ジャーナリスト松本英子(永井ゑい子)、みどり子
本は山ほどあって贅沢いわなきゃ読み放題。子どもの頃、周囲の大人が次々に本を持ってきてくれて読み物に不自由しなかった。
ところで、読書には勉強のイメージがあるらしく「将来、何になるの?」とよく聞かれ、「ただ読んでるだけ」と言っては拍子抜けされた。ぼーっとしたまま大人になって結婚。
夫は私の両親と気が合い、顔をだすと喜ばれた。お陰で、子育ては気兼ねなく実家を頼り楽をした。そんな風だから、「○○ちゃんのお母さん」と呼ばれても抵抗がない。
ところが、「△△の奥さん、○○のお母さんじゃなく、名前で呼ばれたい」という人がいた。はじめ、何でなの?と思ったが、考えてみれば、なるほど納得。
「名前で呼ばれたい」という彼女は、幾つかボランティアをしているが、気負いもなくサッパリしている。自立した彼女と話をすると何がなし前向きになるが、付け焼き刃ですぐ忘れる。それでも、自分なりに女子の活躍をを応援したいと思いつつ『海を越えた日本人名事典』にあった、松本英子に惹きつけられた。
幕末に生まれた明治・大正期のジャーナリスト。知識教養ばかりでなく、困難にある人々の力になろうとする行動がまた凄い人物である。
ところでこの松本英子を自分も知らなかったが、それほど知られていないようで不思議。手元の人名事典にも見当たらず、資料も少ない。江刺昭子著『女のくせに』があってよかった。
事績があるのに埋もれているのは女子だから?それとも足尾鉱毒事件を精しく記事にしたから?それとも渡米したまま生涯を終えたから? ともあれ、生涯を辿ってみよう。
松本 英子
本名・永井ゑい子。別名・松本栄子、家永ゑい子。筆名・みどり子。
1866慶応2年3月18日、上総国望陀郡茅野村(千葉県木更津市)で生まれる。
父の松本貞樹は農家の出身だが学問を好み、和漢学を研究し学塾を開く。貞樹は二女・英子に英才教育を施し、英子7歳の頃には村の道標や神社の幟など大人も及ばない達筆で書き、神童ぶりを示した。貞樹の英子に対する教育ぶりや思いは、『女のくせに』(鉱毒と闘った社会派――松本英子)に精しい。
1874明治7年、英子8歳のとき。噂を伝え聞いた県令から呼び出され、和歌を詠み、見事な書を書き県令を驚かせた。その後、父に連れられ上京、*津田仙の家に世話になる。
津田仙:農学者・教育家。旧佐倉藩士。幕臣津田家の養子となり外国奉行の通訳、福澤諭吉らと渡米。明治以降は在野で活躍。農業雑誌を刊行、熱心なキリスト教徒として複数のミッションスクールの創立に協力。津田塾を創設した津田梅子は仙の次女。
1883明治16年、津田が設立した三田救世学校の生徒兼教師となる。また、熱心なクリスチャンとして伝道にも従事。
1884明治17年、自身も学びつつ英語の訳読とバイブルを講義。
1886明治19年、女子高等師範学校入学。ここでも助教師の資格で在学中、米人教師の通訳をつとめた。
1890明治23年、卒業。
1891明治24年10月、濃尾大地震。岐阜・愛知県一帯に発生。
マグニチュード8・0の巨大地震で、死者7.273人、負傷17.000余、全壊家屋14万余、半壊8万余、道路破壊2万余、山崩れ1万余という大災害。これをきっかけに翌年、震災予防調査会が設立される。
英子はバイブルウーマンとしての経験を生かし先頭に立って救済活動を展開。慈善バザーや演芸会を催し多額の現金を被災地に送った。
1892明治25年ごろ、外務省翻訳官・家永豊吉と結婚。
1895明治28年、長男・勝之助を出産。この年、父・貞樹を喪う。
?年、 家の破産により一家離散に見舞われ、結婚生活は長く続かず、松本姓にかえる。
1898明治31年、下田歌子の華族女学校へ奉職、英語と家政を教える。
1900明治33年末、同じく教鞭をとっていた津田梅子に次いで、英子も辞職。
この頃、英子はワーズワース、テニソン、スペンサーなどの詩を翻訳し出版を予定していたが実現しなかった。
1901明治34年、わが国最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』後身の毎日新聞に入社。この新聞社は社長の島田三郎が、足尾鉱毒問題・婦人問題・廃娼問題に熱心であった。
―――当時、足尾銅山鉱毒事件が大きな問題となって世間の耳目を集めていた。島田三郎、木下尚江らのいる毎日新聞社は、被害農民の側に立って論陣を張り世論を高めていたが、そうした状況下・・・・・英子も鉱毒地を視察、その悲惨さを目のあたりにし、真正面から取り組むことになる。「みどり子」のペンネームでルポルタージュを連載。
11月25日から翌35年2月まで59回にわたって続いたこのルポルタージュ記事は大きな反響を呼び、被害農民支援活動の推進力の一つともなる。田中正造の天皇直訴事件などもあり運動は勢いを増していったが、それと同時に政府の弾圧も厳しくなり、彼女も取調を受ける(『海を越えた日本人名事典』)。
1902明治35年秋、37歳。連載記事を本にまとめた後、新聞社を辞めて渡米。
―――英子はなぜ突然渡米したのだろう。府馬清氏の『松本英子の生涯』には、渡米前の英子が内村鑑三に何かの相談を持ちかけたらしい・・・・・この一件は何なのか。英子と*左部彦次郎の恋愛問題をさしているのだろうか。左部は東京専門学校卒業後、田中正造に信頼され、早くからその片腕となって苦しい闘いをしてきた人である。英子より一歳年下だが、二人の親密さは運動関係者の周知の事実だったと、萩原進著『足尾鉱毒事件』にある。英子渡米より少し後だが・・・・・左部も謎の転身をとげている(中略)・・・・三十七歳の英子をして唐突に海を渡らせたものの正体ははっきりしない(『女のくせに』)。
左部彦次郎: けやきのブログⅡ2010.7.13<足尾鉱毒事件 左部彦次郎のなぜ> ・ 「足尾鉱毒事件と左部彦次郎」桑原英眞2019群馬文化338号。 『左部彦次郎の生涯』安在邦夫2020随想舎。
アメリカの英子は、シアトル・シカゴ・ニューヨーク、やがて世界大博覧会を開催していたセントルイスへに赴き、看護婦や通訳、あるときは翻訳と寸暇を惜しんで学び働いた。やがて、サンフランシスコに移る。
1905明治38年、サンフランシスコで保険代理業をしている永井元と結婚。
永井は群馬県人で渡米前、廃娼運動をリードしていた。渡米後、『金門日報』を創刊したジャーナリスト。英子にとって終生の好伴侶であった。
4月、サンフランシスコ大地震。英子は元の協力を得て被災者の救援を行った。
7月、カリフォルニア大学の夏期講習会に夫婦で参加。英子はそのまま、バークレイにとどまり勉学を続けた。
1912明治45年4月、カレッジ・オブ・パセフィック大学を卒業。
以後、それまで経済的に支えてくれた夫の保険の仕事を手伝い、業績を上げる。その仕事のかたわら『在米婦人新報』など日刊新聞、週刊誌、雑誌などに寄稿を続けた。
日系の新聞雑誌に発表した散文や和歌に、非戦を主張したものがかなりみられる。
人と人の その真心よ 通えかし
国と国との 境なきまで
1914大正3年、第一次世界大戦。英子は戦争を否定、平和を望む強い思いを詩に託す。
―――人類愛を目指し、その思想に生きた彼女の姿勢が詩の一編一編から読み取れる。卵巣癌のため臥床しながらも日記を書き続けた(『女のくせに』)。
1928昭和3年4月23日、死去。享年63。
―――ガンに力尽きた英子は、愛する夫に抱かれて、天上の館に還った。永遠に眼を閉じる二週間前に詠んだ辞世の歌。
下界には あまりに清し 天つ代を
夢みて月の かく照らすらん
一周忌。愛を確かめ合った元によって「永井ゑい子詩文」が自費出版される。
参考: 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』2005日外アソシエーツ / 『女のくせに-草分けの女性新聞記者たち』江刺昭子 1997インパクト出版会 / 『日本史年表』1990岩波書店
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2023.4.7に寄せられたコメント。筆者をはじめ同感の人が多そう。
――― 正義感のある人がいたんだな。
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コメント
ご存じかも知れませんが最近、下記の情報がありました。松本英子という人物はやはり稀有な実行力の塊のような方ですね。左部彦次郎との噂はやはりあったようですね。
(「永井英子の信仰・愛・人生」―自分を貫くということ―(小林 瑞乃) 『青山学院大学 ジェンダー研究センター年報』第1号(2021)pp.36-54, 2022年3月20日発行 https://ac.cdn-aoyamagakuin.com/wp-content/uploads/2022/03/jyenda_nenpou_2021.pdf)
投稿: 桑原英眞 | 2022年9月17日 (土) 08時03分