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2021年7月10日 (土)

明治の評論家・紀行文の名手、大町桂月とゆかりの人物

 コロナ禍。ステイホームも2年、諦めつつも旅が恋しい。交互に行く先を決めている旅友から「コロナ収束したら、まずは温泉だよ」と電話。私は何処に行っても図書館・資料館に入りこむから、それがなさそうな所を言われた。その友と土佐の桂浜で坂本龍馬の銅像を見たことがある。そこは大町桂月の故郷でもあり、桂月の号はその浦戸湾口、月の名所でもある桂浜に由来するそう。
 さて、桂月を知ったのは与謝野晶子“君死に給ふこと勿れ”の一件。桂月を快く思わなかったが、『明治の一郎・山東直砥』で桂月著『後藤象二郎伝』を参照、桂月に興味をもった。
 その大町桂月は多方面と交際があり著書もきわめて多い。桂月が書いた同時代の文学者評なども引用しつつ見てみた。

     大町 桂月    (おおまち けいげつ)
 1869明治2年1月24日、土佐の高知で生まれる。
   父は通。母は多賀氏の3男。本名は芳衛。
 1880明治13年、父が他界。母と上京、大叔父の家に寄寓。番町小学校に通う。
 1883明治16年、千頭清臣の紹介で明治義塾の学僕。英学を学ぶも漢書と詩文に耽る。
 1884明治17年、原要義塾に入りドイツ学を学び、翌年2月、独逸協会学校入学。
 1886明治19年9月、第一高等中学校入学。
 1888明治21年、杉浦重剛の門生となり称好塾で学ぶ。
 1893明治26年、帝国大学国文科入学、29年卒業。『帝国文学』編集委員。
   美文・評論など発表。落合直文「浅香社」で塩井雨江を知る。
 1896明治29年、『(美文韻文)花紅葉』を雨江・竹島羽衣とともに編集刊行。
   詩のアンソロジーとして注目され、美文は対象に寄せる愛情の深さと国民精神の高揚に特色。
  ―――漢文を作り絢爛の文章を作ったが、その後、平淡となり、なるべく古い漢語をさけて、耳に聞いて解るような文章に・・・・・文字に拘束せられずに、自分の思想をありのままに表現するように努められた(鳥谷部陽太郎)。

 1897明治30年、『契沖阿闍梨』刊行。国学者としての契沖の業績を評した。
   この頃から、全国をめぐって数々の紀行文を書き、次第に第一人者となる。また、初期には国粋的傾向を有して文壇を軟弱と批判する硬派評論家としても活躍。
 1898明治31年、『(美文韻文)黄菊白菊』を刊行。
   雨江・羽衣らと大学派と呼ばれ、ますます名声を高めた。
 1899明治32年、家庭の事情などから島根県嵌川中学校教員となる。
 1900明治33年、帰京し博文館入社。
   『太陽』『文芸倶楽部』などに文芸評論・随筆・紀行文など次々に発表。本来の旅行好きもますます嵩じて全国を旅する。酒と旅を愛する東洋的文人の一典型ともいわれる。
 田山花袋は、桂月を評し、「いかにも天真流露。文語調で自然で闊達、洒脱、素朴な人間性を感じさせる紀行文に独特の味を見せた」。

 1901明治34年、福澤諭吉死去。<福澤翁を弔ふ>
    ―――翁は君子に非ず、豪傑に非ず、されど、一種の偉人也。教育家として、明治の先覚者として、社会の指導者として、西洋文明輸入者として、一種の事業家として、また操觚者(文筆に従事)として、明治年間、最も大なるものの一人也(『一枝の筆』)。

 1902明治35年9月、正岡子規死去。 
     鎌倉や畑の中に月一つ
 さすがに俳句の大家、正岡子規なり。国破れて山河あり、邸閣の跡は、今、畑となる。天辺一輪の月、曾て昔の繁華を照らし、今の寂寥を照らす・・・・・千古の絶唱。子規の傑作。芭蕉の「夏草やつはものどもの夢の跡」にまさりこと万々なり(桂月)。
    12月、高山樗牛死去。
   ―――死生、命あり。樗牛の如く、多く活動したらむには、三十年の生涯も短しとはせず。花々しきかな、樗牛の一生。明治の世、才人多し。されど樗牛の如く、花々しきもの、果たして幾人かある。われ等凡人の一生は、牛の重荷を負うて、のそのそ歩むが如し。樗牛の一生は、駿馬の名人を乗せて走れるなり。電気の空にきらめけるなり(桂月)。

 1903明治36年、<幸田露伴の近業>
   ―――嗚呼、昨今の文壇は、露伴の文壇乎、抑も文壇の露伴か、多謝す、この大家、旧によりて好在也・・・・・久しく沈黙せし露伴、昨年九月より、読売新聞に「天うつ浪」といふ大小説を出しはじめたり・・・・・中略・・・・・今の多数の小説家は、ただ漸く情の人を描き得るも、智の人、意の人を描く能わざるに・・・・・この点に於いて、露伴は先ず当代唯一の大家なり・・・・・中略・・・・・軍人に広瀬中佐を出したるを以て、国家も、国民も、国の宝とし、栄誉とすべき也・・・・・(桂月)。

 1904明治37年、日露戦争。<旅順閉塞船>
   ―――記せよ、明治三十七年二月九日の日を。ああこれ仁川に、旅順口に、日本の海軍が、露国に向つて、はじめて、砲火を開きたるの日也。露国がはじめて我北辺に冠してより、茲に幾(ほと)んど百年・・・・・露国の陸兵は、既に満州の野に充てり。旅順港に浦塩港に、彼の艦隊はあつまれり・・・・・我兵が海を渡りては、満州に往かむには、彼の艦隊に邪魔せられむこと必せり。我国は、先づ海上権を我手に収めざるべからず・・・・・中略・・・・・旅順口閉塞に際して、広瀬中佐、杉野兵曹長以下二名戦死し・・・・・嗚呼中佐年三十七、久しく露国にありて、敵の事情に通ぜり。温厚にして学すぐれ、智すぐれ、情誼にあつくして、勇気世に絶ず。まことにこれ軍人の好模型にして、国家の亀鑑也・・・・・死して軍神と仰がるる・・・・・花は桜木、人は武士・・・・・(桂月)。

   9月、与謝野晶子、雑誌『明星』に<君死にたまふこと勿れ>発表。
   ―――旅順の総攻撃で多くの戦死者がでた直後、与謝野晶子は旅順口包囲軍中にある弟を思い、「君死にたまうことなかれ、旅順の城はおつるとも、おちざるとてもなにごとも」を発表した。弟を思う気持ちが戦争反対だけでなく、天皇批判にまで及んだため、大町桂月は雑誌「太陽」で「日本国民として許すべからざる悪口なり。国家の刑罰を加うべき罪人なり」と罵倒した。これにたいし、上田敏、馬場孤蝶および与謝野鉄幹らは「君死にたまうことなかれ弁護の演説会」を計画して新聞「日本」に予告(『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』)。

 1905明治38年、夏目漱石『ホトトギス』に「吾輩は猫である」掲載しはじめる。
   ―――(桂月の夏目漱石論) 絶代の奇才といふべき哉・・・・・『吾輩は猫である』を著すに至りて、夏目漱石の奇才、ここに始めて穎脱せり。啻に其作が奇抜なるのみならず、大学教員にして、而も四十歳近くになりて、始めて小説を草し、而も其小説が文壇を風靡するといふ事実が奇抜也・・・・・漱石は、滑稽をも兼ねたり。「かみなりのづに乗りすぎて落ちにけり」はまだ月竝の痕跡もあれど「某は雀にて候案山子殿」などに至りては、滑稽の妙をきはめて、よく漱石一家の特色を発揮せるものなり・・・・・中略・・・・・
 苦沙彌先生、二杯の晩酌の處を四杯まで飲み過す。細君苦々しき顔をます。先生曰く「桂月が飲めと勧めたり」「桂月とは何ぞ」「さすがの桂月も、細君に逢っては、一文の価値もなし。桂月は現今一流の批評家なり」・・・・・「酒のみならず、交際をなして、道楽をして、旅行をしろとすすめたり」細君柳眉をさかだつる・・・・・漱石の作、冷かなるやうなれども、真に冷かなるに非ず。腹には、万斛の涙ある人なり。されど、自ら修養するところ深く、理性も発達せり。生死得葬の上に超脱す・・・・・。

 1906明治39年、博文館退社。
   以後、貧しい生活の中で自由な文人生活を楽しみ、各地を旅行。
 1907明治40年、『日本文章史』。桂月は教科書・学生訓・文章史・規範小説など多くの著作があるが、人格に結びつく文章を説く文章論の影響は大きい。
 1908明治48年、<奥羽一周記>発表。鳥谷部春汀・平福百穂らと十和田湖を訪ね、その風景美を一般に知らしめた。わけても十和田湖に近い蔦温泉を愛し、その地で没する。
 1909明治42年、『関東の山水』『鎌倉武士』『源氏と平氏』など刊行。
 1911明治44年、<当代の芸術> 
   ―――独創の域に至れるものは、未だ、之あらず。明治30年代までの日本の文学・文化を過渡期のそれと見なし、的確に、時には辛辣に状況に即した批評(桂月)。

 1925大正14年6月10日、青森県上北郡奥沢村(十和田市)にて死去。享年56。
   ―――(桂月、我が子に)この父は短所は多いが男らしいといふ気象は大いに持つて居るつもりである・・・・・文章は自他共に許した所である。自由な筆法実に縦横無碍である。
   ―――彼は大の吃音なり、而も、その演説が常に学生間に受けられて、三宅雪嶺と共に訥弁の雄弁を以て称せらるる亦珍ならずや(『近代土佐人』)。
 桂月はまた偉人の評伝を数多く残した。ジャンルにとらわれず、幅広い視野からさまざまな文章を発表、後代に与えた影響力は大きい。発表された紀行文は500編を越す

   参考:『十人十色名物男』大町桂月1916実業之日本社 / 『中学新国文備考. 巻9』1926金港堂 / 『大正畸人伝』鳥谷部陽太郎1925三土社 / 『一枝の筆』大町桂月1907今古堂 / 『近代土佐人』片岡仁泉1914土陽週報社 / 『我が半生の筆』1915広文堂書店  / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『明治時代史大辞典』2021吉川弘文館 / 国会図書館デジタルコレクション

 

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