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2021年6月26日 (土)

漢学者・井口嘉一郎、新聞投書家・いのくちむかし、機械工学者・いのくちありや

 井口無加之(いのくち むかし)と井口在屋(いのくち ありや)は兄弟、父は加賀藩(金沢藩・前田藩)経世的漢学者・井口嘉一郎である。
 その嘉一郎を勤皇的儒家と記したものを見たが幕末の動静を知る資料は得られなかった。そこで加賀藩の動向を県史でみたら、「ご一新に日和みた百万石」の項があった。
   ―――財政整理を行い、海防のために西洋砲術を取り入れて軍備を充実するなどの政策を行った。もっとも、重職は依然として門閥守旧層が占めており・・・・・藩論の大勢は幕府順応、攘夷も消極的であった・・・・・政治情勢が緊迫し、歴史的変革へむけて激しく動き出すと、藩内は混乱・・・・・戊辰戦争がおこると、徳川への援軍を進発させた。そのすぐあとに徳川は朝敵であるという知らせが入り、あわてて兵をもどし、朝廷への忠誠を誓うという変身・・・・・このため、北越の戦いでは莫大な軍費や物資を官軍に献納し、100名をこえる戦死者を出して戦ってみせねばならなかった(『郷土史事典 石川県』)

 幕末維新期は大転換期、朝廷・幕府どちらについても戦は避けられず、藩士も住民も困難に遭った混沌とした時代だった。しかし、地方にいて情報は少なかったろうし、選択の善し悪しを後世はあれこれ言えない。ただ、結果的に残念な選択をした藩の出身者に、新時代の風は冷たかったかもしれない。でも、井口兄弟はそんなことを気にかけるより己の信ずる道を進んだようだ。
 ともあれ、混乱に輪をかけたペリーの黒船来港、その前年の無加之が生まれ、4年後ハリス下田着任の年に在屋は生まれた。
 このような時代に生まれ育った井口兄弟、どのように育ち何を為したのか。父子3人の幕末・明治・大正を見てみたい。
 
      井口 嘉一郎   (いのくち かいちろう)

 1812文化9年、生まれる。名は済(なす)、字は孟篤、号は犀川(さいせん)・孜々堂。
    幼い時から学問を好み、江戸に出て安井息軒、塩谷宕陰などに学ぶ。
 ?年、 学問成って、浜松藩校の教官に招かれる。
 ?年、 浜松藩校を罷め、金沢に帰る。藩老横山氏の儒員となる。
 1868慶応4年8月25日~明治元年11月9日、金沢藩の*貢士をつとめる。
   貢士:明治維新当初の議事官。各藩から選抜された。
 1869明治2年、*徴士となり権弁事となる。
   徴士:諸藩士や一般人の有能な者を選任。官吏の称が用いられたが、藩主とは君臣関係。
 1871明治4年、廃藩置県。石川県専門学校教諭兼師範学校教諭となる。
 1884明治17年5月、歿す。享年73。
   金沢立図書館に蔵書が寄贈されている。「井口犀川文庫」に郷土資料・宗教・哲学・教育・理学・兵書・芸術・歴史地理など60冊余りが収められている(『金沢市立図書館蔵書目録 : 大礼記念』1933)。

     井口 無加之   (いのくち むかし)

 1852嘉永5年、加賀国金沢城下に加賀藩士・井口家3男2女の長男として生まれる。号は柿園。
    無加之は父の教えを受け漢学に長じ、能く文を作り、博識の文章家であった。
 ?年、 石川県の中学教師。かたわら、文章家・新聞投書家として名を馳せる。
 1875明治8年、讒謗律・新聞紙条例。言論弾圧法規制定。

 1876明治9年、24歳。『*朝野新聞』に「祭*木内宗五郎」を投稿。これが新聞投書の始まりで、1879明治12年7月までの3年間で、100編以上の投書した。中には、「読馬格那加達」(マグナカータ)など民権論的色彩の濃い文章も多い。
   木内宗五郎:佐倉宗吾。本名、木内惣五郎。江戸前期の百姓一揆の指導者。出身については諸説あり。宗吾伝説は百姓一揆の高まりの中、民権論で再び脚光をあびた。
   朝野新聞:明治5年創刊の『公文通誌』を改題。社長は成島柳北。末広鉄腸・高橋基一・馬場辰猪ら自由民権派を支持。明治14~16年が全盛。
 なお、無加之の投書は『朝野新聞』復刻版(ぺりかん社)で読めそう。大学の図書館で確かめたいが、今はコロナ禍、見に行けない。

 1880明治13年、28歳。『*石川新聞』主筆記者となり漢文で論陣を張る。
   その論説の多くは行文流暢意義詳明。しかも筆を下すこと敏捷なりと、書も一流であった。しかし、胸膜炎にかかる。
   石川新聞:石川県で最初の新聞は、明治4年「開化新聞」。1873明治6年31号から「石川新聞」と改題。さらに「加越新報」「加越能新聞」「北陸新報」と改題、1895明治28年廃刊となる。
 1881明治14年10月1日、急死。享年29。
   才能ある若い死は惜しんでもあまりある。父母、兄弟姉妹の嘆きはいかばかりか。そのとき、弟の在屋は東京の工部大学校で学んでいた。

     井口 在屋   (いのくち ありや)

 1856安政3年10月30日、井口嘉一郎の3男に生まれる。旧名・窓助。
   父の嘉一郎が屋根の修理をしていたときに生まれたので「在屋」と命名したという。
 1882明治15年、*工部大学校卒業。
   工部省に入り、工部七等技手兼工部大学校教授補。
   工部大学校:東大工学部の前身。工部省の工学寮が官制改革で工部大学校となる。工作局所属。土木など7科、履修年限は6ヶ年。
 1883明治16年、海軍11等出仕。
 1886明治19年、帝国大学工科大学助教授。蒸気機関の研究を行う。

 1888明治21年、*工手学校の設立に参加、教鞭をとる。
   工手学校:即実践力となるエンジニアを養成する工業学校。学校の形態は夜間教育、速成をもっぱらとし修業年限は1年半。発起人は、東京駅を設計した辰野金吾(造家)・井口在屋(機械)・石橋絢彦(土木)・古市公威(土木)・杉村次郎(鉱山)など14人。
   時代の要請にマッチした工手学校設立は、民間企業人にとって大歓迎であった。支援を惜しまなかった「工手学校賛助員」は、岩崎弥之助・古河市兵衛・高島嘉右衛門・渋澤栄一ら錚々たるメンバーで、開校にあたり多くの寄付が集まった。
 のち第35回卒業式の祝辞で在屋は、「エンジニアの本分は、その使用によっては、破壊的にもなる自然の力をいかに有効な目的のために活用するかにある」と述べる。

 1894明治27年、海軍大学校教授嘱託。イギリス留学。
   ロンドンで機械工学研究。ロンドンで執筆した論文が工学誌『エンジニア』に掲載。
 1896明治29年、帰国。教授に昇任。
 1897明治30年、機械学会の発起人となり、幹事長として学会の運営に携わる。また、同学会の機械術語選定委員会委員長を務める。
 1899明治32年、工学博士。
 1905明治38年、回転式羽根車を用いた渦巻きポンプに関する300頁にわたる論文を発表、『エンジニア』誌より激賞される。
   井口の理論に基づき、芝浦製作所はタービンポンプを製作、ポンプの効率を飛躍的に高めた。
 ?年、 井口の指導学生の畠山一清は、ゐのくち式機械事務所を設立して井口式ポンプを製作し、のちの荏原製作所の基礎を築いた。
 1909明治42年、帝国学士院会員。
 1920大正9年、学術研究会議会員。
   在屋は儒者の家柄に育ったこともあって、暇さえあれば、四書五経のたぐいを読んでいて漢学者の風格があったという。
 1923大正12年3月25日、死去。享年67。
   論文、著書が国会図書館デジタルコレクションで読める。

   参考:『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『郷土史事典 石川県』1982昌平社 / 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『工手学校 旧幕臣達の技術者教育』茅原健2007中公新書 / 『日本史辞典』1981角川書店

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