江戸生まれの水道工学者、川上新太郎
2020東京オリンピック閉幕、空港は帰国する選手で混雑という。次いで、パラリンピックが開催される。両大会とも国内外の選手は競技はむろんコロナにも負けられない。海外と往来が簡便なのはいいが、新型コロナウィルスのような怖いものも簡単に国境を越えてくる。
コロナ禍、感染者が増え続けているため、帰省や旅行を控えてと国や自治体が呼びかけるが、出入国せざるを得ない人もいるだろう。
ところで、現今の海外渡航者数は一体どれほど?見当もつかない。これがペリーの黒船来航から明治期の海外渡航は一大事業、人数が限られる。「海外渡航者総覧」などで、有名無名を問わず渡航目的、職業、事績、略歴を知ることができる。
それらを見ていると、世に役立つ仕事をし、成果をあげているにも拘わらず、無名人物が少なくない。
とくに土木施工、技術畑など実務に長けた人物が埋もれている気がする。各々の専門に特化した事典で紹介されている人物もいるが、世に知られないのは惜しい。
そうした人物はおそらく、名が知られることより学問仕事が世に役立つことを喜びとしていそう。水道工学者、川上新太郎もその一人と思われる。
川上新太郎に感心するのは、すぐれた技術と実行力はもちろん、多額の公費を無駄にしない設計をし常に工費節約をも考え実行していた点である。世の中のため人のため智恵を絞っていたようだ。技術ばかりでなく、こうした人智も受け継がれているといい。
川上 新太郎
1858安政5年6月27日、江戸に生まれる。
6月19日、日米修好条約締結。下田奉行・井上清直(川路聖謨の弟)、神奈川でハリスと結ぶ。
1868明治元年1月、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争始まる)。
9月8日、明治と改元。新太郎10歳。
1883明治16年、東京大学理学部機械科を卒業。
1884明治17~22年、*東京職工学校(東京工業大学の前身)教員を勤める。
教授嘱託・ 川上新太郎 。応用重学、発動機、機械学大意(「東京職工学校一覧」)。
1889明治22年、東京職工学校辞任。アメリカに私費渡航し機械製造業を視察。
<東京職工学校>1881明治14年創設。
1882明治15年、文部省より東京市浅草区蔵 前東片町に浅草文庫の建屋を交付され校舎新築。明治初期の工業教育機関は、工部大学校(東京大学工学部の前身)と東京職工学校の2校だけであった。前者がイギリス人をスタッフに迎え、鉱山・土木・電信など国土経営に関する指導者養成を目指したのに対し、後者は英独仏の大陸欧州諸国の技術教育に関する調査に基づき、製造現場および工業教育の指導者養成を目的として、化学工芸科および機械工芸科の2科で発足。その後、学科課程の分化拡充を経て、東京高等工業学校となり、その所在地から長く「蔵前」と称された。1923大正12年、関東大震災により壊滅的被害を受けたのを機に市外の東京府荏原郡大岡山に移転。戦後も拡充を続け、2018年には指定国立大学法人となる。
1891明治24年、帰国。東京石油に入り、再び渡米。
1892明治25年、帰国。東京市水道技師となり、淀橋浄水場の設計を担当。
日本初の直送式喞筒(ポンプ)を採用して水塔の建設費を節約した。
1894明治27年、日清戦争。
1896明治29年、第5区土木監督署勤務、直轄工事部勤務。
1896明治29~31年、土木監督署技師に就任。上水道関係機械の設計などで活躍。
1899明治32年、工学博士の学位を受ける。
?年、大久保に農具などの機械製造所を開設。
?年、 新潟・神戸・佐賀・横須賀などの上水道関係機械の設計。
各市の水道工事に有利な設計を施し、200トン以上の大型浚渫船その他*内務省土木用機械は、当時みな輸入品だったがわが国で建設する案をたてる。
内務省:大久保利通により大蔵・司法・工部など各省と警保寮から勧業行政と治安維持の関係部局を引き継いで設置。
―――「発明に見る日本の生活文化史」農具3シリーズ 第2巻 踏車・水車。
特許番号 第4242号 踏機 日付なし、川上新太郎(国会図書館リサーチナビ)。
1903明治36年、岐阜県海津郡石津村に日本初の水田排水工事を完成させ、模範となるなど土木工学の分野で業績を上げる。
1904明治37年、日露戦争。
1906明治39年、大宝排水機場。
愛知県海部郡飛島村、大宝家10代目の大宝陣が、各地の状況をつぶさに視察、当時の最先端をいく排水機場(ドイツ製大型渦巻ポンプを輸入設置)の建設を企図。基礎工事は工学士・青木良三郎、機関部は工学博士・川上新太郎が担当し完成させた。
<湛水から村民の命を守った2台のポンプ>
飛島村の大宝新田は、江戸時代に開拓されましたが、土地が低いため、開拓しても排水ができず、長い間湛水(水がたまること)被害に苦しんできました。そこで明治39年に大地主で貴族院議員だった大寳陣氏が私財を投じて最新鋭のドイツ製ポンプ2台を設置。飛島村の人々の命と暮らしを守った大宝排水機場を保存館として大切にしています。
<日本最古の大型渦巻ポンプが見られる!>
展示されている大型渦巻ポンプは、現存するポンプとしては日本最古のもの。保存館ではこの貴重なポンプを内部のインペラが見えるように外側をカットして展示しているので、どのように動いたのかかがよくわかる仕組みになっています。普段は施錠されているため、見学は教育委員会生涯教育課まで電話で申し込みが必要(飛島村大宝排水機場保存館 とびしまむらおおたからはいすいきじょう)。
1911明治44年11月、正七位工学博士。
<大阪市の上水道>
近隣町村の編入により拡張工事が必要となり、第1回の拡張工事、88万余円を投じて鉄管35里余を延長。
1901明治34年12月、竣工。
1908明治41年、大阪水道拡張工事設計にあたり川上は、水源地を柴島に選定し、直接に市街鉄管へ送水せしめ、吹田在高地に貯水池設置の原案よりも多額な工費を節約した。
1909明治42年、80万人に給水可能となったが、急激な人口増で水不足。
1914大正3年3月、大阪府西成郡中島柴島(東淀川区柴島町外五ヶ町)に一大水源地を設け、従来の自然流下式と異なる喞筒(ポンプ)直送式によって市内に配水。
1919大正8、人口増加で需要が増し第3回拡張工事。大正11年、竣工。
1922大正11年、公益に尽くした功により紺綬褒章。
1929昭和4年6月19日、死去。享年72。
参考: 新訂増補『海を越えた日本人名事典』2005日外アソシエーツ / 『日本人名大事典』(新撰大人名辞典)1937平凡社 / 『20世紀日本人名辞典』2004日外アソシエーツ / 国会図書館デジタルコレクション
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