誰でもスポーツ、支援のため力を尽くした中村裕
連日、九州をはじめ広島から東日本まで豪雨が止まず、災害を引き起こしている。被災地の映像の上に何カ所もの市町村名が記され、避難が呼びかけられている。
九州の知人、自分は無事と言いつつ捜索隊の消防団員を案じていた。災害の怖ろしさと同時に助け合う地域のつながりを尊く思った。どうか、無事でありますように。
今年の終戦の日は、止まない豪雨、蔓延するコロナ禍でさらに重苦しい。
次はたった1頁ながら令和の日本と昭和が並ぶ紙面。
――― <76回目終戦の日> 写真(全国戦没追悼者式に臨まれる天皇、皇后両陛下)・惨禍の記憶継承誓う・高齢遺族 風化を懸念・「天皇陛下おことば 全文」・「菅首相式辞 全文」。
――― <恋いも日常も奪われた> 写真(『戦争と私』著者・貝谷アキ子さん)・名古屋の95歳「戦争と私」出版。
――― <寄付されたグラブ原点> 写真(福島大会決勝で力投する日大東北・吉田投手)・第103回全国高校野球・原発事故で古里(大熊町)追われ。
――― <卓球Tリーグとパートナー契約・毎日新聞社> <王将戦リーグ 藤井王位復帰> <金メダルかじり給与3ヶ月返上> <お盆の国内線利用 コロナ前の4割> <王位戦第4局、豪雨で対局場変更> <NIE、札幌で全国大会> <福島第1原発正門周辺の空間放射線量率>(令和3年8月17日、毎日新聞朝刊・25面)。
さて、2021年8月24日、2020東京パラリンピック開催!
―――1964年東京パラリンピックの正式名称は第13回国際ストーク・マンデビル競技大会だった。パラリンピックの起源となった英国の病院名が冠せられている本来は下半身麻痺の人のための大会で、「パラリンピック」は下半身麻痺を意味する「パラプレジア」にちなみ、東京大会の際に日本で命名された愛称だ・・・・・大会開催に尽力したのは「日本パラリンピックの父」と呼ばれる故中村裕さん(2021.8.14毎日新聞)。
中村 裕 (なかむら ゆたか)
『東京パラリンピックをつくった男』参照
1927昭和2年、大分県別府市で生まれる。父・中村亀市、母・ヤエ(八重)の長男。
1939昭和14年、福岡県立福岡中学入学。翌年、大分県立大分中学に転校。
1845昭和20年、太平洋戦争敗戦。大分中学を卒業。
1946昭和21年、九州大学付属医学専門部に入学。
1950昭和25年、23歳。九州大学付属医学専門部特待生。
1952昭和27年、九州大学医学部整形外科医局に入局。医師免許取得。
1957昭和32年、30歳。「手指運動の筋電図学的研究」により医学博士。
文部教官に採用、九州大学医学部整形外科リハビリテーション係となる。
1960昭和35年、33歳。リハビリテーション研究のため欧米に出張。
まずはアメリカに行き、リハビリテーション設備を視察。次にイギリスに渡り、ストーク・マンデビル病院の脊髄損傷センターで、ルートヴィヒ・グットマン博士と出会う。
グットマン博士:ストーク・マンデビル病院長。ドイツから亡命したユダヤ人医師。脊髄損傷センターを設置し戦傷者の脊髄損傷患者の治療にあたる。リハビリテーションの一環として手術よりスポーツの効用を唱えた。
―――病院に隣接するグラウンドでは、、理学療法士に付き添われた車いすに乗った患者が汗を流しながら走行。体育館ではバスケットボールや卓球などに興じていた。それを見舞いに来た親族や知人だけでなく、ボランティアで来院した地元住民も温かい目で見守っていた。スポーツをする患者を眺めながら、中村裕を傍らにグットマンは・・・・・ ここでは「6ヶ月間の治療と訓練で脊髄損傷患者の85㌫は何らかの形で社会復帰させる」・・・・・「失ったものを数えることなく、残されたものを最大限に生かす」
―――ストーク・マンデビル病院に滞在中の中村裕は・・・・・誰もが厭がる夜勤を自ら申し出るだけでなく、回診の際はノートとペンを手にグットマンに密着してメモをとった・・・・・帰国するや中村裕は、部下の医師や若い看護師のほか、職員までも回診のメンバーに加えた・・・・・障がい者にスポーツを推奨うるために大分県内を奔走・・・・・
1961昭和36年、大分県身体障害者体育協会を設立。第1回大分県身体障害者体育大会を開催。
1962昭和37年、国際ストーク・マンデビル競技大会(ISMG)。選手二人連れて参加。
1963昭和38年、第1回 国際身障者競技大会(オーストリア)、国際ストーク・マンデビル競技大会に日本選手団団長として参加。
1964昭和39年、第4回大分県身障者大会にグットマン博士を招く。
11月、東京パラリンピック(国際ストーク・マンデビル競技大会)日本選手団団長。
1965昭和40年、日本身体障害者スポーツ協会評議委員。「太陽の家」開所。
1966昭和41年、水上勉の支援により「太陽の家」東京事務所を開く。
大分中村病院を開院。
水上勉:小説家。社会派作家。また女性の悲しさや宿命を描いた『五番町夕霧楼』など。
1968昭和43年、第3回パラリンピック(イスラエル)日本選手団団長。
1969昭和44年、日本パラプレジア医学会にて「重度障害者のドライバーテスト」「重度身体障害者の労働医学的研究」ほかを発表。身体障害者スポーツ振興に寄与「高木賞」。
1972昭和47年、45歳。身体障害者福祉工場並びに「オムロン太陽電機」創業。
パラリンピック(ハイデルベルグ)の日本選手団団長。アフリカ諸国を旅行。
1974昭和49年、中国スポーツ視察団が来訪。国際リハビリテーション協会の身障者技術援助委員会(リスボン)出席。
1975昭和50年、身体障害者の社会復帰に貢献した功績により「吉川英治文化賞」受賞。
太陽の家10周年。第1回フェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)事務局長。
1978昭和53年、「太陽の家」精機科創業(本田技研工業と日本精機の協力によりオートバイ用スピードメーターとタコメーターを製造)。
1983昭和58年、第3回大分国際車いすマラソン大会開催。
1984昭和59年1月、永年にわたり身体障害者福祉に貢献、「朝日社会福祉賞」。
第1回国際障害者レジャー・リクレーション・スポーツ大会(RESPO)開催・中国にスポーツタイプ車いす66台寄贈・国際パラプレジア医学会よりシルバー・メダル。
7月23日、死去。享年57。
―――医師・中村裕は世間の物差しでは測れない希有な人間である・・・・・類いまれな行動力――。これこそが中村裕の真骨頂であろう。努力してもなかなか酬われない、弱者である身障者に光を与え続け、彼ら彼女らの人生の羅針盤となったのだ。
参考: 『中村裕 東京パラリンピックをつくった男』岡邦行2019ゆいぽうと
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ゴールボール
パラリンピックのいろいろな競技が紹介されているが、全員が視界完全遮断というゴールボールを見てみたい。
だいぶ前、点訳ボランティアの会に入っていた。会では最終校正を盲人の女性にお願いしていた。
私などよく見直したつもりでも必ず間違いをチェックされ、その知識と注意力に感心するばかりだった。「目明きは文を丸ごと読んでしまう」らしい。その人は働いていてボランティアで参加、皆に頼りにされていた。
あるとき盲導犬と来る人と雑談。スカート丈の話になり「短めが流行」といったら「裾上げしなくちゃ」もちろん、自分でするのだ。おそらく、ゴールボールの選手たちもハンデ以上の活躍するに違いない。
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けやきのブログⅡ<2014年8月 9日 障害者スポーツ&金メダリスト成田真由美(神奈川県)>
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