶応3年9月、勘定奉行兼帯となる。
10月、大政奉還。幕府倒壊の動きが加速、箱館には1ヶ月遅れで伝わった。
1868慶応4年閏3月、江戸から朝廷に奉行所を明け渡すよう指令、五稜郭奉行所を新政府の箱館裁判所(地方行政機関)清水谷総督に引き渡すことになった。
4月、箱館裁判所権判事・山東一郎と小野淳輔(坂本龍馬の甥)は、杉浦兵庫守と面会、五稜郭の引き継ぎの話し合いを行った。杉浦は情勢をよくのみこみ準備をしていたから引き継ぎは滞りなく行われた。清水谷総督は杉浦を五稜郭に呼び出し会見、杉浦は部下の行く末を保証した安堵状を受け取り五稜郭を去る。
5月1日、箱館府、五稜郭に開庁、正式に政権交代。幕府役人は残留する者もあれば江戸へ去る者もあった。
6月、杉浦はすべてを見届け、家族と共にイギリス船フィルヘートル号で箱館を発ち、江戸大川端の自宅に引き揚げた。
12月15日、榎本武揚ら蝦夷地を占領、五稜郭を本営とする。
12月、駿府藩公議人を拝命、*静岡に赴く。
駿府藩:江戸開城と共に所領を削られ、謹慎を命じられた徳川慶喜にかわって徳川宗家をついだ家達に与えられた駿河・遠江・三河の70万石。駿府を静岡と改称、廃藩置県に至る。
1869明治2年、箱館を函館と改称。
5月、新政府軍函館総攻撃。榎本ら降伏。戊辰戦争終わる。
8月、新政府外務省出仕を命ぜられる。開拓使権判官に任命される。
11月、東京を出発。厳冬の奥州路を北上し、12月箱館着任。
1872明治5年、開拓使判官に任命される。
1876明治9年7月16日、明治天皇の函館行幸の先導を務める。
1877明治10年1月、開拓使(黒田清隆長官)を退官、東京に帰着。
1878明治11年9月、向山黄村、稲津南洋らと漢詩吟詠の「晩翠吟社」をおこし、詩作に打込む。当時、詩といえば漢詩のこと。杉浦の号は梅潭。
晩翠吟社は毎月1回、不忍の湖心亭に詩会を開き、大沼沈山に詩の刪正(さんせい・文章の字句をけずり正す)を乞い、沈山の没後は杉浦梅譚がこれにあたる。社中の詩を集めたものは334輯になるという。
1900明治33年5月30日、死去。長延寺に葬られる。享年74。
江村春日 杉浦梅潭
*纓(えい)を洗うは何(いず)れの処か妙なる
渺渺(びょうびょう)たり 大江の東
水を隔てて残雲白く
山を銜(ふく)みて夕日紅し
自ら辞す 干禄(かんろく)の士
宜しく学ぶべし 釣魚の翁
一綫(いっせん) 垂楊の畔
前村 路有って通ず
参考:纓、冠のひも。干禄、仕官を望む。綫、線。
「滄浪の水清(す)まば以て吾が纓を濯(あら)うべし」。中国、楚の憂国詩人屈原は、孤高と清廉故にかえって衆人にうとまれ、讒言にあい追放の憂き目を見る。落胆し揚子江の岸までやってきた屈原に、漁夫が「滄浪の水が澄んだなら、私は冠の紐を洗おうよ。滄浪の水がにごったらば、こんどは足でも洗おうか」、何事もなりゆきに任せるべきだと諷刺。
参考:『最後の箱館奉行の日記』田口英爾1995新潮選書 / 『明治漢詩文集』()明治文学全集62)1983筑摩書房 / 『中国名言集』1963河出書房新社 / 『日本史辞典』1981角川書店
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