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2021年7月17日 (土)

信州白樺教育・代用教員は謄写版印刷の名手、赤羽王郎

 ウン十年前、卒論のため国会図書館に通った。当時、立ってひたすらカードをめくり資料探し、これで時間をとられるからその日は閲覧カードに記入して終わり。翌朝、カウンターに閲覧カードを出して、希望の書籍が出てくるのを待つのだ。
 運が悪いと、やっと手にしたものの目的事項が無いこともあった。でもまあ、目的事項が見つかれば複写申請。それも、次第によってはコピーが後日郵送もあった。
 しかし現在は、「国会図書館デジタルコレクション」がある。著作権が切れたものなど居ながらにして検索、ダウンロードできる。
 古書店で2万円した東海散士『東洋之佳人』が、今はタダで読める。こういうのはちょっと惜しい気もするが、膨大にある本を見たり読んだりできてありがたく、感謝して利用している。
 ところが、そうなると古書店は商売あがったりである。店終いした店も多そう。なんとも寂しい。 
 古書店のカタログを愉しみにしていたが、廃業したのか来なくなった。便利で無料、利用者は嬉しいが、生活がかかる方には災難。また、暮らしばかりか文化も痩せ細りそう。この事例、古書店ばかりとは限らなそう。
 それにしても、古本カタログとっておけばよかった。でも、少しはとってあり、「古本倶楽部別冊・お喋りカタログⅡ2008.09」に次の本があり、赤羽王郎がきになった。

 『虚実論』中川一政 教養文庫刊行会(赤羽王郎)初版 孔版刷 昭和22年6月21日 
  ―――戦後に旧作の詩を編纂したものですが、一政の著作の中では比較的珍しい一冊。さらには刊行者の赤羽王郎にご注目。
 自由主義的な白樺派教育の実践者として知られる赤羽は反発や排斥にあいながらも、日本各地を転々とし、さらに朝鮮、中国へも渡り、生涯を流浪の代用教員として過ごしました。また、赤羽は謄写版印刷の名手でもあり、これは彼が戦後に一年ほど滞在していた岩手・花巻での刊行です。

     赤羽 王郎 

 1886明治19年4月17日、長野県上伊那郡東春近村(伊那市)で生まれる。本名、赤羽一雄。
 1894明治27年、日清戦争。
 1904明治37年、日露戦争。
  ?年、旧制飯田中学校(長野県飯田高等学校)卒業。
  ?年、下伊那郡下の小学校で2年間、代用教員。
  ?年、東京美術学校学校図案課を卒業。
 1910明治43年、自殺未遂。
   武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎らが創刊した文学雑誌『白樺』を購読した若い教員たちは、個人主義の立場から「自己を生かす」ことを第一に掲げ、個人が人類の意志と結びつくとする人生観、トルストイズムやキリスト教的ヒューマニズムにたつ教育を実践した。
 1911明治44年、更級郡中津尋常高等小学校の代用教員。
  ?年、 諏訪郡玉川小学校に転任。
   この頃、来県した武者小路実篤に出会い、白樺派同人と交流を深め、以後長野県における白樺派教育の先導者となり、人道主義の思潮と芸術運動を盛り上げた。
 武者小路は赤羽王郎から依頼を受け、「かちかち山」「花咲爺」を子供向け戯曲として『白樺』に発表。

 1915大正4年、本科正教員となる。
   子どもを中心にして型をぶち破っていくような教育を展開する。
 1917大正6年、岸田劉生<「カチカチ山」表紙案>(笠間日動美術館蔵)。
 1918大正7年4月、埴科郡戸倉尋常小学校訓導となる。
   同僚の訓導・代用教員らと行った教育が村民と衝突する。

 1919大正8年、<戸倉事件>。 県当局から9人が退職・休職・譴責などの処分をこうむった。
 一切の教育差別を否定しようとしたり、児童読物購入のため学校備品の古書を売却したことが長野県議会で問題視。赤羽一雄(王郎)と滝沢万治郎は退職、羽田邦夫は休職を命ぜられ、中谷勲等数人は転任させられる。
 白樺派の自由主義教育は、長野県教育会の主流からはずれており、戸倉事件などへの支持者は少なかったのである。
   <南箕輪事件>。 笠井三郎が南箕輪尋常高等小学校に転任。柳宗悦の講演会やウイリアム・ブレイク展を7ヶ村で開催。赤羽とともに、柳宗悦の講演会、泰西絵画展・ロダン展を県内各所で開催。しかし、不快に感じ排撃するものがあり笠井は転出せざるを得なくなる。

  ?年、 長野を追われた赤羽は、東筑摩郡塩尻小学校、和田小学校、埴科郡戸倉小学校に赴任。
  ?年、柳宗悦の元に寄寓する。
 1921大正10年、柳の勧めで京城の中央高等普通学校に赴任。

 1922大正11年1月14日、
   ―――(1922大正11.8.15より)。あんなに準備した「プレークの絵画」と題する講演会は2時~3時半まで。ブレークの複製画は20余点。来場者は50人余。ブレークも知らない大半の朝鮮人、在住日本人に一生懸命知らせたい。良いものは知らせたいという思いが強い。この時、柳宗悦は33歳。巧は31歳、赤羽王郎は36歳独身(山梨民藝協会HP『浅川巧日記』を読み解く)。

 1923大正12年、鹿児島県で教職。妻の実家がある鹿児島県下の離島や辺地で代用教員を務める。

 1935昭和10年、松本で、雑 誌「地上」を創刊したり、謄写版印刷に従事(松本市教育会HP・人物小史)。
 1939昭和14年、周作人の知遇を得て中国大陸に渡って日本語を指導しようとしたが、中国語が出来ない王郎を雇う学校はなかった。
 1944昭和19年ごろ、帰国。各地を転々とする。
 1945昭和20年、敗戦。
 1953昭和28年、停年の後は、鹿児島県教育委員会事務局嘱託、県教職員組合教育研究会講師などを兼務、教育活動家として終生つらぬいた。

 1964昭和39年、再び妻の故郷である鹿児島に移住。
 1981昭和56年5月21日、鹿児島で死去。享年、95。
   正確な来歴については、正否の判定が難しい部分が多い。履歴書が流浪先で適当に書かれたものであり、来歴に関する具体的な口述が少ないこと、晩年は事実と本人の願望が錯綜したことを述べていたためである。

   参考:『長野県の百年』1983山川出版社 / 国会図書館デジタルコレクション・ ウイキペディア / コトバンク

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