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2021年7月31日 (土)

『明治大正人物列伝52』

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  『明治大正人物列伝52』
中井けやき
1300円+税

 
  2015.1.3<御代、飛行機の高く飛べるを!明治の飛行家たち>~2015.12.26<長崎海軍伝習所・宮古海戦・中央気象台長、荒井郁之助>52項目。

   ―――明治から大正という近代日本の黎明期に、さまざまな方面で力を発揮した特異な人物たち、歴史的な意味のある場所や、希有な出来事が纏められ、万華鏡のような世界を現出させている。耳慣れない人名や出来事と出会わせてくれる作品は、まさに中国史の「列伝」と呼ぶに相応しい。歴史は権力者や戦争、大事件だけで構成されるものではなく、底辺たる群像と、全分野が総合され創り上げられてきた。

 ブログという私的な日記形式で執筆され、常に著者の「今」と不可分な内面から掘り起こされている。郷土史を彩るのは、決して立身出世、忍耐努力の人だけではない。著者はより幅広い人物に目を向け、明治大正の多彩さを語る・・・・・「女性の活躍」などが期待されなかった時代に、自ら道を拓いた「花巻出身の明治女学生、佐藤輔子と山室機恵子」「ルビ付き記者の活躍、磯村春子」は、大山捨松や津田梅子らとは異なる場所で、存在感を放っている。

 人物列伝とともに、視点を場所や出来事に移した、テーマ別の記事も面白い。「陸奥のいろいろ、大名・藩校・御用商人・産物」などがそれである・・・・・戊辰戦争から日本国憲法施行までを辿る8月15日の「明治・大正・昭和の戦争」は、終戦70年に平和を祈念する思いが籠められている(出版社講評より)。

     
   ※ 『明治大正人物列伝52』を読む(玉木研二)

   徳川大尉の代々木原頭の飛行は、当時の記事(東京日日)の調子が印象的で、現場にも行ったことがあります。今は翼を模した碑が林の中にひっそりと影を落としています。

   高島炭鉱には、1980年代半ばですが、炭鉱閉山をめぐるルポを書くため1週間泊まったことがあります。
 まだ町役場もあり、町長(なかなか好人物でした)や労働組合幹部、鉱員、会社側のエリートエンジニア、寿司屋、菓子職人らいろんな人々と語り合ったことが懐かしく思い出されます。戦後40年を経た頃ですが、まだ、戦争体験を生々しく語れる人が大勢いた時代です。
 例えば、島の寿司屋さんは満州で店を開いて、日本軍人がよく出入りしていたが、ソ連侵攻で関東軍は居留民ら守ってくれず、姿を消すように撤退(逃亡)しました。命からがら引き揚げて開いた高島の店は、炭鉱景気を背景に繁盛しました。
 どこの炭鉱もそうでしたが、戦後復興のエネルギー資源として政府が資材、資金を傾斜配分、全国から職を求めて人が集まりました。人気芸能人もよく興行に訪れました。やがて石油に資源のチャンピオンの座を奪われ、次第に衰退します。
 私が訪れた当時、既に寿司屋には往年のにぎわいはありませんでしたが、2階に隠し部屋のようなものがありました。炭鉱の争議で組合側と会社側の裏折衝、いうなれば「ボス交」が時に応じて行われた部屋だと聞いて、こりゃ文化財(今でいえば歴史遺産)として残しておきたいもんだと思ったものです。

   広島県産業奨励館(原爆ドーム)には第一次世界大戦にもまつわるエピソードがあります。
 大戦終了後、この時は戦勝国であった日本に青島で戦ったドイツ将兵の捕虜が移送され、広島湾沖合の似島(にのしま)にも収容所が設けられました。
 ドイツ人と日本人との間にはわだかまりもなかったようです。料理をふるまったり、サッカーを楽しんだりしました。
 捕虜の1人に菓子職人がいて、産業奨励館の展示会に出品販売しました。日本人が初めて目にする菓子で、その形、味はとても人気となりました。バームクーヘンです。
 やがて捕虜たちは故国ドイツに帰る段になりましたが、この職人は帰らず、首都圏に拠点を移し、関東大震災で被災したものの、神戸で再起、「ユーハイムとして続いています。

 余談ながら、広島の学生らに初めて高度なサッカーの技を教えたのも似島の捕虜たちで、心酔した学生の中には舟を漕いで島に通い、教えを乞うた者もいたそうです。
 似島は後年、原爆被災者が続々と運び込まれ、地獄の様相を呈することになります。

   魯迅の「藤野先生」はぜひ今の中学、高校生にも読んでほしい短編です。国語だけでなく、歴史学習に用いてみてはいかがでしょうか。
 ちなみに、太宰治の小説「惜別」は、戦争中(それも相当末期の)作品ですが、仙台医専で魯迅と同期だったという老医師を太宰が造形して書いています。

   杉亨二は豊島区の染井霊園に墓があります。数年前、政府統計の中にインチキがあるという問題が起きた時、ここに参り、「わが国統計学の父」が何思うや、と考えをめぐらせたことがあります。ひたむきに生きてきた人だと思います。
 少年時に両親をなくし、以来、自分のなすべきことは何か、に徹する生き方を通してきたのではないかと思います。

 

        ※ 玉木研二先生のコラム講座

 3年前、毎日文化センター「コラムを書いてみよう」講座に通っていた。
 講師は玉木研二先生(当時、毎日新聞客員編集委員)。月2回、テーマを決めて1000字を原稿用紙に手書きして提出、次回返却される。
 自分の書いたものを読んでもらえて丁寧な講評つき。
 「三行あったら読まない」と言われたこともある位で、読んでもらえるだけで充分うれしく、受講してすぐ嵌まった。
 ところで、書くのは好きでも文章修行をしたことがない。
 たまたま見たコラム講座の広告。年々長くなるブログ記事を短くするには、「コラム=短い」イメージから受講しようと思った。
 さて受講してみると、どうもコラムと自分のブログ記事は別物みたい。でも、講座は面白い。何より、講評によって自分の書いたものが良く見え、何度も木に上った。講師は褒めて育てる先生でした。
 ただ、自分はおっちょこちょい、とくに漢字違いは恥ずかしい。でも反省が足りず、今も失敗する。

 興味のある新聞記事など切り抜くが当時、毎日新聞“火論 ka-ron”をスクラップしていた。それなのに、迂闊にもコラムの講師と、“火論”の筆者が同じと気付くのが遅れた。大抵のことを「ま、いいか」とやり過ごすが、読むのも大雑把な自分に「ア~」。でも、玉木研二先生に出会えて良かった。
 そして、もっと嬉しかったのは、20歳代に雑読濫読していたものを先生も読まれていたこと。全体への講評中にそれらの作家や書名が挙がるたび、大きく頷かずにはいられなかった。それにしても半世紀を隔て、歳月を超え共感できるってすごい。
 また『その時、名画があった』(玉木研二著)を開くと、それを一緒に観た友人、その時々が彷彿して懐かしい。
 まさか、年金世代の今になって若い日が蘇り、潜んでいた孤独感が癒やされるとは思いもしなかった。
 何よりも玉木先生の新聞記者としての経験、社会への鋭い観察眼、多方面にわたる話題は興味津々。初めて聞く話も多く、いつまでも聴いていたかった。
 ところが、コロナ禍!
 2020東京オリンピックは開催されたが、いろいろなものがストップしてしまった。

 玉木研二先生、コラム講座の皆さん、そしてけやきのブログを読んでくださっている皆さま、どうかコロナにも猛暑にも負けずお元気で!
2021.7.31

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コメント

『明治大正人物列伝52』中井けやき著、を頂き有難うございました。中井さんのお陰で左部彦次郎のお孫さんともお知り合いになれて大変感謝しております。小生も退職してから初めて歴史に興味を持つようになり、名もない人々も名のある人々も全く同じく歴史のひとこまを造っていて、唯歴史に記録されているかいないかの違いに過ぎない、今はそう実感しております。

投稿: 桑原英眞 | 2021年8月29日 (日) 10時19分

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