紀行文も秀でている小説家、田山花袋
人流などという言葉、昔からあったのかな。コロナ禍の休日明け、テレビは繁華街の人出と感染者数を映して人流がどうのこうの。また、無症状の患者から伝染して入院したとかの話を聞くと我慢するしかないが、一方で遠出したい気持ちが募る。
今は紀行文で旅を味わうことにしよう。とりあえず、コロナ禍が終わったらすぐ行ける近場、昔の風情を伝えてくれる紀行文を探すと、田山花袋の『一日の行楽』があった。
東京近郊を淡々と描いているが読むほどに光景が思い浮かぶ。その中に東京都北区、JR赤羽駅の先にあった桜草の名所がでている。赤羽駅から新宿まで14分、上野まで20分、乗降客、買い物客で賑わう駅から歩いた先にサクソラソウの名所があったとは。
ちなみに、花袋が降りた赤羽駅は、京浜東北線・埼京線が停車する電車の駅ではなく、明治の汽車の時代の駅である。
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<浮間が原>(『一日の行楽』から)
浮間が原は桜草の名所だ。
そこに行くには、赤羽で下りて、工兵大隊の坂を上がって、大袋村から、浮間の橋をわたる。
停車場から十八町。
丁度中山道の戸田の渡しと汽車の通る鉄橋との間にある渡しで、その荒川の岸に出ると、あたりがぱつとひらけて、水の溶々として碧を湛えて流れてゐるさまや、地平線がひろく見渡されてゐるさまや、田や畠の遠く連なてゐるさまなどが人の目を惹く。やがて、渡頭(わたしば)の舟は静かに出て行く。暖かで春の日が水に映つてキラキラ砕ける。
向うから来る舟には、都会の娘の派手なパラソルなどが絵か何かのやうにあたりに鮮やかに見えてゐた。
川を渡ると、浮間が原である。一面、桜草で、丁度毛氈でも敷いたやうである。頗る見事である。
で、日曜、土曜などには、東京から女学生達が沢山やつてくる。女学校で、運動会に生徒を連れてきたりするので、桜草は採られ、束にされ、弄ばれて、娘達の美しい無邪気な心を飾る。花の中にゐる大勢の娘達――実際絵に描いた美しいシーンである。
・・・・・戸田橋を渡つて、その向こうにある戸田ヶ原にも八張、沢山桜草がある。ここまでは都の人は滅多に出かけて行かないけれども、のどかな春の日に、ぶらりぶらりとここらを子供でも連れて歩いて見ると、都会の煩労をすっかり忘れて了つたような心持ちがする。
戸田橋をわたつて、昔の中仙道を蕨の宿あたりまで行って見ても好い。
『東京百年散歩 田山花袋と「東京とその近郊」編』歴史町歩き同好会2011辰巳出版:田山花袋が歩いた、粗削りにして素朴な東京の郊外が愉しめる。地図付。
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花袋と言えば『蒲団』が有名だが読んだことない。実は、『蒲団』の解説や講評を読んだだけで自分の好みではないと、食わず嫌いしていた。それが、『明治の一郎・山東直砥』を書くため、明治の熱海を描いたものを探し、花袋の紀行文が気に入って参照した。
田山 花袋 (たやま かたい)
1871明治4年12月13日、栃木県邑楽郡館林町1462番邸に生まれる。外伴木と俗称された生地はのち群馬県編入される。
田山家は代々秋本藩士であった。父・鋿十郎、母・てつの次男。本名・録弥。
1876明治9年3月、母と上京。単身上京して警視庁第五区*邏卒の父の元に行く。
邏卒:巡邏兵卒の意で、明治初年の警察官。
1877明治10年、西南戦争。父は警視庁別働隊員として出征、熊本県益城郡で戦死。8月、母と帰郷。同年、館林東校に入学。
1881明治14年2月、上京。京橋の書肆・有隣堂の丁稚となる。10歳。
―――大きな風呂敷に本を包んで背中に背負い、主人の後についていく。丁稚は弟子の転語、花袋の例でいえば、商家に住み込みで雑役などする少年。朝、家人(雇い主)が起きないうちに起きて働く。家人が寝静まるのを待って床につく生活(『工手学校』)。
1882明治15年、丁稚奉公をやめて帰郷。館林東校中等に復学。
1883明治16年、漢学を藩孺・吉田陃軒に学ぶ。小説の習作を始める。
1886明治19年、一家で上京。『穎才新誌』(青少年投書雑誌)に漢詩文を投稿。15歳。
1888明治21年、神田猿楽町の日本英学館で英語を学ぶ。修史局(のち東大資料編纂所)書記の兄が結婚。
1889明治22年、和歌を桂園派の松浦辰男に学ぶ。
1890明治23年、日本法律学校(のち日本大学)に入学したが、数ヶ月で退学。上野図書館に通い濫読にふける。
1891明治24年、尾崎紅葉、江見水蔭を訪ね、以後、水蔭の指導を受ける。
1893明治26年、トルストイのコサックの翻訳出版、『コサアク兵』博文館。
1894明治27年、日清戦争。短歌「透谷君を悼みて」一首を『文学界』に投稿、それを機に『文学界』とも関係ができる。
1895明治28年、江見水蔭の紹介で中央新聞社に入社。4ヶ月で退社。
1896明治29年、島崎藤村、国木田独歩と相知る。
1897明治30年、独歩・太田玉茗(おおたぎょくめい)らと宮崎湖処子編『叙情詩』に詩集「わが影」37編を発表。
4月、独歩と日光の照尊院に行き、以後約2ヶ月共同生活をする。
9月、『南船北馬』。
―――花袋の紀行文集の中では『南船北馬』がもっともすぐれている。「多摩の上流」や「日光山の奥」の如き名編が、その中に収められている(小島烏水)。
1899明治32年、太田玉茗の妹・伊藤リサと結婚。博文館編集部に入る。
1901明治34年、この頃から、蒲原有明・柳田国男・川上眉山や兄の官吏仲間などとともに、柳田邸で定期的に文学の会合をもつ。
1902明治35年、「重右衛門の最後」発表。文壇の注目を集め、自然主義的傾向を示す。
1904明治37年、日露戦争。第二軍私設写真版の一員として博文館から派遣され、従軍。
花袋は半年間に渡って連載した「第二軍従征日記」に、第二軍軍医部長・森鷗外に世話になったことなども記している。国会図書館デジタルコレクションで読める。
1906明治39年、東京市外代々木山谷132に新築移転。文芸誌『文章世界』創刊、主筆。のちの自然主義運動の牙城となる。
―――新文章を指導した点で田山花袋の名は忘れられぬ・・・・・『文章世界』に文章講話という欄が設けられていたが、これは新文章の先覚者田山花袋の講壇であって、そこから、自然とか、センチメンタリズム破壊とか、傍観的態度とか、地方色とか、平面描写とか云ふ種々な標語が・・・・・花袋はこれからの文章の要素として「知識、観察、自然に近い主観の情」の三をあげた(徳田秋声)。
1907明治40年、短編小説「蒲団」を『新小説』に発表。
―――よかれあしかれ、この小説は自然主義文学の代表的作品といわれ、島村抱月・生田長江らの系列はこの作品の歴史的意義を認めている。これに対する夏目漱石・中村光夫らの系列は「蒲団」の客観性欠如を云々・・・・・漱石の*「田山花袋君に答ふ」の中で、<拵へものを苦にせらるるよりも活きて居るとしか思へぬ人間や、自然としか思へぬ脚色を拵える方を苦心したらどうだらう(後略)>・・・・・「蒲団」が部分的にでも道徳や慣習の仮面を剥いで事実ありのままのすがたを示してくれる作用をしたことは、大きな歴史的功績であったのである(『現代日本文学大事典』)。
ちなみに、「田山花袋君に答ふ」は漱石全集に収められている。
1909明治42年、長編『田舎教師』・『妻』、感想集『インキ壺』。
『生』『妻』『縁』の三部作を出して自然主義作者として確固たる地位を獲得。
1913大正元年、博文館退社。その後、博文館から紀行集を出版。41歳。
1914大正3年、「一握の藁」を中央公論に発表。スランプを自覚、精神的動揺が現れだした。
1916大正5年、『時は過ぎゆく』新潮社より出版。信州富士見の山荘に数ヶ月、全く孤独の生活を送る。
1917大正6年、「ある僧の奇蹟」を『太陽』に発表。作者の芸術上の一転機を画すもの。晩年は宗教への強い関心を示した。
―――明らかに自然主義を逸脱して宗教的な境地に入っている・・・・・理知と情意とのの融合をねらって象徴風に(小保方守治)。
『東京の三十年』博文館。「明治天皇崩御」「神田の大火事」「市区改正」など。
1918大正7年、「残雪」を頂点として、再び芸術の世界に落ち着き始める。
1919大正8年1月、『再び野の草に』出版。48歳。
1920大正9年、『水郷めぐり』博文館。その他の紀行集、『旅から』『山水處々』『一日の行楽』『温泉めぐり』『日本一周』『旅』。
1923大正12~13年、『花袋全集』全12巻。『花袋紀行集』第1~3輯刊行。
次は第2輯「草枕」中の<最上川>の評。
―――文語体の紀行文としてすぐれたものである。些かの佶屈なく、暢達平易の筆の跡を見るべきである。この作者は自然主義的傾向をもつた人であった。しかし、小説の外に紀行文作家として最もすぐれた手腕を有してゐる。範となすべきである(『女子国文選教授資料』)。
1924大正13年、『源義朝』。15年、『通盛の妻』。
―――歴史小説を展開するに及んでは心境愈々清澄を加へ、主観と客観との渾一を思わせるものが多くある。かくの如く花袋翁は晩年に至るまで、常に育ちつつあった作家である(小保方守治)。
1927昭和2年、『百夜』福岡新聞に連載。昭和10年、中央公論社から刊行。
1928昭和3年、10月、満州・蒙古を旅行。12月、脳出血で倒れる。
1929昭和4年、全快したものの、喉頭癌に冒される。
1930昭和5年5月13日、代々木の自宅にて死去。享年59。
没後、『決定版・花袋全集』刊行される。
参考:『館林郷土叢書』1938館林郷土史談館編(小保方守治) / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『女子国文選教授資料.巻9』1928明治書院 / 『日本文章史』1徳田秋声1925松陽堂 / 『アルピニストの手記』小島烏水1936書物展望社 / 『工手学校』茅原健2007中公新書 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『田山花袋集』日本近代文学大系19巻1972角川書店 / 国会図書館デジタルコレクション
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